スヤスヤ教から見る日本人の宗教性への無意識さ 日本は無宗教ではない!
スヤスヤ教について
スヤスヤ教は2024年10月14日みねるば氏がツイートした事を機に生まれた宗教だ。
教義はシンプルで「ちゃんと寝ろ」「睡眠時間を増やせ」、そして睡眠時間を奪う面倒ごとに対して「宗教上の理由」で断ることができるとする。
彼としてもおふざけで言ったものであったようだが、twitterで多く拡散され、それに便乗して創世記など、キリスト教に模した神話を作成している。まだ投稿されていないが、出エジプトを模した、出布団紀を作ると言っている。
スヤスヤ教は二番煎じ 宗教的自由、そこにある社会主張
今回の宗教は、宗教的自由を揶揄る側面があるのだけれど、これは以前にも宗教的自由を筆頭にあげて嫌なことを拒否しようという宗教は以前にもネット発で生まれている。スパゲッティーモンスター教も比較として使われているけれど、まさに日本で以前に生まれたものがある。
スヤスヤ教は二番煎じだ。
2018年に始まったヒサノモトヒロ氏の「MtoP教団」である。その目的は、宗教上の理由を使うための宗教としている。
そのホームページでは、以下のように書かれている。
"宗教上の理由"は、理由界最強の理由です。
今回のスヤスヤ教ともかなり一致する教えだ。
この記事に教典が書かれているのだが、抜粋すると、
このように、現代社会の不満が教義に反映されている。
スヤスヤ教の創世記を見ても、
週五労働とブラック企業が槍玉に挙げられているように、現在の社会不満を教義にあげている。
私がこのスヤスヤ教が単なるおふざけではないなと思ったのは、そこの主張性ゆえだ。
人畜無害な宗教でありますよという顔をしながら、ちゃんと社会に対して主張をする。そしてスヤスヤ教こそ最も健全な宗教であるというスタンスを取る。
これはもう、ちゃんとした宗教、政治的なものになっている。けれども、スヤスヤ教に賛同している人たちはその特性に気がついていないように見える。
この、スヤスヤ教は日本という国でしか生まれないものだと思われる。アメリカで生まれたスパゲティーモンスター教は反ダーウィン的な進化論を否定する教育に抗議するという目的で作られた。
この宗教は、宗教自体を揶揄る為に作られた宗教だ。その宗教意識を持つのは、無宗教者が多いと思われている日本でしかない。
日本にとっては、キリスト教、仏教、イスラム教しか宗教ではなく、そして宗教という単語はオウム真理教を連想させる。
独特な宗教観ゆえである。
行き過ぎた、他宗教へのオマージュ
ちょっと本題に移る前に、みねるば氏のツイートを読み返して見ると、他宗教を揶揄流目的のツイートがかなり多い。簡単な解説とともに紹介していく。長いなと思ったら適当に読み飛ばしてくれても構わない。
これはキリスト教における公会議をモチーフにしている。これらの公会議で、キリスト教の異端が定められた。
ルターの宗教改革
魔女裁判
キリスト教のプロテスタント、ピューリタン、仏教におけるニルヴァーナ、涅槃
イスラム教の多数派スンナ派
宗教という言葉の広さ
多くの人が指摘していると思うけれど、日本は無宗教というのはいささかラディカルな気がする。葬式はお寺で、年末年始は神社に参拝、クリスマスも盛大に祝う、このように一応宗教らしき一片は見ることができる。
けれど日本では宗教という言葉は教義や、宗教施設が整備されている宗教という、狭義の宗教しか表していない。
アニミズム、自然崇拝もある種の宗教だし、誕生日占いもある種の宗教である。蜘蛛は益虫だから殺さないほうがいいとか、直ばしを嫌う、小さな迷信もある種宗教である。
日本ではこのような小さな宗教を習俗と呼ぶことがある。
私は、特別な合理性がなく何かを行い信じる行為全てを宗教だと思っている。そしてそのような宗教は、どこかで何らかの主義、主張を持っている。
スヤスヤ教は面倒ごとから避けるための宗教だから合理的だと思われるかもしれないけれど、その教義を振りかざしまくってはそれを信じていない人たちとは不和が生じる。それは非合理的だ。
もちろん、それをまともに信じている人はいないと考える人はいるかもしれない。けれども、スヤスヤ教は従来宗教の批判的側面を持ち、それに賛同する人たちの宗教への嫌悪を強く表象させている。
イェルサレムを文字って、ネルサレムと言っているのは、パレスチナ問題は側からみたら馬鹿馬鹿しいと思っているがゆえだろう。
先ほど貼ったツイート群もまさに、その意識の表れだろう。
この世の全ては宗教なのでは?
