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【青空文庫を読む】宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
【注意】長文11635文字。このnote管理人は記事を読み上げアプリで歩きながら、雑用しながら聴くことを推奨しております。【注意終わり】
最近私は読むものといえばネット上で調達できるものばかりである。主な理由は机に向かって本を読む時間がなくなり、従って本を読む習慣というのがなくなったから。その代わりにネット上で調達できる各種読み物をスマホの読み上げアプリにかけて、歩きながら、雑用をしながら、机の前じゃないところに座りながら聴いている。机に向かっている時はPCに向かって何か書いている。日記だったり覚え書きだったりnoteの記事だったり。つまりインプットは歩きながら、雑用しながら済ませ、机に向かう時は主にアウトプット、みたいな生活リズムになっている。PCに向かっていると「この図形問題分かる?」みたいな問題を出してくる人もいて、まだ解けてない問題が常にいくつかたまってるし、私ぐらいの年齢になると、人生短いなあって思う。これだけは読みたい、っていう本も山ほどあるし、解けてない図形問題もあるし、さらに時間があれば行列と三角関数の復習をガッチリやって、チャート式に出てくる問題ならスラッと解けるぐらいになったら線形代数とか勉強して、そうするともっと勉強したいものが増えてくるに違いない。私は既に30代に引きこもりながら「これだけは読んでおきたい」って本をガツガツ読んでいた時に「人生が200年あっても読み切れない」ということに気づいた。しかも読めば読むほど「これだけは読みたい」って本が増えていく。しかも、私がもし経済的なこととか暮らしの問題にまったく配慮する必要がなくなったら、山にこもって作曲に明け暮れたいって思っている。一方で海が好きなのに海はどうなるんだよ、とか、数学は、とか、読みたい本は、とか考えると、私は友達とか話し相手がいなくても平気な特異体質なので、そういうことばかりやってるとしても、今まで生きてきた経験から、10年という歳月でだいたいこれだけやるといっぱいいっぱいだな、という感じがあるので、これらを満足できるぐらいまでやると、たぶん寿命が300年ぐらいあっても究めることは無理だろうな、って。
なんか本文を書き始める前に自叙伝を書き始めてしまいそうになったので本題に入るが、「銀河鉄道の夜」を読んだ、というか読み上げアプリで聴いた。オーディブルで聴いたというのではなくて、私の場合、ネット上にある文章は片っ端から読み上げアプリにかけて読み上げさせて、それを雑用をしたり、寝転がって目をつぶりながら、聴くのだ。このニュースを聴こうかな、あの人のnoteの記事にしようかな、それとも青空文庫の中から…みたいに気の向いた時に適当に選んで聴く。
青空文庫を読み上げアプリにかけて聴き始めたのはまだ2年もたたないと思うが、基本、それまでに読んだことのない作品を読み上げさせているが、「銀河鉄道の夜」は以前1度読んだことがあった。もう30過ぎていたけど、その時は「読みにくいなあ」と思い、また同時に「幻想的だなあ」と思った覚えがある。充分理解し切った、消化し切ったとは思わなかったけれど、なんせ読みにくいという印象があったので、再び手に取ろうという気持ちには億劫だった。
そういう時に、読み上げアプリってパワフルなデバイスだと思う。とにかく自動で読み上げさせて、こっちは目をつぶって寝転がってるだけだから。それで気持ちがそっちに向かなかったらそれまでのことだから。
読み上げアプリの精度は現在のところ欠点だらけである。「5、6人の人がいた。」みたいな文章があると「五十六人の人が」って読むし。「仏のご加護で」なんて「フランスのご加護で」って読んだり。二字熟語も「古代ローマの英雄」っていうのを「古代ローマのひでお」とか読むし。もしこれを誰かと一緒に聴くのであれば「許しがたい間違い」って思うんだけど、たった一人、私だけで選んで、私だけでコピペして、私だけで聴いて、私一人で完結してることなので「私が受け入れて済むならそれでええよ」って感じで「五十六人の人がそこにいた」って読んだら「あ、5、6人って書いてあるのだな」って頭の中で瞬時に変換しながら聴いている。
青空文庫で読んだものの中に、北条民雄「いのちの初夜」というものがあり、この作品も作者も、私はわりと最近まで存在すら知らなかったが、読んで、すごい作品だと思った。この作品に比べられるものといえば、リチャード・バック「かもめのジョナサン」と「銀河鉄道の夜」ぐらいだろうか、と。
