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大嶋義実『演奏家が語る音楽の哲学』にて
第四章「音符の奥に立ち上がる音楽」の、(3)「解釈という応答」から、コミュニケーションのたましいに触れるエッセイを救っておきます。
ところで、思想家・内田樹氏によると、母親がその赤ちゃんに向かって語りかけることばの意味は、じつはただ一つしかないという。
それは「あなたがいて、私はうれしい」だ。
母親がどんなにたくさんのことばを赤ちゃんに話しかけようとも、その最終的に意味するところは「あなたがいて、私はうれしい」でしかないらしい。「今日はおてんきだね」と朝の挨拶を送ろうと、「なにを泣いてるの?」と心配しようと、「寝んね」と寝かしつけようと、その核心には「あなたがいて、私はうれしい」というメッセージがある。そして赤ちゃんもその語りかけに応える。彼・彼女もやはり「あなたがいて、私はうれしい」とその全存在をかけて母親に返している。この究極のコミュニケーションをよすがに、赤ん坊は一つひとつ具体的なことばの意味を知り始める。
「あなたがいて、私はうれしい」というメッセージがほかでもないこの私に届くとき、すべての解釈は正しく導かれる。
ならば、わたしたちの読む楽譜が「あなたがいて、私はうれしい」というメッセージを発しないはずはない。なぜなら、それを読む者がいなければ楽譜は、白い紙に落とされた小さなインクの染みでしかないからだ。自分を理解しようとする者の存在をよろこばない生命はない。楽譜も理解されることを欲している。だからこそ楽譜はいつもあなたに語りかける。「あなたがいて、私はうれしい」と。たとえ幾万冊の同じものが出版社の手によって印刷されようと、一冊一冊の楽譜はそれを手に取る一人ひとり、そうあなた自身のために存在する。そこに書かれた音符は、今まさにそれを音にしようとしているかけがえのないあなたを宛先として届いたものだ。
「この音符はほかでもないこの私に宛てられたメッセージだ」と気づいてくれたあなたに、音符たちは感謝とよろこびの声をあげているはずだ。
わたしたちは楽譜の発するその声を聴き取ろうとしているだろうか。そして一つひとつの音符にかって「私も、あなたがいてくれてうれしいのだ」と全身全霊で応えようとしているだろうか。
互いの「あなたがいて、私はうれしい」という愛情の交歓によってしか解釈は育まれそうにない。その愛の深まりだけが、奏される音に深まりをもたらすようだ。
楽譜はわたしたちを待っている。いやそうではなく、世界に一人しかいないほかでもないあなたとのコミュニケーションを求めている。楽譜の声に耳を澄まそう。「解釈」の扉が開く音が聞こえてくるはずだ。――pp.150-152
音楽そのものへと迫る演奏家も、素晴らしいスピリチュアリストだな。
以上、言語学的制約から自由になるために。