エデンの蛇の頭を砕くキリストの闘い
エデンの園でアダムとエヴァが悪魔である蛇の誘惑に屈した後、神の当事者たちへの罰の宣告の言葉の中に、一つの謎があります。
その場面では、女には妊娠と出産の苦しみが大きくなること、男には顔に汗してパンを食べ、生涯が生きる労苦にまとわれることを宣告しているのですが、蛇については、腹這いになって地の塵を食う、つまり低められた状態に置かれることが定められています。
しかし、それだけでなく
『わたしはお前と女、お前の子孫と女の子孫の間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう』と付け加えているのですが、これにはどのような意味があったのでしょうか。(創世記3:15)
この一言に込められた事がどう実現していったのか、それをキリストの生き方から探るとき、そこに見えるものには人にとって重大な意義があります。
エデンの蛇がただの生き物ではなく、蛇を操っていた背後の見えない存在者について、聖書最終巻である黙示録が『あの古い蛇』として明解にしているのですが、そうであればこの『敵意』に関する宣告は、悪魔に対して語られていることになります。
しかも、蛇は頭を砕かれるということには、蛇である悪魔を亡きものとすることを意味しています。
実際の蛇を殺すのに頭をつぶすことが最も効果的であり、体や首を切断したところで、しばらくは生き続けてなお噛みつくことがあります。
それであれば、蛇が頭を砕かれるとはまったく殺されることを意味し、悪魔は女の子孫(裔すえ)によって最期を遂げることが予告されたことになります。一方で、蛇がそのかかとを砕くとされたからには、女の子孫(裔すえ)も無傷ではありません。
創世記のエデンの宣告をここまで考えれば、時代の遥か下流に生きるわたしたちは、これが悪魔に勝利するキリストを暗示していることに気付けるでしょう。まさに、キリストが磔刑に処されたこと、そこまでに追い込んだユダヤの宗教体制をイエスが『蛇よ!まむしの子孫よ』と明言していたことも、その理解を導きます。(マタイ23:33)
そこでエデンの場面では、キリストが『女の裔』と呼ばれていることになり、『蛇の裔』がその敵対者であることになることが示されます。
このようにキリストが『女の裔』と呼ばれたのは、直接にはエヴァから生み出される子孫と理解することもできますが、この『女の裔』という言葉には更なる意味が込められています。ですが、ここではキリストには激しい戦いがあり、ただ柔和に弱き者を顧みるだけの優しい方ではないことを念頭に置くべきことが知らされているのです。
確かに黙示録には、『悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた』とあり、それが最終的な処罰、『頭を砕かれ』致命傷を負って存在を終えることを言い表しているのでしょう。(黙示録20:10)
偽預言者らや獣のような為政者らの既に居る場である『火と硫黄の燃える池に落とされ、昼も夜も永遠に苦しみを受ける』とありますが、この『火と硫黄の燃える池』は『第二の死』ともされており、人は一度後に復活し、その裁きの結果悔いるところがなければ、辱めとされ日夜焼かれるような不名誉の苦悶を永遠に被造物として認められず、滅ぼしの中に不名誉を受け続けることになることを表しています。
そうであれば、キリストは悪魔を除き去り、その邪悪な影響がどれほど大きかろうと、すべてを過去のものとすることになり、それは人類をエデンでの神に是認された状態に引き戻すことを含んでいることになるでしょう。
では、そこに至るまでの、まず初臨でのキリストの戦いとはどのようなものだったでしょうか。そして終末では何が起るのでしょうか。
キリストは、アダムの血統から生まれたのではなく、『罪のない方』として処女から誕生されたことに於いて男の末裔ではなく『女の裔』と呼ぶことができます。女から独自に誕生したので、その父はナザレの大工ヨセフではなく、天の神がその父親でありましたから、イエスは繰り返し自ら『人の子』と称され、神を『父』と呼んでいました。
