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スピリチュアルに『パーソナリティを科学する』を読む(後編)

今回の記事は、過去の記事「スピリチュアルに『パーソナリティを科学する』を読む(前編)」のつづきです。前編では、パーソナリティを構成する五つの特性を確認しました。しかも、五つの特性は、生まれる前の自分が、誰かのためではなく、自分のために選んだと思われます。

さて、この書物は、特性ごとに章立てがしてあります。第3章「放浪者」外向性、第4章「悩む人」神経質傾向、第5章「自制できる人」誠実性、第6章「共感する人」調和性、第7章「詩人」経験への開放性。

そこで、特性の集まりに、私見の第三の視座を被せたのが次の図です。

この図は独学の具体例の一つにすぎません。

図の左上に偏る赤色の曲線は日本語(東洋人)、右上に偏る青色の曲線は英語(西洋人)、下に偏る緑色の曲線はピダハン語(原始人)です。それぞれの曲線は、一文を言語化する際の、意識の偏りを象徴しています。

・赤色の日本語文は、状況(様相)から主体(自我)へ展開します。
東洋人は状況に基づき、主体のあり方を改善する傾向にあります。しかし、主体を変えてばかりいると、「誠実性」が揺らぎ、「責任」が果たせない。

・青色の英語文は、主体(自我)から状況(様相)へ展開します。
西洋人は主体に基づき、状況のあり方を改善する傾向にあります。しかし、状況を変えてばかりいると、「調和性」が揺らぎ、「役割」が果たせない。

・緑色のピダハン語文は、知覚したことしか言語化されないようです。

それで、たとえば、『ピダハン』の著者D・L・エヴェレットさんは、ピダハンに対する、キリスト教の伝道を、失敗しています。

「おい、ダン。イエスはどんな容貌だ? おれたちのように肌が黒いのか。おまえたちのように白いのか」
私は答える。「いや、実際に見たことはないんだ。ずっと昔に生きていた人なんだ。でも彼の言葉はもっている」
「なあ、ダン。その男を見たことも聞いたこともないのなら、どうしてそいつの言葉をもってるんだ?」
次にみんなは、もしわたしがその男を実際に見た(比喩的な意味ではなく、文字どおりにこの目で見るという意味で)ことがないのなら、その男についてわたしが語るどんな話にも興味はない、と宣言する。その理由は、いまならわたしにもわかるが、ピダハンは自分たちが実際に見るものしか信じないからだ。ほかの者から聞いた話を信じるケースもあるが、それは話した人物が実際にその目で目撃した場合にかぎる。

――p.368 第十七章「伝道師を無神論に導く」

以上、言語学的制約から自由になるために。