そんなことを思っていて、久しぶりに「銀河鉄道の夜」をいちど読み上げアプリで聴き返そうと思った。そこが読み上げアプリの偉大なところだ。ほんま手軽に取り掛かれる。そしたら、1度聴いただけでは細部とか読み過ごしちゃったところがあるので、2度、3度、4度、と何度聴き返したかよく分からないけど、最初のほうはわりとスッと入ってくるけど、最後の半分ぐらいはディテールまでどうなってるかって思って、ひょっとしたら10回以上聴き返したかもしれない。そういうことがいとも簡単にできるのが読み上げアプリのすごいところである。
そしてまた、これだけ繰り返し聴いても全然平気なのは、この作品のすごいところだと思う。私は、内容が詰まったニュース記事とか、1回読んだだけでは充分理解できないものは何度も繰り返し聴いたりもするが、そのうち理解できないまま飽きてしまうことが多い。でも「銀河鉄道の夜」は、これが童話のすごさだろうか、何度繰り返し聴くのにも耐える文体だと感じた。
この作品は「童話」とジャンル分けされることが多いと思う。童話というと、「童」の字が入ってるし、子供むけのお話、というイメージがある。
「日本近代文学の起源」という本に、以下のような記述がある。
児童が客観的に存在していることは誰にとっても自明のようにみえる。しかし、われわれがみているような「児童」はごく近年に発見され形成されたものでしかない。(p168)
むろん児童は昔から存在したが、われわれが考えるような、対象化するような「児童」は、ある時期まで存在しなかったのだ。(p172)
…青年期の出現が「子供と大人」を分割したということであり、逆にいえばその分割において青年期が不可避的に出現するということでもある。心理学者が「発達」や「成熟」を自明のものとみなすとき、彼らはこの「分割」が歴史的所産であることをみないのだ。子供としての子供はある時期まで存在しなかったし、子供のためにとくにつくられた遊びも文学もありはしなかった。そのことを早くから洞察していたのは、柳田国男である。
(として柳田の文章が引用されているがそれはすっ飛ばして、)
ここには、「子供として扱われていない」子供の姿がある。…子供が「子供」として扱われるようになったのはきわめて近年のことであるにもかかわらず、それがわれわれにとってあまりに自明であるために、過去にもそれを適用しようとする慣性を断ち切ることは困難である。(p174-177)(柄谷行人「定本 日本近代文学の起源」から)
河合隼雄は「昔話の深層 ユング心理学とグリム童話」の中で、「…フォン・フランツの指摘するところによると、17、8世紀までは、昔話は子どもに対してのみならず、大人に対しても語られたものであるという。」(p20)と述べている。
「童話」を英語にすると、いろんな訳があるだろうが、たとえば「グリム童話」は"Grimms' fairy tales"と言うので"fairy tale"がその代表的な訳の一つだろうが、「童」という語が入ってないし、fairy taleは、特に子供向けのお話という意味あいはなさそうだ。しかし、専門用語とか難しい言い回しも出てこないので、子供でも理解が可能だということで子供に主に読まれるということがあるだろう。難しい言葉が出てこない代わりに、魔法とか、突然人が消えたり現われたりと、現実ではありえないことが出てくる。それらは子どもにとっても大人にとっても理解にハンディキャップはない。むしろ子供のほうが感受性が鋭いぶんだけ大人にないような洞察を持つこともありそうだ。
私が初めて「銀河鉄道の夜」を読んだのは30を過ぎていたが、「読みにくい。難しい」と感じた。私はその頃すでにもっと難しい文学とか思想書とか読むこともあったが、それでも「難しい」と感じた。読んでいて意味がとれないというのではないけど、「なぜこんなことが出てくるのか?」「この部分には何の意味があるのか?」みたいなことが見当がつかなくて戸惑ったんだと思う。そういうのが分からなくても読み進めることはできるが、それでその本を読んだことになるのか?読んだことになるにしても、ちゃんと理解できたことになるのか?この本は多くの人に評価され、いろんなマンガとか映像作品化され、社会的にすごい位置が与えらえているので、少なくとも「やっぱそれだけのことはある」みたいな理解を得なくては、読んだ甲斐がないなあ、みたいな気持ちがあったんだと思う。
読んだ当時はそんな、わかったようなわからないような、という感じが、しかし気がつくと、自分の心の中で神秘的な存在感を持っていた、みたいな。とにかく私は北条民雄の「いのちの初夜」の感想文をnoteに書こうと思って、その前に一度「銀河鉄道の夜」を読み返そう(聴き返そう)と思って聴いて、何度も繰り返し聴いて、ちょっとこちらに心が乗りすぎて、北条民雄のほうにはすぐには戻れない感じになってしまった。
