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スピリチュアルに『言語存在論』を読む(インターネットとAI)

今回の記事は、過去の記事「スピリチュアルに『言語存在論』を読む」の追記です。インターネットとAIに言及するところを取り出します。

  網と雲
 インターネットがいわゆる草の根的な力、アナーキーな力を有していることは間違いない。しかしそうした力もしばしば、国家権力によってねじ伏せられてしまう。国家権力の存在は、国境を越えようとする〈TAVnet資本〉と、国家権力の利害の衝突において、しばしば露見する。国家権力はインターネットを断ち、〈TAVnet資本〉は利潤のために市場から撤退もする。あるいは、国家権力による検索語の操作などは、テクストとしての検索語をテクストたらしめないという、テクスト生成の言語場の文字通りの直接的な操作である。〈TAVnet資本〉自身も、検索語とともに強制される語句から、自分自身に不利益な語句を真っ先に消去はしても、個人に不利益だからと簡単に変更してはくれない。絶対に間違ってはいけない、インターネットはどこでも「繋がる」のではない。資本や国家権力が許容する範囲においてのみ繋がるのであり、使えるのである。インターネットは、私たち個と個を網のように繋いでくれるものでもあると同時に、私たち個に投げられた、私たちを一網打尽に捕らえる網である。投げられた網の上は、見上げねばならない。網の隙間に見える様々な姿を取った巨大な漁師たちの姿を、見失ってはならない。いつでもどこでも私たちがTAVテクスト・オーディオ・ヴィジュアルを手にし得ると喧伝されているcloud〈雲〉は、一方で、見上げる私たちから、巨大な漁師たちを、資本や国家権力を、覆い隠す〈雲〉でもある。――pp.218-219

第4章「〈話されたことば〉と〈書かれたことば〉」

  AIの意味――ことばの〈意味〉と〈機能〉
 言語場の劇的な変容を見る最後に、現段階のAIと言語のことに言語存在論の観点から、ほんの少しだけ触れておこう。機械翻訳にも重なる問題である。端的に言って、言語の〈意味〉と〈機能〉は区別せねばならない。この区別がついていない言説が、世には余りにも多い。言語にとって〈意味〉とは、幾度も述べたように、人がことばに造形するところのものである。はなはだ移り気で無定型なものである。しばしば意味は実現さえしないのであった。これに対して、例えばあることばによって、人に特定の動作をさせる、といったことは、〈意味〉ではない。そうした働きは〈機能〉と呼ぶべきものである。例えばこれこれのことばを入力すると、これこれのことばが返ってくるという機械仕掛けがあれば、それはその仕掛けがことばに〈意味〉を造形していることによってではなく、入力と出力の間に特定のプロトコル=規約が仕込まれていることによる。仕掛けがそうした〈機能〉(function)を有しているに過ぎない。つまりどんなに複雑であっても、xに値を入れると、yを導き出せるような、y=f(X)という関数の仕組みと基本的に変わりはない。まさに英語では〈関数〉もまたfunctionである。人のことばは意味を造形しながら、機能をも司り得る。しかし機械翻訳で扱われていることばも、全てこうした〈機能〉を操る仕掛けが吐き出すものである。プロトコルを精緻で柔軟なものに組み上げ、出力されることばをリアルにすれば、その仕掛けに向き合う人は、そのことばにいくらでも〈意味〉を造形し得るであろう。あたかも人と対話をしているかのごとき思いも、抱き得るであろう。仕掛けから発せられることばに、笑ったり、涙するかもしれない。でも仕掛けは〈意味〉を知らない。〈意味〉を造形はしない。第3章で見たことを、思い起こそう。ことばそれ自体は意味を持っていないのであった。人が意味を造形しながらことばを発するときでさえ、発されたことば自体は、既に意味から解き放たれ、意味から自由になっているのであった。AIのことばも〈機能〉を司る。それはこうした機制に支えられている。でもAIは〈意味〉を、知らない。――pp.219-220

第4章「〈話されたことば〉と〈書かれたことば〉」

なお、TAVnet(タブネット)とは、テクストTとオーディオ・ヴィジュアルAV、そしてインターネットnet、ネット空間の言語場の呼び名です。

以上、言語学的制約から自由になるために。