イエスは生まれて間もなく東方の星を見る者たち、つまり星占いをする魔術師らは、当時イスラエルを統治していたユダヤ人ではないヘロデ大王の許を訪ねています。⇒ メシアを襲うメディアの祭司族マゴイについて
最晩年にあったヘロデ大王は、自分の地位を脅かす者たちへの猜疑心の塊のようになっていましたから、メディア・ペルシア方面からの魔術師ら(マゴイ)が『イスラエルの王がお生まれになった印の星を見たのですが、どちらにおわしますか』と尋ねるに及んで強い危機感を覚えます。自分が実はイスラエル人ではなくエドムの出であり正統な王権を持っていないことに、内心に恐怖を呼び起こされましたが、平静を装い、魔術師らには、その王子である幼児を見つけたなら報告するように申し渡します。『行って、わたしも謁見するためだ』と言いつつ、実は殺害しようとしていたのです。
実際、ペルシアの魔術師らは悪魔の示したであろう星に導かれて、幼児イエスの居所で拝謁したのですが、神の天使が彼らに告げてヘロデ大王の許に戻らないよう命じます。
やがて、ペルシアの魔術師らに裏切られたことを悟った大王は逆上し、月日の経過から判断して、キリストが生まれると預言されていたベツレヘムの街に兵士らを遣わして、二歳以下の男子のすべてを殺戮させたのでした。
しかし、兵士らの迫る当夜に大工ヨセフに天使が夢のなかに現れて、妻マリアと幼子イエスを連れて直ちにエジプトに逃れるように告げ、イエスの命は守られます。
それからほどなくヘロデ大王が崩御したので、一家はパレスチナに戻りますが、ヘロデの息子たちの野心を警戒してユダヤではなく、北のガリラヤ地方の田舎町ナザレに居を構え、目立たず生業にいそしむことになりました。しかし、このヨセフはイスラエルの王統の血筋を受け継ぐ者であったのです。
やがて、イエスは三十歳となったころ、ヨルダン川で人々を水を浸す(バプティゾー)儀礼を行い始めていたヨハネを訪ね、自ら望んで他の人々のように水の浸礼を受けましたが、このイエスの場合には、天から聖霊が鳩のように降り、『これはわたしの子、わたしはこの者を是認した』との声が響きました。これはヨハネも予期していた類い稀な人物の到来であったのです。
こうして、ナザレからの人イエスは、このときキリストとなって世界に現れたのでした。
それから、試練を受けるために荒野に入り、四十日の断食を行いますが、それが明けると、悪魔が来て、傍の石をパンに変える奇跡を行うように誘います。イエスは空腹とはいえ、『人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉によっても生きるのだ』と律法を引用してこれを拒否します。(マタイ4:1-)
ついで悪魔は、エルサレム神殿の胸壁にイエスを空間移動させては、そこから飛び降りるようにと言います。殺害が目的であったのでしょう。悪魔はイエスが神の子であるなら、神は必ず天使らを遣わしてイエスを守るはずだと言うのです。イエスは神を試してはならないとの律法の句でこれも拒否します。
三度目に、悪魔は諸国の栄えている様子を見せて、これらのすべてをイエスに与えよう、その代りに自分を崇拝するようにと言うのでした。
イエスは神だけを崇拝するべきであるとの律法の句をもってこれを退け、完全無欠に律法を守るユダヤ教徒であることを示されます。まさしく『律法を成し遂げるために来た』と自ら言われる通りです。(ガラテア4:4)
遂に『悪魔よ、去れ』と拒絶すると、悪魔は次の機会を窺うために退くのでした。
試練を終えたイエスの許には天使らが仕えるようになり、いよいよキリストとしての働きが始まることとなりました。
イエスはイスラエルの人々の病気を癒して回り、『神の王国は近づいた』と宣明し始めます。重病や難病も癒すその奇跡の噂は直ぐに広まり、イエスの周囲には群衆が群がるようになりましたが、イエスは『一人一人を癒して、治されない者がなかった』と福音書は告げています。(マタイ4:24/12:15)
