少し悲しかったこと
例えば、憩いの場所が必要なのだとして、お祈りの場が必要なのだとして、それらはどのような空間、空気間が漂っているのかを考えてみてほしい。そうして考えてみたときに、お祈りの空間や、あるいは落ち着きのある空間は、ルイスカーンの説くところのRoomであって、自分の他に誰か他者が誰かいて、そして閉ざされ、再び開けられるところの窓が一つ、いくつあってもいいのだけれど、窓があるような。とにかく反省的、自省的な空間になっているのだと思っている。その中には、その囲いが誰によって作られたかとか、社会的な関係性を精神的には離脱して、私たち自身、思うところがあって、その空間に身を沈み込ませるのだと思う。
宗教の話っていうのは一般的には、話しづらく、いわゆるパーソナルな部分であって、またそれにかかわることが一般に社会とされているところから浸食されてしまうほど思想的に危険な領域であるとしてあまり人に話すには喜ばれたものではないということはわかっている。いや、それでも主張したいのだからわかってはいないのだと思う。日本の中では、何か一つの神様に頼ることやあるいは、そういうものを信奉しているという時点で避けられてしまうものなのだと思っていても、親がそういう人間だったこともあるので、今となってはそういう教会から離れていても、このような思考に至ることはやめられないわけだと認めないといけない。
何を言いたいのかっていうのは、判然としていないのだけれど、とにかくそういう宗教的な施設の設計者の件で非常に悲しかった出来事があった。というだけ。
例えば、社寺仏閣があるとして、それが、有名な建築家によって設計計画されているのだとして、それらが、社会的にどうだとか、その形がどうだとか、そういう風な批評にさらされていることが、なんというか非常に悲しかった。というだけのことです。
仮殿であったにしても、それらの形がどのようであるとかを、真剣に議論する、それは神道、仏教とかそういうもののリスペクトがあってコンテクストへの佳い造形があるなら、話は変わってくるのだろうけれど、そういうものの形が何の尊敬もなく、尊厳なくけなされ、彼らなりのふさわしさというレトリックによって組み換えしているという事実に私は何というか、耐えられなかった。それですごく悲しくなってしまった。
そういうものを引き合いに出してもなお、かれらの理想とする造形に真実性を持たせたいのかは、言葉によって推し量ることはできないのだけれど、そこまで、そういう人の興味を感じられないのだけれど、そういう人を彼らの発言同様に私が彼らをけなしたいわけではないのだけれど、そういうおいのりの空間の中で、自省したことがないのだろうな。と思ってしまって、どうしても嘲りというか、失笑してしまうというか。
社寺仏閣はそれ自体がおいのりの場所であると同時にお祈りする私たちのよりどころであると思うのです。形は社会的に目に見えるもののふさわしとして、華美に作られなくてはならないことは、仕方のないことであると思うのですが、それでも、レトリックによってそれらを再構成されるのはなんだか気持ち悪いなと思うのです。
私たちは、その場所が継続して、お祈りの場として参拝することができることが喜びなのであって、その形が、だれの作為によるかは本当に心底どうでもよくって、仮殿であっても、形があるということに感激してしまうものだと思う。うれしく思う。
それらを造形的にどうだという話は、なんだか、それらをただの遊び道具としてしか扱っていないように見えて、ぞんざいに概念の中で扱っていいと勘違いしているようで、ただただ悲しい。
とりあえず、どうしたらいいのかわからないので、メモとして残しておく。
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