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『建築十書』を読んでみよう。

1.初めの企画説明

皆さんは『建築十書』をご存じでしょうか。建築学生の皆さんもしくは建築史を学んだことがある方は、一度くらいは聞いたことがあると思います。わからない人のために少し説明しますと、紀元前の古代ローマの時代にウィトルウィウスと呼ばれる人が建築、つまりアーキテクチャというものがどのようなものかということをまとめた十個の巻物の書のことを指しています。このコラムはこのとっても分厚い書物をしっかり読んでいこうとするものです。しかしこの書と向き合って研究してきた私として、もしくはこの書をすべて読んだことのある人間として思うことが一つあります、それは

「この書物長くね??」

ということなんです。この『建築十書』を今の学生もしくは建築と向き合っている人間にわかりやすくそして必要な部分、エッセンスを抽出しようという試みをこのコラムではやっていきます。
 今回は初回なので主に『建築十書』の内容には触れず概要を描いていこうと思います。

2.ウィトルウィウスという人について

肖像画

上画像:ウィトルウィウスの肖像画

Marcus Vitruvius Pollio(のちは「ウィトルウィウス」と記します。)と呼ばれたこの男は、『建築十書』の著者であること以外は一切が不明です。最新の研究によれば、ウィトルウィウスは紀元前84~22年にかけて生きていたとされています。よく用いられているポリオ(Pollio, Polio)という名前は300年ごろにウィトルウィウス「建築十書」の部分的な注釈付きの要約本を書いたマルクス・ケティウス・フラウェンティヌス(Marcus Cetius Flaventinus C.E 300~400?)の推定によるもので本当にこの名であったという確証がありません。またウィトルウィウス刊本に、LuciusやMarcusの名前を当てるものもあるがこれも推定によるものです。ただウィトルウィウスという姓の氏族は、ラティウム(Latium)、カンパニア(Campania)、アフリカ(Africa)などに存在していたことが知られていて、その氏族に属する個人名が記された最古の記録は紀元前四世紀末に遡ります。フランク・E・ブラウン(Frank Edward Brown: 1908~'88)はウィトルウィウスが自身の徒弟時代や両親、親戚などから受けた訓練や教育についてこの書物の中で述べている個所に基づいて、ウィトルウィウスはこの氏族の中の建築術や機械術を専門とした氏族の出身であったであろうと推定しているということが竺覚暁氏の論文からわかった。よって彼の書いたこの著書を読むことでウィトルウィウスと名乗る人物を少なくとも理解することができた。彼はギリシア的教養をかなり十分に身に着けた相当余裕のある知識階級に属するローマ市民であったこと。そしてユリウス=カエサルとアウグストゥスのために仕事をした技術家、建築家であったこと、当時の名前でArchitectusであったことは、著書の内容からして判断して推測することができる。また彼は必ずしも当時ようやく興隆に向かっていたローマ帝国の首都を飾るモニュメントを手掛けるような名高い建築家でなく、むしろ著述によって名声を得ようとしたいわば教師的な建築家であったことが、彼自身の建築書の中(六・序)で告白されていることがわかる。しかし、彼はあまり成功した建築家ではなかった。自らを「年老いた醜い小男」と呼ぶ彼は前33年に引退し、ほぼ同年に本書の執筆に着手しており前14年ごろには完成させていた。この書はアウグストゥス帝に献上されており帝の建築に対する思考を啓蒙するとともに、帝からの設計受注も意図していたようです。結果は創造的建築家としての評価はされずウィトルウィウス本人も未来永劫にその名が知れ渡ることを意図したものであることが本書から読み取れます。
彼の具体的な経歴についてはファーヌム(Fanum)にバシリカ(Basilica)を建造したことが記されています。(五・1・6)

※注釈

上の文の中にある括弧()の中にある数字、漢数字は建築十書の中に振られている数字を表しています。例を示しますと、

(一(書)・1(章)・3(節))