何度も聴き返せるのは、童話独特の文体にもあるんだろう。
ジョバンニは、口笛を吹いているようなさびしい口付きで、檜のまっ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。
坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影ぼうしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまわって来るのでした。
考えてみれば「ですます」調というのは、なんら意味を加えるものではなく、いわば一種の音楽であって、それが「敬語」であることはより低次の重要性しかないとも言えるのではないか。「銀河鉄道の夜」の文体は一種の音楽である。だから、いつでも繰り返し聴くに堪える文体だ。ちょうど我々が好きな歌をしょっ中聴くのと同じように。文体だけでなく、この作品の内容が、ちょうどお経とか聖書みたいに、人生の局面の中で何度か繰り返し読むべき本だと今回何度も聴いてみて思った。この作品は人生のいちばん重要なことについて書かれている。それが何かを言うのは一種のネタバレに属すると思うので書かない。自ら発見すべきだし、読んで分からなければ、それはまたよし、と思う。そしてまた、こういうことについてあんまりくどくど言われていないことも、この作品が大切にかわいがられているあかしだとも思われる。
私は映画館にはあまり行かないがプラネタリウムには時々行く。年に数回ぐらいだが。「今はこんな星空が見えますよ」とか「こんな天体ショーがありますよ」というその時々の星空の解説もしてくれるが、プラネタリウムのドーム状のスクリーン用の映像作品も見せてくれる。内容はさまざまで、宇宙についての科学的な話だったり、物語だったり、星とか天体の映像美を音楽とともに見せてくれるものだったり。制作も国内だったりアメリカだったり欧州だったりさまざまだけど、プラネタリウムの湾曲したスクリーンで上映する用の映像作品というものがあり、映画館の映画にはないセンセーションがある。両者の違いは、映画館の画像は、どんなにでかい画面でも我々の視界内に入るのに対し、プラネタリウムの映像は我々の視界におさまらない。天井の真上が画像の中心だが、そこを見ている時は地平線に近いところの画像は見えない。画像の端っこを見ることはできるが、そうすると反対側の端っこは絶対に目に入らない。視界に入らない画像は無駄ではないかと思われるが、それが違うんだよ。たとえば音楽でも、デジタルの音源よりレコードみたいなアナログの音源のほうを好む人がいる。何が違うかというと、人間の耳には20~2万ヘルツの音しか聞こえない。CDとかデジタルの音源はその可聴域の音だけ録音しているが、アナログの音源はそれを超える高周波の音も拾って録音されていて、そこは人には聞こえないのに、それがデジタル音源よりもレコードの音を愛する人がいる理由の一つだという。ちなみに私には分からないが、日常的に聴き比べる機会があればそう思うんだろうと思う。
可聴域を超える音は「聞こえない」が、デジタル音源よりアナログ音源をあいする人がいるというのは、「聞こえない」はずの音が人に明らかな影響を与えているということを意味すると思う。ここで「聞こえない」というのは、意識として聞こえないということであって、しかし「無意識の領域」では「(微妙な意味で)聞こえている」という言い方もできよう。それは映像で言うところのサブリミナル効果みたいに。
サブリミナル効果というのは、映画とかTVの映像は1秒間に24コマの静止画を流すことによって動画を構成しているが、そこに1コマ別の関係ない画像をはさんでも人間には認識できないが、見る人の無意識に働きかけるという。その1コマが、ポップコーンの画像だとすると、映画の中休みの時にポップコーンの売上が伸びたりするという。(但し、1950年代に米国で行われた有名なこの実験は現在でもほんまに効果があるんか?と議論が続いているという。)
しかし、TVや映画みたいに1秒間に24コマの静止画を使う動画じゃなくて、VRとかゲームでは1秒間に60コマ使ったりしていて、そうするとユーザーの没入感が高くなるという。
何が言いたいかというと、人間の意識に知覚されない情報は必ずしも無駄ではなく、意味を持つことがあるということ。プラネタリウムは、人間の視界を超える映像を見させることで、映像が動いているだけなのに、いつも私が座っている椅子が動いている錯覚に毎度とらわれる。このセンセーションはいくら最新の技術を使った映画館でも出せないだろうと思う。
