かつて嫌いだった自分は、今の自分にとって最大の武器になる
誰しも、多様な側面を持っています。
言い換えるなら、「沢山の自分」がいるのです。
いくつか例を挙げてみます。
ルフィのように自由な自分:冒険心に溢れ、新しいことに挑戦し続ける自分。
ピエロのように奇怪な自分:ユーモアや奇抜な発想で周りを驚かせる自分。
学者のように知識を求める自分:本や研究に没頭し、知識を深めることに喜びを見出す自分。
母親のように思いやりのある自分:他人を支え、守りたいという気持ちを持つ自分。
アーティストのように創造的な自分:絵を描いたり、音楽を作ったり、クリエイティブな活動に没頭する自分。
戦士のように強い自分:困難に立ち向かい、粘り強く問題を解決しようとする自分。
哲学者ソクラテスのように考える自分:人生の意味や自分の存在について深く考え、内省する自分。
4歳時のように無邪気な自分:素直で純粋な感情を持ち、楽しむことを忘れない自分。
リーダーのように指導力のある自分:チームをまとめ、目標に向かって導く自分。
これらの多様な側面は異なる状況や環境で表れるため、すべての自分が自分の中で共存し、それぞれが自分にとっての武器やリソースとなるのです。
さて、本題に入りましょう。
少し大げさに言います。今世紀最大の発見をしました✨️(笑)
それは、かつて嫌いだった自分が、今の自分にとって最大の武器になるということです。
ここで私の事例を紹介します。
今の私を象徴する価値観を挙げるなら、下記のキーワードが出てきます。
好奇心、ワクワク、笑い、笑顔、ふざけてる、ボケ、爆笑、冗談、ジョーク
これは仕事にしても、遊びにしても、何にでも該当します。
→私と多少なりともコミュニケーションを取ったことのある人ならご理解いただけると思います(笑)
私自身、大切にしている価値観を3つ挙げろと言われれば、
迷わずに 遊び心、好奇心、ユーモア と答えます。
逆に、苦手なことは何かと聞かれれば、
つまらないこと、息苦しいこと、面白くないこと を挙げます。
なぜこの価値観が形成されたのか、エピソードを交えてお話します。
私は中学校、高校時代にサッカー部の部長や生徒会長を務めるなど、組織を束ねるポジションに就く機会が多くありました。
リーダーシップを発揮することや、仲間を作って共通の目的に導くことは得意だったので、トップポジションに就くことは嫌ではありませんでした。むしろ好き好んでいました。
しかし、こうした重役を担い続けることで、次第に心身ともに疲弊していきました。責任感を持って行動し続けた結果、毎日が苦しく、心身ともに憔悴していったのです。
学生にとって部活動部長や生徒会長の役割は、社会人で言えば経営者クラスの重責でした。
常に誰かを意識し、全体最適の意思決定を続けるうちに、自分自身を見失ってしまいました。
本来の自分からどんどん遠ざかっていく感覚に陥りました。
ちなみに、私にとって責任感の最たる例は鬼滅の刃の「炭治郎」です。
どんな理不尽にも「俺は長男だから」という責任感で自分を納得させることができるのは、一周回って理不尽な責任感です。
話を戻しましょう。
この経験があったことで、
「誰かのために生きるのはやめよう。責任感を捨てよう。自分がワクワクすることをして生きていこう。」と大学入学時胸に誓い、大学生活を謳歌しました。その勢いで、行動力や推進力がみるみる育まれていきました。
こうして、今の私を象徴する遊び心、好奇心、ユーモアなどの価値観、判断基準が形成されていったのです。
しかしながら、遊び心、好奇心、ユーモアに振り切ってしまうと、これまた弊害が出てくるのです。
・軽率な行動に見える
・ふざけているように見える
・誰かに寄せられた期待に鈍感になる など
特定の自分を際立たせすぎると、どの自分も毒になりかねません。
過去の嫌いだった自分を捨てて、新しい自分にチャレンジすると、多くの人は「極端な自分」に舵を切ってしまいます。
私の場合はこんな感じでした。
責任感を捨てることで、自分がワクワクすること、楽しいと思えることに貪欲になることができました。
けれども、軽率な行動を生んでしまったり、偏った発想になったり、あるいはワクワクや好奇心だけでは走り続けることができないシーンが増えていきました。
そう、「責任感も自分を動かす大事なガソリンであること」に気づいたのです。一度捨て切った責任感を拾い上げるだけでなく、柔軟に使えるように訓練しました。責任感でも戦える、自分の好奇心にも従える、そんなバランス感覚を持った自分を養うように意識したのです。
極端な自分を一度作り出すことも、必要なプロセスだと思います。
両端がどこにあるのかわからなければ、TPOに応じた適切な自分を発揮することはできないからです。
嫌いな自分の存在は、自分を変える原動力になります。
原動力をバネに新しい自分に移行すると、思わぬ障壁が待っています。
新しい自分には新しい「嫌い」があるのです。
そんなときには、敢えてかつて嫌いだった自分をもう一度取り込み、バランスを取ると良いのでしょう。
かつて嫌いだった自分は、当時の最大の武器であり、捨てるには勿体ないのです。炭治郎のように責任感で行動できる自分を、いざというときに使えるよう引き出しにいれておきましょう。
新旧どちらの自分も「今の武器」にすることが、しなやかで自分らしい人生を作るのです!