と、このようになっています。ご存じの方も多いですが、基本的に古典叢書のほとんどはどこに何が書かれているかを素早く検索あるいは引用、翻訳するために一定のまとまりに対して数字を割り振っています。論文などにもよく使われています。

3.『建築十書』の概略

『建築十書』とは正式名称「羅:De Architectura Libri decem(建築についての十個の本)」です。この本はウィトルウィウス本人が書いたとされる十個の書物で紀元前1世紀の古代ローマ時代ラテン語でまとめられた百科全書的な内容を有しています。

まずはこの本の目次を提示したいと思います。

第一書:建築家の教育、基礎的美学、技術的原則、建築の各部門すなわち建   物、時計学、機械学、公的建築、住宅建築、都市計画についての概論
第二書:建築の発展史、建築材料
第三書:神殿建築の建設
第四書:神殿の形式、オーダー、比例理論
第五書:公共建築、(劇場についての特別な言及を含む)
第六書:住宅建築
第七書:建築各種材料の用法、壁の塗装、色彩
第八書:水及び水道の設備
第九書:太陽系、日時計、水時計
第十書:各種機械の建造、機械学

ウィトルウィウスはこの書物の中に少なくとも13の文献を挙げているがそのほとんどがギリシアのものです。このことからもわかるように同時代人のキケロー(BC.106~43)がギリシア哲学、ギリシアの理論的思考をローマに移植拡散し導入すること目的にしたようにウィトルウィウスも知識の共有を建築という分野に拡散しようとしたのではないかと思われます。前にも書いていますが、ウィトルウィウスはかなりギリシアの知識を持っています。第8書にはギリシア語の詩が載せられています。また、本書がもつ教育的な性格とその体系的構成は、同時代人ウァロー(BC.106~27)が自由技芸(Liberal arts)三科(文法、論理学、修辞学)及び四科(幾何学、算術、天文学、音楽)に医学と建築という二科を加えた包括的教科書として、やはりギリシアに範をとって紀元前30年中ごろに著した「九書(九科)」という題に沿って作られたものであることは間違いないであろうとされています。このように建築十書の内容は建築に関することのみでなく、タレスをはじめとする自然哲学(7・序)やピュタゴラス、プラトンの数理哲学・宇宙論(9・序)などのギリシア思想を基礎とし、幾何学・音楽・医術・天空理論・土木・都市・機械・水理等の幅広い「建築術」であって、しかも理論と実践の両面から獲得していました。この大々的に作られた「建築十書」ではあるのですが、当時はあまりウケはよくなかったようで、というのもこの書は古代ローマの時代に位置しながらこの書の称賛したものは古代ギリシアでありました。オーダーについての記述にも少し偏りがあり、特にイオニア式を称賛しています。またこの当時ローマでは共和制から帝政へと変わりゆく激動の時代であり、保守派たりえたこの「建築十書」は主流の地位を得ることができなかったのではないかと考えられています。その後の中世(ルネサンス以前)でも「建築十書」のウィトルウィウス理論が影響を及ぼした証拠はないです。しかし、彼は世界で初めて「建築」というものの全領域を体系的な形で扱った最初の人であり『建築十書』は体系的建築論の最初の書物となった。彼とその著作は人文主義者、ヒューマニズムによって復興していくことになるのです。

3. 『建築十書』の写本について

『建築十書』の写本は森田慶一によれば完全端本併せて55種にのぼるとされているが、その多くが派生してきた源である主要な写本はフランク・グレンジャー(ローブ古典文庫所収のウィトルウィウス『建築十書』英訳の訳者)に従えば略号H, S, E, Gであらわされている次の4種のものがあります。


H:ハーレイアン2767写本(8世紀)大英博物館蔵書 Harleian 2767.(8th Century).In British Museum.


