
なぜ私は開票速報が好きなのか
私は若い頃はあんまり政治とか選挙などには興味がなかった。でもやっぱ年取るとだんだん興味を持つようになるもんだと思う。どうしてそうなるかというのは理由がたくさんあると思う。やっぱ年取ったほうが見たニュースの絶対量が若い人より多いから政治とかの知識も増える。知識が増えれば興味も増すだろうし。それと、昔よりも今のほうが政治が面白くなってると思う。昔は国会議員なんて、世襲か官僚が多くて、それ以外の人がなることは難しかったと思う。県知事なんかだいたい中央の官僚が自民党に言われて立候補して、なんていうパターンが多かった。中央のキャリア官僚はそりゃ優秀だろうが、面白みだけはない。そういう人たちが政府の要職とか知事とかやってるから、出てきても、色にたとえたら灰色のくすんだ感じしかしなくて、言ってることは、そりゃ完璧かもしれないけど、面白みがない。
今はだいぶ変わった。昔は官僚出身の首相って多かった。吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳、中曽根、宮澤と、官僚出身の人が総理になるのが標準的で、その間に、角栄、三木とか時々官僚出じゃない人もいたという感じだ。中曽根内閣の時なんか後藤田官房長官も官僚出身だった。昭和時代はずっとそんな感じだったが、平成時代以降、官僚出身の総理は宮澤内閣が不信任決議されて55年体制が終わった後は、1996年の橋本龍太郎が最後の官僚出身の総理大臣で、以後四半世紀以上官僚出の総理は出てない。かわりに総理は二世議員だらけになってそれはそれで問題だが、少なくとも世襲議員はTVに出て何か話をしても面白いことを言えて人気者が多い。小泉進次郎、河野太郎、田中真紀子、安倍晋三、麻生太郎(←厳密には世襲ではない)などなど。
最近は組閣をしても半分ぐらい世襲議員だったりすることもあるけれど、しかしこないだの都知事選なんかみると、カオスなほど色んな種類の人たちが立候補するようになっている。中には候補者が演説してる近くで邪魔したりする立候補者もいて、これは民主主義の根幹を脅かす深刻な事例なので面白いと言ってはいけないのだが、しかしこういうのを見ると政治とか民主主義とか選挙というのを考える強いきっかけになると思う。N党とか、他にもヤバい政党がいろいろ出て、私が若い頃の灰色で退屈な選挙とは全然違っていると感じる。
昔、ハンチントン「文明の衝突」という本があった。私はついに読まなかったが、彼は世界の文明を7つか8つぐらいだったと思うが分けて、日本は他の文明から独立した一つの文明圏で、国と民族と言語と宗教性の境界がぜんぶ一致した非常に珍しいだったか世界でただ一つだったかの文明圏だと。正確じゃないかもしれないがそんな感じのことを言っていた。たとえばカナダでもオーストラリアでも、自分たちと同じ英語を使ってる国は他にいくらでもあるけど、日本語を話して安定的に文化発信をしてる場所は日本以外にはない。南米や台湾などに日本語で短歌詠んでる人たちがいて本も出した、ぐらいがせいぜいで。
つまり、日本という文明圏は一体性が非常に強い。ハンチントンの論は、日本ほど強い一体性を持つある程度の規模を持った国は世界じゅうで他にない、と言い換えることができると思うし、実際そうだと思う。国内ではどこに行っても日本語が通じて、日本語以外のものは通じない。宗教だって、キリスト教徒は1%ぐらいで、他の宗教は微々たるもので、あとは日本人独特の、仏教徒なのか神道なのかよく分からない感じで、お寺の中に神社の鳥居があって、「え?あそこお寺だったの?神社だとばかり思ってた」みたいなところもあって、人々に聞いても自分は無宗教だと言うけど、「今度生まれ変わったら何になりたい?」って聞いてもみんな違和感なく答えたりする。「え?死んだら天国に行って神様と永遠に過ごすから生まれ変わったりしないよ」なんて違和感を表明してくる人はまずいないだろうし。売春してる女性が「私がいいって思って相手もいいって思ってるのに何がいけないのか?」って言われたら、日本人はいちおう反論するかもしれないけど、心の中では「それもそうだな」って思う人がほとんどではないか?擬態語だって、なぜ流暢に話すことがペラペラでキャンディを舐めるのがペロペロなのか、なぜシールを貼るのがペタペタでカップルがいちゃつくのがベタベタなのか、逆ではいけないのか?と言われても、「それは感じだ」としか答えられなくてそれ以上の説明ができないのに日本人だったら皆そう感じることができるものを広く共有している。毎年、流行語が何十個もできて「流行語大賞」なんてあるけど、たとえば英語圏全体で流通する新語なんて年に基本1個もないと思うのだ。