やがて御許に集まる人々の中にユダヤの宗教家たちも混じるようになります。彼らは奇跡を行う人イエスについて『神からの人』であるかどうかを判断しようとして来ました。旧約聖書は律法体制を築いたモーセのように偉大な預言者、また契約締結者の登場を予告していたのであり、イエスがその予告されたキリストであるかどうかを見極めたいと思っていたのです。(申命記18:18)
しかし、徐々に彼らはイエスに否定的な見解を持つようになってゆきます。
その理由は、彼ら宗教指導者の教えるところと合わない言動がイエスに多いからです。宗教指導者は、聖書の言葉への拘りが強く、それでいて神の言葉の精神は学んではいませんでした。彼らの関心は自分が義とされ永遠の命に入ることでありました。つまり、主人公は自分であって神ではなく、その信仰はご利益目的であったのです。(ヨハネ5:39-47)
特に彼らがイエスを疑ったのは『安息日』をどうするかというところにありました。律法に定められた『安息日』の規定では、週の最後の一日は仕事を行わず、家に留まっているべきとされています。⇒「天からのパンが支える「聖なる安息」」
そこで自分たちは「義人」であるとの強い自負心をもっていた宗教家らは、この安息日の規定を徹底して守ることに自分たちの神の前での正義を感じ取っていたのです。
彼らは律法学者ら[タナイーム]を中心にして、安息日にしてはいけない事を自分たちで規則とし、39種類に分類したうえ、さらに無数の付則も付け加えていたのです。律法より厳しい規則を守れば律法を守ることができると考えたからです。しかし、それは律法に手を加えることで、その精神を壊す危険があります。実際、それはユダヤの識者にも「無鉄砲な企て」との異論も出ていたのですが、優越感の甘い誘惑のある付則の「ミシュナー」は指導層には幅広い支持を得てしまいます。
その結果、彼らはイスラエルの民を安息日だけでも重荷となるほどの定めでがんじがらめにしてしまい、それは少しも「安息」とはいえません。
それらの規則はユダヤ教の経典「タルムード」に今日でも読めるのですが、普通の人であれば頭痛がするほど細かい規則の連続に嫌気が差すことでしょう。
幾らか挙げると、安息日には新たに火を起こすことが禁じられますから、主婦は前日から火を絶やさないようにしないと食事を温めることができません。安息日に家から離れてよい距離が定められていて、それを越えると神の掟を破ったことになります。安息日に書いて良い文字は二文字までで、針で縫ってよいのは二回までです。
女性はアクセサリーを飾って出掛けることが禁じられます。なぜならそれは「運搬」という仕事だと言うのです。
このような規則を作って他の人にも守らせるとはどのような人物でしょう。
このような有り様でしたから、キリストと衝突の起らないわけがありません。宗教家によれば、傷に包帯を巻く事さえ「仕事」でありますから、イエスが安息日に病気を癒すなど到底許されることではないのです。
まさしく『ぶよを濾し取り、ラクダを飲み込む』とはこの事であり、彼らは神の意図から大きく逸脱しているにも関わらず、自分たちは正しいと主張して憚りません。宗教家の規則主義は自分の義認のためであり、着いて来られない弱者を、自分が優越感に浸るための踏み台として容赦なく踏み付けるのであり、その思惑は何時の時代にも変わりません。
ですが、イエスは癒しを敢えて安息日に行う姿勢を見せます。それはまるで論争を煽っているようでさえありました。(ヨハネ5:16)
それだけではなく、彼らが民衆に多くの規則の重荷を加えながら、それを助けようともしない独善的な姿勢を批難されてしまうのでした。そこで彼らはプライドを大いに傷つけられ、イエスに敵意を持つようになってゆきます。しかも、イエスはユダヤの虐げられた下層民や罪人とされる人々に寄り添い、『医者を必要とするのは病人だ』と言われ『わたしは義人ではなく罪人を招くために来た』と言われ、エリートたちと距離を置くのでした。(ルカ5:31)