私はこないだから自分の文章を他人が読める場所にさらすことにどういう意味があるんだろう?とずっと考えているのだが、やっぱ色々あると思うけど、まずは「他人に見られている」という緊張感の中に自分を置くこと、それが自分の意識を変えていく。ここに公表した文章に書いたことは、公開しない日記に書いたことよりもはるかに頭に残る。100倍ぐらいの確率で頭に残る。するとそこに頻繁に意識が戻るので、結果考え続けることになる。私はnoteに数カ月前に、「難しくてよく理解できなかった小説のほうが感動が大きい」みたいなことを書いた。どの記事か忘れたが。その時はなぜそうなのか理解できなかったけど、今回「銀河鉄道の夜」を読み返す機会があって、その答えが分かったような気がした。
私はずいぶん前にこの作品を1度読んだことがあり、その時には充分理解できなかったと感じたけど、読後感は、年月が経つにつれて、神秘的な色あいが濃くなって、自分の頭の中でどんどん魅力が増してきているのを感じる。ちなみに読後どんどんと印象がこころの中で変化し育っていくことは珍しいことではないと私は思う。遠藤周作「沈黙」は、読んだ時は単純に面白いと思っただけだが、時間がたつにつれてますますすごいと認識するようになっていっている。村上春樹もフィッツジェラルドの「夜はやさし」に囚われたのは、読んですぐじゃなくて、しばらくたって、ふっと思い出して本棚から手に取った時だったというし。なんでそういう時間差みたいなことが起こるかというと、それは「無意識の世界」の反応速度が、意識の世界よりもゆっくりの時間が流れているからだと言えるんじゃないか。これを言い出すと「そもそも時間とは何か?」みたいな話になってくるけど、大雑把に、なんかゆっくり、ぐらいの感覚的な意味だ。
充分理解できなかった小説が、なぜ大きな感動を呼ぶことがしばしばあるか?これは私は10代の、あんまり読解力が発達してなかった頃のほうがやたら小説に感動することが多かったのは、一つは「若い人は感受性が豊か」ということもあるだろうが、それよりも「その小説が充分に理解し切れてない」ということのほうが、実は意外と大きい理由じゃないかと今回思っている。つまり、理解し切れてない部分というのは、意識としてとらえられなかった部分が大きい、しかしいちおう読んで、頭の中には入っているけど、それは意識を通過して、自分ではまったくコントロールできない無意識の中に入る。それが、サブリミナル効果みたいな、あるいは人間には可聴できない高周波数の音のような、あるいはプラネタリウムの地平線あたりの視界から外れている映像みたいな効果を与えると思う。これは頭の中で理屈を考えてるんじゃなくて、確信と言ってもいいこととして述べるものである。
今回「銀河鉄道の夜」を読んで、1回目に読んだ時には消化不良だったディテールとか全体の構成とか、5回とか、部分的には10回とか読み込んで、充分に理解がすすんだと思う。では、理解がすすんだぶんだけ、私はこの作品のよい鑑賞者になったかというと、そうは思わない。1回目によく理解できないまま、五里霧中って感じで読んだ時のほうが神秘的な感じに囚われて、今回は、分析的に読んだぶんだけ、さめた読み方をしたと思う。その結果、「これはすごい本や」と思ったんだけど。でも、1回目の、神秘的な感じに囚われた読後感があったからこそ2度目を読んだわけで、1回目に何の印象もなければそんな作品の分析をしたって意味は乏しい。
私も年を取った。
小さい子供は、絵本なんかを読んで激しく心を動かされることがある。それをたとえば中学生や高校生になって読んでも、別に心は動かされない。それは高校生が心が摩耗したからではなくて、その絵本が子供用のチャチな読み物だからだ。かわりに高校生が心を揺さぶられるのは、ちょっと背伸びして、本当はもうちょっと大人が読む用と思われている小説だったりするのではないか。そうすると、高校生には適度に理解できなかったり、理解できるにしても全力を使ってなんとか理解できる、みたいな読みものになると、理解に努める以外のところで意識が無防備になり、感動がやってくるのを妨げる余力がなくて、こころを直撃される、みたいな構造があると思う。これがやすやすと理解できる文章だと、作者が「しめしめここで読者を感動させてやろう」っていう意図もやすやすと分かってしまって、「安っぽいなあ」みたいに思ってしまって素直に感動できない。子供が感動するような絵本を作る大人はたくさんいるだろう。若者を感動させるような作品を作る大人もたくさんいるだろう。