なぜこんな選挙に関係ない話をしてるかというと、だからこそ選挙が面白いのだ。というのが私の主張である。アメリカの大統領選挙は日本なんか比べ物にならないぐらい盛り上がるし、それは米国という多様性の国、分断が深刻な問題になってる国が一体感を味わうという観点から非常に重要な儀式だと思う。一国の人たちが国のリーダーを決めるという儀式に何か月も、半年以上も夢中になって共通の話題としてメディアに載り、その結果、リーダーが選ばれる。ルールは別に多数決でも、サイコロを振るでも、くじ引きでも何でもいいと思うけど、今は民主主義だから、多数決でやる。そのほうが一人ひとりの意思が、砂粒ほどの微量だけど、反映されるというストーリーが盛り込まれてより社会と個人の一体感が味わえて、いいことだと思う。
日本の場合、最初から一体感は空気のようにあるからいいのだ。
社会が真の意味で分断されている場合、民主主義は機能しない。たとえばある地域で、住民の割合がキリスト教徒が50%、イスラム教徒が50%だったとして、そこにモスクを公費で建てようという場合、賛成が50%、反対が50%となりそうだ。住民投票したらたぶん賛成50%ぐらい、反対50%ぐらいになりそうだ。でもそれはその住民の平均的な人が「建てたい気持ちと建てたくない気持ちが半々」と思っているというのではなくて、建てたい人と建てたくない人が分断してるのだ。その場合、たとえば投票して賛成が50.1%で反対が49.9%だった場合、負けた側が納得するということはない。最初から妥協の余地などないのだ。
ある国で、ドイツ語を話す人が80%でフランス語を話す人が20%だった時、義務教育はすべてドイツ語でやる、という法案があって、住民投票したら、賛成が多数になることが予想される。フランス語の住民が「選挙で負けちゃったからしょうがない。これからはドイツ語喋るか」ってならない。負けた側が、投票の結果を受けいられないということは、その社会は一体ではなく深刻な分断があるということだ。
日本だって、決定を当事者が受け入れられない問題というのはいろいろあると思うのだ。しかしだから独立運動しようとかテロを起そうというところまではなかなかならない。善良な市民として暮らしながら粘り強く訴える運動をしていこうというふうになると思う。たとえば郵政民営化だって、賛否両論がすごかったけど、それが国をあげての問題となり、いろんなレベルで議論され、板ばさみになった政治家が自殺に追い込まれたり、国じゅうで大騒ぎの議論をして、それで結論が出たので、国はそれで分断されることはなかったと思う。日本シリーズとか甲子園で優勝するみたいな、国じゅうが注目されてるところで結論を出すって大事だと思う。そうすると、たとえばある議題で、賛成80%、反対20%の時、それは、消化不良の議論だけすると、「賛成の人が8割いて反対の人が2割いる」という分断の状態かもしれないけど、日本シリーズの試合みたいな大騒ぎすると、平均的な人間の心の中が「反対の気持ちが20%ほどあるけど賛成の気持ち80%だなあ」っていう感じになっていくんだと思う。少なくとも私の中では、日本社会が一体感を保っているというのは、そういうことが充分仮定できるということである。
だから今回、衆議院選挙があって、結果がどうなるかな、と思っていたので、開票結果を熱心に聴いていた。結果にはショックを受けた。ガーン!ってなったけど同時に、「でもそうだよな」って思ったりもした。そんな中で「でも開票速報を聞いてるのって甘美な快楽だなあ」って思った。
私が、こんな怠惰な時間を過ごしてみたいなあ、と思う過ごし方がいくつかある。台風が来たとする。するとTVやラジオやネットでライブで情報をくれる。「〇〇市付近に上陸しました。時速何十キロで北北東に向かっています」という。その〇〇市というのは私は行ったこともないし全然知らないので、地図で確かめる。拡大して、あ、コンビニがある、牛丼屋もある、こんな規模の市だなあ」とか見て、次の予想進路の市はどこだろう?って、そんなことを半日ぐらいしていたい、って。実際は仕事に行かなきゃいけなかったりして充分にできないけど。あと、休みの日にベッドに横になりながら一日中読み上げアプリで昔の素朴な長編小説を最初から最後までずっと聴いていたいとか。それと同じ種類の快感を開票速報を聴きながら感じていた。ドラマなんか見てるよりはるかに面白いと思う。ドラマだと、俳優が驚いたり悲しんだりしてるが、それは全部演技やし。開票速報やと、今までずっと知ってた政治家が、リアルに喜んだり悲しんだりしてるし。ほんまにその人の人生が変わる瞬間を見てるから。「ああ、甘利ついに落選かぁ。今後のことは明言しなかったけど、引退を示唆してるなあ」って。「こんな優秀な政治家はなかなか出てこないのに、ついに終わったなあ」って思いながら部屋の片付けをしていた。