S:ゼレシュタット図書館蔵1153写本(10世紀)Selestad Bibriothek1153. (10th Century)


E:ヴルフェンビュッテル図書館蔵132写本(10世紀)Wolfenbuttel Bibriothek132. (10th Century)


G:ヴルフェンビュッテル図書館蔵69写本(11世紀)Wolfenbuttel Bibriothek69. (11th Century)


このうち最古のH写本は、1415年人文主義者の文献蒐集家ジャン・フランチェスコ・ポッジョ・ブラッチョリーニ(1380~1459)がスイスのザンクト・ガレン修道院において再発見した写本でこれがウィトルウィウス再発見、再評価のもととなったとされています。

4. 中世からルネサンスにかけての『建築十書』

14世紀の人文主義者によって『建築十書』はヨーロッパに知れ渡ることになります。『建築十書』はルネサンス(いわゆる学びなおし)における古代を知るための重要な書物となりました。そのためにこの『建築十書』の改訂版やその補足のような解説書が数多く出版されることになります。ここでは資料から得られた『建築十書』に関する本を順にできるだけ多く紹介します。ここに関しては私も正直読み込みが足りないので、不明瞭な点が多いと思いますが、多くの方が熱を持って建築十書に携わっていたということを理解していただければ問題ないです。


1.Sulpicio版(c.1485)
Giovanni Sulpicio di VeroliがFrontinus: Deaquaeductibs Urbis Romaeの付録としてつけて1485年に出版したものでこれが『建築十書』を初めて出版したもので(再版1495,96)、一つの写本からの印刷であり多くの誤りがみられるがこの出版を機に人文主義者以外の多くの人々に「ウィトルウィウス」が知られるきっかけとなった。


2.Fra Giocondo版(c.1497)
教皇ジュリウス2世への献呈本で、ヴェネツィアで1497年に出版、1511,1513に再版される。この版は初めて『建築十書』の内容がより正確に改訂されたことと132点もの版画による絵が挿入されたことにある。これによって『建築十書』はより精緻に親しみやすいものとなった。


3.Barbaro版(c.1514~1570)
バルバロによる注釈とパラディオによる図版がなされて出版される。この版は当時のルネサンスの学習方法であった『建築十書』の読解とフィールドワークによる考古学的調査の二つのアプローチから作られた初めての書物。


ほかにも『建築十書』の改訂版が中世のころで合わせて8つあります。またこの『建築十書』をきっかけにアルベルティやセルリオ、スカモッツィなどが「建築理論書」を書き上げるようになります。『建築十書』も同様の価値のあるものとしてあつかわれていくことになっていきます。

5. 近代から現在にかけての『建築十書』

 ・西洋
18世紀前半に発掘されたヘルクラネウム(イタリア:カンパーニャ州エルコラーノにある遺跡)とポンペイ(イタリア・ナポリ近郊に位置する)が発掘され、当時の西洋人の関心を高める出来事がありました。さらに1829年ギリシアが王国として成立し、オスマン帝国から独立を果たしました。これにより古代ギリシアについての研究がイギリス、フランス、ドイツの知識人を中心に前世紀以来の「グランド・ツアー(ヨーロッパ一周旅行のようなもの)」の伝統を引き継ぎ数多くギリシア出没するようなります。これまではローマの遺跡を研究するか『建築十書』などの建築理論書を介してしか古代のあるべき形オーダーを知れなかったのです。というのも実は、ギリシアという土地はオスマン帝国領であったのでイタリアなどラテン系の人々はギリシアに行くことはかなりの危険を要していたのです。(見つかったら殺されるなどの危険です。)ここからは史上初の古代ギリシア、ローマの考古学的調査が行われ、その一環として『建築十書』は日の目を浴びることになります。ここの問題点は、果たして『建築十書』の中身は古代ギリシアの建築物とその内容が一致しているか、ということでした。18世紀中期ドイツの芸術・思想界にてバロック・ロココから古典主義への転換を示す代表的な書物として、1755年に刊行されたものとして美学者ヴィンケルマン(J.J.Winckelmann, 1717~1768)の『ギリシア美術模倣論』があります。ヴィンケルマンはこののちすぐに本場イタリア、ギリシアに赴き、『建築十書』の整合性について実測調査を行ったしかし、ウィトルウィウスによる記述と実測調査から得られた情報が完全に別もののような状態であったといわれています。この結果をヴィンケルマンは論文として提出し、ウィトルウィウスの『建築十書』は少しづつ信用を落としていくことになります。余談ですが、ここからのオーダーは本場ギリシア、古代ローマの発掘遺跡のものを参考に作られていくことになり、新古典主義が誕生するきっかけになります。現在の『建築十書』はその誤謬による記述が信用を失うきっかけとなり、古代のもしくはラテン語の叢書として人文主義者などに親しまれています。
 ・日本
日本においてこの建築十書を初めて手に取ったのは森田慶一(1895~1983)教授です。森田は昭和初期にこの『建築十書』のラテン語の原典を扱った邦訳に着手した大正11年に京都帝国大学建築学科の助教授として着任しました。すぐに「芸術としての建築」に関する学問的知識を習得しようと森田は文学部の講義に頻繁に通いつめました。深田康算(1878~1928)や田中秀央(1886~1974)などから教授を受け、見事に邦訳を成功させました。今現在日本で邦訳版が出ているのはこの森田版のみです。