しかし大人を感動させるような作品を作る人って、基本いないから。つまり、人間を年齢的、あるいは成長区分的に分けると、「小さい子供→若者→大人→〇〇」だけど、この「〇〇」っていない。「年寄り」がここに入るか?というと、若者が小さい子供に果たす役割、大人が若者に果たす役割を、「年寄り」が大人に対して果たせるのか?というと、一般的にそうではない。本当は、高齢化社会で、「年寄り」がそんな役割を果たせたら世の中すごく面白くなるだろうけど、現状そうじゃない。だから、大人が読む用の小説その他の芸術、エンターテインメント作品って、同じグレードの大人が作るしかない。小さい子供が、小さい子供同士で作ったお話を聞かせ合ってるみたいな状態だから、というのが大人が文芸作品で感動することが少ないメインの理由ではないかと私は思う。
そんな中で、「銀河鉄道の夜」で、「この場面は、この人物は、どんな意味があるんだろう?」って分からないというのは、宮沢賢治の度量ということだろう。それが適度にわかんないから、この作品の神秘性、特別な存在感が生まれるのではないか。
上で述べたように、この作品は、人生の中で最も大事なことを扱っている、と述べた。それをもっと具体的に述べることは、短い言葉でできるんだけど、それは、この万人が読むべきと言うに値するこの作品をまだ読んでない人に変な先入観を与えることになる。本当はあなたのものなのに、私の指紋をベッタリつけることになるという遠慮からそういう無粋なことは、ネタバレ同様にしてはいけないことやと思って書きたいけど禁欲する。これを読んだあなたが「なんや意味わからんけど、ええなあ」って思って、それが時間がたつにつれて、「ますますええなあ」って気持ちが心の中で育ったら、それがこの作品のいちばんいい鑑賞者やと思う。分析なんて、年取って心がカサカサになってからゆっくりすべきことで、その時に「ああ、そういうことね」って分析的に理解が深まれば、それは、自分の生涯を考え直すことの一助になると私は考える。年取った時に昔読んだ本を読み返すって、時々はいいことだと思う。「あの頃はこんなに理解力なかったんやなあ」とか、「あんな感想を持ったということは、自分はこんな方向にひん曲がってたな」とか、思い返すことが多いと思う。前にも少し触れたことがあったように思うが、ビートたけしの短編小説「星の巣」を私は20代に読んで、激しく心が揺さぶられた。それを40過ぎてからもう一度読んだことがあった。その時はものすごくよく理解できて、「あ、ラストシーンってこんな意味があったのか」って気づいた。「意味分からずにやたら感動してたんやなあ」って。そういうものだと思う。20代の私と40代の私とどっちがいい鑑賞者かっていうと、20代の私のほうである。40代の私は読解力がついて、いちいちの場面の意味が分かるんやけど、分析的にそんなのが分かっても、時にはあんまり分かりすぎると、プラネタリウムでいうと、端っこまで残りなく見ることができると、かえって酔うような心地がなくなっちゃう。「この作品は充分に理解できない。自分を超えてる」ぐらいに思う時が、いちばんその作品を味わうことができるんじゃないかな。
これに関連するかもしれないこととして書き添えておくが、西田幾多郎「善の研究」の中に、こんな一文がある。
事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲といったが、天文学者はこれを詩人の囈語として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われているかも知れない。(第3章から)
なんか私の肝心の作品自体にほとんど触れてないが、まあ感想文ってそういうものではないか。作品自体に触れるってネタバレってことにもなるだろうし。
最後に。
この作品は、人生の中で最も大事なことについて書いている、と言った。つまり人間にとって普遍的な価値を持つということになると思うが、ではこの作品は、日本では特別な存在感を持つこの作品は、海外ではどういう評価を受けているのか、そもそも翻訳があるのか、とかちょっと調べてみた。翻訳は英訳は複数あり、その他多くの主要言語に訳されているという。英訳版のアマゾンのレビューとか見ても、エキゾチックな価値でなくて、普遍的なものとして鑑賞されている感じがあった。wikipediaを見ても、宮沢賢治も「銀河鉄道の夜」も、日本語版だけでなくて多くの外国語版がある。英語版のwikipediaにも目を通したが、日本語版のほうにはない情報もあり、充実して、本気で書かれた記事だと感じた。