私は私であって他の日本人のことなんか関係ない。しかしこれだけ一体感の強い日本社会に日本人として住んでいるからには、やはりどこか関係あると言える。フロイトやユングの深層心理学では、意識の下に無意識という領域がある。その無意識の領域は層になっていて、自分が所属している集団と共有する領域だという。家族とか、地域社会とか、日本社会とか。そのさらに下には人間全体が共有する領域もあるだろう。これはフロイトやユングという偉い人が言ったからそれに違いないというのではなくて、私の理解では、素人やけど、意識とか無意識とかいう領域が物理的な実体としてあるわけではなく、そういうものをフロイトとかが言って、「あ、そう考えるとなんか自分の心の中が説明できます」って感じることができる限りにおいて有効であると思っている。
私は今回の衆院選で、自公過半数割れの可能性があると聞いた時、「前回もそう言ってたやん」って思った。立憲民主党と共産党の連立政権ができる可能性、とか言ってた。立憲と共産が候補者一本化して、それで自民党を小選挙区でやっつけていくという戦法だった。結果は岸田政権が勝った。「これほどマスコミの予想が外れたことは珍しい」って言われた。枝野代表は引責辞任した。だから今回、「またか」と思った。でもいいことだ。石破首相も自公過半数割れの可能性に言及して危機感をあらわにしていたが、そうすると自民党の支持者の投票率が高くなる。前回もそれがあったと思う。油断してはいけない、危機感を持つぐらいがちょうどいいのだ、ぐらいに思っていた。そしたら今回はほんまに過半数割れしちゃった。
自分の予想が外れたのだ。その不快感、ショックは、どこか痛気持ちいいみたいな感じだった。良薬は口に苦し、みたいな。私が、日本社会は高い一体性を有している、と思う時、それは、自分もそういう一体性の中で生きよう、存在しよう、という思いである。つまり、先ほどのフロイトの深層心理という時、てっぺんの意識のところに自我があり、その下に意識の届きにくいところ、無意識の領域があり、層になっていて、フロイトやユングが示す図では、底が開いているように思う。つまり自分の底は、自他の区別がはっきりあるわけではなく、つながってる。このことは、自分の内面の世界は無限に広いということである。そしてそれは私の人生観と合っている。つまり、この世でいちばん広い世界はどこにあるかというと、宇宙とか、外の世界ではなくて、自分の心の中にあると感じていて、それが私の引きこもり体質の理論的根拠というか正当化というか、「引きこもりはそんな駄目駄目ではない」という意識を支えている。私はアスペでありしかも引きこもり体質なのだ。若い頃引きこもりすぎたのでもう残りの人生で引きこもれることがあるかどうか定かではないが。
とにかく、私は、他のすべての人と同様、自分の自我が「これは私である」という意識を持ちながらも「でもその下に意識が容易に届かない集団的無意識がある」ということを意識している。そしてそう思えるのが日本のいいところだと思う。分断してて、隣の町の異教徒が明日自分を銃撃しに来るかもしれない、みたいな社会だとそういうことは思えない。憎ったらしい立憲民主党が大勝して面白くないのだが、しかし代表は鳩山でも菅直人でも小沢一郎でもない、野田佳彦なら、もう一度首相になってもいいと思っていたので、だから野田が維新とか国民民主とかに移ればいいのにと思っていたが、立憲で再び政権を担うには、参議院の事情もあるし、何年もかかるだろうが、なんかそれでもいいような気がしてきた。改めて、政権を担える政党が自民党ひとつしかないことのグロテスクさを思ったりもした。戦後これほど平和が脅かされている時もないような中で国内政治が混乱するなんてありえないだろ、とも思うのだが、しかし過半数を14も割ってしまったからには、自民党は七転八倒しなくてはいけないこととなった。自民党議員で今の状況に責任を感じずに執行部を批判するばかりの奴はこれを機会に消え去ればいいのだとも思った。
開票速報を聴きながら、これは自分の意識下にあると想定する日本人の集団意識のところの思い違いを修正するような機会なんだと、何年か1度ある国勢選挙ってそういう機会なんだって感じた。もう日付がかわったので寝よう。
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