6.まとめ(ちょっとした感想)

今回ここまで読んでいただいてありがとうございます。この建築十書について大まかにまとめると下記のようになるかと思います。

・ 建築十書はウィトルウィウスが書き記し、古代ローマ期に纏められた。

・ 建築十書は14世紀ごろに再発見されルネサンス期によく引用された。

・ 建築十書の内容は現在においてほとんど信用を失っている。

このように現在では信用をほとんど失っている建築十書なのですが、西洋建築史を紐解いていく中でこの本はとても重要になっているのです。実際にこれを翻訳した森田慶一先生の時点でもうすでにこの建築十書の信用性は建築学的に信用を失っていました。

最後に

このノートは私が学部2年の時に調べた論文、書籍を基に構成されたレポートをノート版に直したもので、内容にずれや誤謬を招くもの、もしくは基本的知識の記述が欠けているものが多いように思います。私の投稿がきっかけでこの建築十書を手に取っていただいて、建築史に興味を持って頂けたら幸いです。またご指導ご鞭撻のほどお待ちしています。

次回はこの本の短縮版を投稿出来たらいいなと考えているので首を長くしてお待ちいただければ幸いです。

最後に、ここまで読んで頂いてお疲れさまでした、ありがとうございます。

参考文献
  著書
 『建築論』 森田慶一著
 『ウィトルーウィウス建築書』 森田慶一訳
 『西洋建築史概説』 森田慶一著
 『西洋建築入門』 森田慶一著
論文
 『ウィトルウィウスとギリシアのドリス式オーダー —ヴィンケルマンと18世紀ドイツ建築思潮の考察から—』 市川秀和
 『森田慶一のフィルミタスの邦訳について』 市川秀和
 『西洋古代における建築家像 —ウィトルをウィウス建築書の解釈を通して—』 加藤邦男
 『ウィトルーウィウスの「建築十書」の記述にみられる建築思想と周辺建築文化との関連性について —古代エジプトの建築関連資料との比較分析を中心に—』 安岡義文
 『ウィトルウィウスの人物像と中世写本について』 市川秀和
 『ギリシアに於ける建築的秩序原理の研究』 元良勲
 『ウィトルウィウスのフィルミタスの用法と中世初期までのその変遷について』 飛ケ谷潤一郎

ウィトルウィウスの建築論とその「建築十書」の重要刊本について 竺覚暁

ウィトルウィウスの伝統とイタリア・ルネサンス 松本静夫

森田慶一のウィトルウィウス研究と京都学派の建築論 ー近代日本における建築論の成立に関する基礎的研究ー 市川秀和



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