そのためイスラエルの人々はイエスを巡って二つに割れ、『彼は善なる人だ』と認める人々と、『いや、民を惑している』と言い張る人々に分けられてゆきます。宗教家らは『彼は神からの人ではない、安息日も守らないからだ』と言い始め、やがてはイエスの行う癒しの奇跡も『悪霊の頭によって行っている』と誹謗を始めます。その奇跡が起こっていることは否定できなかったので、その源が悪魔に由来すると言い出したのです。(マタイ12:23-24)
また、彼らは民衆が難病から癒されることよりも、自分たちの義を擁護することに関心を持っていたので、人々が癒されることを喜んでいるようには見えません。むしろ『律法を知らないこの群衆は呪われた者らなのだ』と言って軽蔑し、それでいて民衆と比べて自分たちは清く優れていると自負を抱いていたのです。イスラエルの同朋に対してさえそのようであれば、不信者や異邦人に対しての見方には恐るべき偏見は当然のことです。(ヨハネ7:49)
もちろん、それではキリストを受け入れられるわけもありません。『イスラエル』とは、本来『地のあらゆる民が祝福を得る』ための選民であったはずなのです。(創世記22:18)
こうして「蛇の裔と女の裔の間に敵意を置く」との創造神の言葉が現実となってゆきますが、その二つの考え方の違いは初めから相容れるものではなかったのです。一方は神の意志、他方は悪魔の象りであったといえるでしょう。
やはり、彼らが編纂するタルムードでは、ナザレ人イエスについて「ガリラヤから来た私生児で、魔術を行ってローマ総督に処刑された」と記し、まるで敬意のかけらも見えません。宗教家らがイエスに敵して行く中で、一般人からはイエスをキリストとして受け入れる人々が増えてゆき、磔刑に処せられる数日前には、エルサレムに入るイエスを非常に多くの群衆が歓呼して出迎えるので、それを眺める宗教家らはいよいよイエス殺害の決意を固めてゆきます。彼らの体裁にはそれが不都合であり、王のようにエルサレムに入城するイエスを放っておけば、ローマが脅威を感じてユダヤを律法体制もろともに滅ぼすだろうという危機意識が、上手くナザレ人イエスを除く口実となってゆきます。
こうしてイスラエルの人々はイエスを巡って二つに裁かれてゆきました。
それは、自分を義人だと思い込む人々の邪悪さを焙り出し、一方で、謙虚に自分の罪ある汚れを自覚する人々には希望を与えるという神の裁きを巻き起こしていったのです。
ですから、イエスの宣教を通して何が悪であり、何が善であるかがイスラエルの中で例証され、糾弾されるべき悪を行う『蛇の裔』の罪が新約聖書を通して世界に明らかにされていたと言えるでしょう。
その善悪は人の表面のものではなく、まして聖書の字面を守るかどうかというところにもありません。敬虔さで外見を誇ったところで実は内面が汚れているのであれば、その人は外面とは裏腹に醜いというべきでしょう。
敬虔な外見を誇りながら、内面では『孤児や寡婦の家を食い荒らす』ような当時の宗教家らをイエスは『白く塗った墓』とも評します。内面は死骸の汚れで溢れているからです。
イエス・キリストの戦い、それは初臨の地上に於いて『蛇の裔』を明らかにし、その悪を暴くことであったと言えるでしょう。
宗教家らの敵意はますます激しくなってゆき、遂に使徒ユダの裏切りを利用してイエスを逮捕し、そのあとは自分たちで好き勝手に理由をつけて『神の子』を裁き、ローマの権力には処刑を迫ったのでした。
それは女の裔の『かかとを砕く』という悪魔とその裔に一時的勝利へと導きますが、それこそは『蛇の頭が砕かれる』最終的な結末を不可避なものとすることでもあったのです。
ですから、イエスの死について聖書は『死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって無に帰さしめるためであった』と述べています。つまり、イエスの死は実質では勝利となりました。(ヘブライ2:14)