宮沢賢治は1896年(明治29年)8月27日に生まれ、1933年(昭和8年)8月21日に37歳で没している。
「銀河鉄道の夜」の主人公ジョバンニもそうだけど、「セロ弾きのゴーシュ」のゴーシュにしても、ある集団の中の弱者として描かれている。気が弱くて、自信がなくて、感受性だけやたら強くて、っていうタイプ。この作品から想像する作者も、現実世界ではそういうコンプレックスがあって、他の人に威圧されて、孤立的な弱者、貧乏、ひきこもり、みたいなイメージを宮沢賢治に対して持ってたけど、あらためてwikipediaをみると、むしろ逆で、岩手は当時は雪が多くて農家も貧しい家が多い中で、賢治の家は商売がうまくいっているお金持ちで、賢治はボンボンとして育った。花巻川口尋常小学校では「成績は優秀で6年間全科目甲だった」。「1915年(大正4年)4月、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で入学」とか、金持ちで頭よくて、農業に関する科学の専門知識を持ち、それを応用して商売をして儲けたり、地元の農家を助けて、農業に関するアドバイスを死ぬ直前までしてたり、当時は希少だったに違いないレコードをかけて地元の人に音楽鑑賞させたり、オーケストラまで編成してたらしいし、人を組織したりすることもして、そしておまけに生前はあまり目立たなかった活動である文学の分野で、比べる個性が他にないような存在として認められている。内向的なダメ人間どころじゃなくて、レオナルド・ダ・ビンチとかベンジャミン・フランクリンみたいな全方位型の天才みたいな感じである。彼はオーケストラを編成したほうであるのに、「セロ弾きのゴーシュ」では、その組織の最底辺にいるような人間を主人公にした魅力ある作品を書いた。これが彼の世の中への関わり方、愛し方だったのか。20世紀フランスの天才作家カミュが「ペスト」の中で、グランといううだつの上がらない木っ端役人を描いている。それはゴーゴリに出てくる最底辺役人のように、ただただ情けない人間なのだ。文学を志しているけど、才能は明らかにない。甲斐性なさすぎて女房にも逃げられた。文学的天才で、モテモテのプレイボーイだったカミュが、なぜそんな真逆な人間を、しかも魅力的に描けるんだろう?って不思議に思ったけど、それ以来だ。宮沢賢治も、金持ちで、勉強もできて、商売もできて、人にも働きかけられる人が、まったく無力にみえるジョバンニとかゴーシュみたいな人を主人公にして、しかもこんなに魅力的に描けるのは、私には不思議だ。
賢治が生前に発表した作品は「注文の多い料理店」などごく少数だった。「銀河鉄道の夜」も、亡くなった後に遺稿の中から発見され、賢治の没した翌年1934年に出版された。賢治がこれを書き始めたのはその10年前の1924年頃というから28歳頃ということか。
賢治は1922年(26歳頃)、最愛の妹のトシ(24)を結核で亡くす。賢治は号泣したそうだ。英語版wikipediaによれば、賢治のこの時の心の傷が治ることはついになかったという。トシの死の翌年1923年、賢治は農学校生徒の就職依頼で樺太を旅行する。この旅行から帰って翌年1924年、賢治は「銀河鉄道の夜」を書き始めた。トシの死と樺太旅行がこの作品のベースになったという。以後賢治は死ぬまでこの作品の彫琢に励むが、この作品の中間の部分はついに完成することはなかったと英語版wikipediaにはある。日本語版のほうでは、第1次稿から4次稿まで3回にわたって大きな改稿が行われたとあり、第4次稿を「最終稿」としている。その過程でずいぶん大きな改稿も行われたという。つまり賢治はこの作品を書き始めた頃は、その完成形は見えてなくて、彼の中で形を変えながら成長していったんだと思う。
現代日本の鬼才村田沙耶香は小説を書き始める時、結末を考えずに書き始め、それがひとりでにどんなふうに成長していくかを楽しみながら書くという。彼女は師匠の宮原昭夫に「小説家は作品の奴隷たれ」と言われたという。作品が勝手に成長していくのに作者が引きずられていき、コントロールできないようになるのがいい、みたいなことをどこかで言っていた。マーク・トウェインが「ハックルベリー・フィンの冒険」を書いた時もそうだったというが、作者の意図を超えて、作者にも何の意味か分からない内容が生れて、勝手に発展していくことがあるらしい。「銀河鉄道の夜」にも、賢治にも意味が分からない部分がきっと多く含まれてると私は想像する。そういう時に個人の意志も能力も越えたような作品が生まれることがあるんだと思う。
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