夢のこだわり

私には大きな夢がある、というのも嘘ではないけれど、それは叶わない夢のようであるがゆえにそれをおおきく口に出して言いたい訳ではないけれど、それなりに夢みたいなものがある.ただ、それはいつ放棄されるべきなのか、あるいはそれは持ち続けることができるのか、その代償はあったりするのだろうか.それは持ち続けて経過を見てみないとわからないものかもしれない.私の上司は「夢は叶わない.けれど何者かにはなれる」とよく口をこぼして私にこの先の行く末を教えてくれているような気がしている。今の所その夢というのは持ち続けていて、いつ叶うのかわからないけれど、それがくるのを楽しみにしている。しかしながら、私には夢があるというというにもかかわらず、それとの適切な距離感をいまだに掴めないでいることに、多少のストレスを感じている。少なくとも、私は歳を重ねるに従って、私の抱えているストレスや欲求だったりを理解できてきていると自覚している。それまでは私は何をしたくて今ここにいて、それで私には何ができるのだろうかということを自覚すらできなくて、それは言ってしまえば飄々としていたのだ。それは私という存在のもつ欲求を直視しなかったことに起因していた。それらはしっかり満たしていく必要があることを、周りの友達や先生から教えていただいて、それでいて、私が軽い鬱になってしまったことをきっかけに気にかけるようになったものであった。意外と人間というのは社会的だの、理性的だの言っても、私たちの抱える欲求には逆らえず、意外にもわがままな人間が多いことがわかってきたのだった。私は真面目にも、その表面上の言葉を律儀に鵜呑みにしてそれを目指していたのだろうと昔を顧みていた。そして今の私は私の抱える欲求に正直になってしまって、それをかなえるための表面上の胡散臭い言葉をよく垂れ流すようになった。
しかして、夢とは、すぐ諦めの着いてしまうものであると思うのだ。目の前の欲求を満たすことは簡単にできても、私本人の、たとえば本当に欲していたものを、すぐ届けることは難しかったりするものなので、色々と物事を済ませているうちに、欲が消えていたり、欲していたものが意中には無かったりしたことが明らかになったりするものだ。
夢というものの形はいつだって不定形でまともに明確な輪郭を獲得した記憶がない。それでもせずにはいられなくてそれらを追い求めてしまう。たとえば粘土をこねて柔らかくしている時のように、懲りるまで粘土の形は変形していくと思う。その時に必要なのは拘りという概念なのだろう、こうでなきゃあいけない、そうしないと気が済まないと言ったような欲求の詳細というような。拘りは必要だ。もしこだわりが無かったとしたら、たとえば、お腹がすいたとして、私たちは生のジャガイモだったりを食べれば問題ないということではないように、そのような欲求にも拘りという欲求の形がいつだってセットになって頭の中に現れているはずなのだ。
しかしそのこだわりはいつまで持ち続けることができるのだろうか、仮にそれが叶わなかったとして、こだわりが悪さをしないだろうかという不安はある。

 今敏の「千年女優」という作品を見てみた。主人公の藤原千代子は晩年のある日にとある撮影事務所のインタビューを受けることになった。それはファンでもあり、また若かりしころには一緒に仕事もしていた立花源也という人物で彼はとある撮影事務所VISUAL  STUDIO  LOTUSの企画であった。

 その中で千代子の女優人生を映像を振り返りながら、映像の中に入り込んだり、かと思ったら現実に振り返ったりしながら面白おかしく、不可思議に語らうものだった。
彼女、千代子は10代のころに出会った犯罪容疑のかけられた絵描きである鍵の君との出合う。しかし、彼は彼の大切なものを開けるための鍵を千代子に残し、姿を消してしまう。千代子は彼に一目惚れし、再会を希い、当時もちかけられていた女優という道を選び彼の行方を探すことになる。

 彼女の夢はついに叶うことはなかった。つまり千代子は鍵の君と再会し話すことができなかった。彼女は鍵の君との再会という夢のこだわりを捨てることができずに人生の全て棒に振り、華々しい結婚生活も、有名であった女優という肩書きも全てを投げ打ってしまった。

 鍵の君は結局牢獄の中で死に絶えてしまっており、彼女はない人の陰を追う続けてしまっていたことが源也の口から後日談として語られ、さらに千代子は全てを話し終えたのちに急な地震が発生し、それによるショックで病院で息を引き取ってしまうのだった。

 短い映画の中で、千代子という人生の全てが語られるという形で映画は終わる。彼女の人生は人によっては幸か不幸か意見の分かれるものであろうと思った。夢のこだわりに縛られてしまい、全てを棒に振って隠居生活となってしまった哀れな彼女として評価するのか、はたまた、生涯かけて夢を追い続け、しまいには最後まで走り切ってしまった、幸福な人生の彼女。と言った所だろうか。論点は夢への飽くなき執着だろうと思うのだ。

 そうした時にもう一度質問に立ち返る。夢のこだわりは仮にも達成されなかった場合、いつそれらは捨て去られるだろうかと。今回に限ってあの人(鍵の君)に会うと言う目的であったためにそれは代替可能では無かったのであるが、夢のこだわりは別の形で消化することは可能であるはずなので、結果としてはどう言う形であれ夢は達成されうる。それも長く持ち続けるなんて通常のものではないのだ。それでこだわりが、あるいは抱える夢そのものが、代替可能でない場合、それで尚相当の執着をもつ場合、千代子と同様の人生の轍を通っていくことになるだろう。

 あなたにはそれほどまで抱えるほどの夢を持ち合わせているだろうか。あるいは絶対にそれでないといけない理由があるだろうか。そうでない限りは千代子にはならないし、どういうかこだわりであれ変容し、夢は成就するだろう。夢にまとまった輪郭線はその場合存在し得ない。曖昧さが豊かさを孕む瞬間で、変わらないことの悲惨さを伝える強かな映画であったと思う。

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