私は政治、経済すらもある種の宗教であると思っている。
反ワクチンも、共産主義も、現代貨幣理論信者も、ベーシックインカム推進派も、味の素反対派、極右思想も宗教であるし、科学も、資本主義も、平等主義も、能力主義も、家族も宗教である。
どの主張にも、ある種の欠点が必ず存在する。それを自分の主張だと強く思う為には、それを信じるという行為が必要になる。論拠などは所詮、信じるという行為を強めるためのものに過ぎない。
まあ、極端なことを言ってしまったけれど日本人は自分を無宗教であると自認しているが故に、その信じるという行為を無意識化してしまう気がする。それゆえにスヤスヤ教に賛同している人たちは自身の宗教性に気づいていない。
個人宗教
ゆる民俗学ラジオでは「個人宗教」という概念が提唱されている。
個人宗教とは、個人、家族単位だけで行われている習俗だ。
たとえば浦下氏が実践しているのであれば、夜の2時から3時はお化けが出るから、部屋からは出ない。
メールフォームで多くの個人宗教が取り上げられており、他にも饅頭を切る時には包丁ではなく糸しか使ってはいけない、起きる時間分枕を叩くと(七時に起きたいと思ったら七回叩く)思った通りの時間に起きられるなど。
もっと現代的なものにするなら、ある時間にソシャゲのガチャを引くと当たるとか、そのキャラをホーム画面にすれば当たりやすいとか。意外と心当たりあるだろう。
おそらく、マイルールと言ってもいいのかもしれないけれど細かい習慣にもある意味宗教的な儀式があったりする。
それをゆる民俗学ラジオの黒川氏は、「個人宗教」と呼んでいる
この言葉の良いと思うところは、自分たちの細かな生活の中にも、宗教実践が含まれていることだ。
ここでの宗教は、形式ばった宗教ではなく個人に存在する宗教観をもとにした不定形なものだ。
だけれども、ちゃんと宗教という形で我々の心の中に根付いている。ある種無意識的に。
意外と、気が付いてないだけで生活の中の個人宗教はあったりするだろう。
おぬし、祠を壊したな
最近祠を壊すミームが流行っていたりした。そして、からめる氏が、ダンボール等で製作した祠を破壊する動画を出し、炎上した。
この出来事は、一部の人が燃やした炎上ではないように思える。適当に作った祠を壊したと言っても、なんだか中途半端に心のモヤモヤ感がある気がする。多分それは日本人の宗教観故だと思う。
他では、外国人女性が神社の鳥居にぶら下がっている映像が派手に炎上していたが、それに対しても多くの批判のコメントが見られた。
結局、日本人は無宗教に見えて宗教を内在しているのだ。普段は無頓着であるのに、このようにあからさまな冒涜が見えた時だけ、明確に発露する。
だから余計に厄介なのだ。自分も明確に宗教を信奉していないから感覚はわからないけれど、キリスト教なら明文化された宗教実践により、自分のこの信条は宗教に由来するものであると意識的になれる気がする。
けれど日本人の宗教実践はあまりにも曖昧で無意識的だ。
結論
私たちは宗教を無意識のうちに身体化しており、宗教意識も明確ではない。
けれども我々の中には明文化しにくい、独特な宗教観を持っていることに意識的にならなくてはいけないように感じる。そして日本では明確な宗教が存在しないがゆえに、日本人の根底に存在する宗教観と個人的な宗教観が入り乱れている。
日本は無宗教ではなく、いわば日本教という独特な宗教を持っている。そういう意識があったほうがいいのかもしれない。
最近ネットで宗教的なものが話題に上がることが多いので、もう一度宗教というものを見直したほうがいいだろう。
自身が無宗教であるからと思って考えないのは危険だろう。
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