ですからキリストの死、それは悪魔によって『かかとを砕く』ものとはなりましたが、『頭を砕かれる』ような致命傷では無かったのであり、傷か癒えるようにキリストは三日目に復活を受けることになります。
そして『ご自分の敵が足台として置かれるまで、神の右に座して待っている』のであり、終わりの日に再臨するキリストの復讐はユダヤに留まらず、世界の人々を二つに分ける裁きによってこの世の終末に到来することでしょう。
地上では『誰をも裁かず』、むしろ裁かれるままであったイエスも、『わたしが話した言葉がその人を裁く』と言われたように、終末では立場が逆転するのであり、それは真に悪人である「蛇の裔」の所業がキリストの側に義をもたらしたからといえます。
黙示録の描くキリスト像が、処刑を受ける肉の身ではなく、燃え上がる両眼と鋭利な諸刃の長剣を口から突き出した復讐の王であることは、世の悪を焙り出し、それらを尽く裁き切る時の到来をその姿に予告していることでしょう。(黙示録1:12-18・19:11-16)
そこで、イエスの御傍に仕えた使徒ペテロが、キリストの精神から多くを学び、晩年にこう記しています。
『神は傲慢な者に敵対し、謙遜な者に忠節を示される』。(ペテロ第一5:5)
まさしく、あらゆる人々に対して「自分は正しい」とする者は、キリストという奇跡の印を伴う神の義が示されると、かえって嫉妬を燃え上がらせるという激しい反応を起こすのでしょう。「自分は正しい」というその頑固さこそ、キリストを死に至らしめた精神というべきでしょう。同様に、宗教界では、歴史上で宗教信条の違いによる争いや処刑が相次いで起こってきましたし、いまでもそれは終わってはいません。
ですから、人が、その内面を神の前に曝すことになり、それが避けられないのであれば、「自らの傲慢さに気付けるかどうか」これは誰にとっても最重要な事になり、それは善人を装い、信心深さの外見を見せることとは正反対なことでしょう。
悪魔が極めて美しく優れた天使であったように、最終的に裁かれる人は邪悪で汚れた外見はしていないことでしょう。むしろ敬虔そうに見えるとすれば、そこにユダヤの宗教家の姿が重なります。それは道徳規則を好みながら人を外面で差別し、階級差別を設け、宗教家らしい独善や決め付け、自分の教理の正しさへの固執などに、その共通性もあることでしょう。その罪の根源は利己心です。
彼らは人々を癒す栄光ある神の奇跡が来ているのにそれを退け、近視眼的でつまらぬ自分の正しさで真理を語っている人を退け、かえって重罪人とする自分たちの貪欲を敢えて選び取ったのです。
この利己心こそ優れた天使の一人を悪魔と変じさせたものであり、その子孫『蛇の裔』もまた同様でしょう。しかし、一方で利他的な愛を持つ者は、神と結ばれており、命は愛から生じるのです。(ヨハネ第一4:7)
エデン以来、利己心という悪魔の精神の道に入った人類社会は、創造の神の意図から外れた世界を構築したので、そこに神の摂理など働くわけもなく、貪欲の衝突が海の波のように休まることがありません。(イザヤ57:20-21)
他方でキリストは『あなたのご意志が天におけるように、地にもなされますように』と祈るよう人々に教えました。つまり、この地上に神の意志は行われておらず、天と地には著しい違いがあるのです。(マタイ6:10)
その地に来られたキリストを、地の社会、それも神に仕えるはずのイスラエル、それも宗教家や祭司長派らが処刑することで『神の子羊』として屠ろうと悪巧みを考え、キリストの使徒の一人を裏切らせ、そこまで悪に塗れながら、エデンの言葉『そのかかとを砕く』を実現させるために、正義感に燃え上がっていたのです。
その邪悪さには、ローマから派遣されていた当時の総督、善良とも言い難い人物ポンティウス・ピラトゥスでさえ、ナザレのイエスの処刑には罪状が見つからず、ついに彼らの面前で手を洗って見せてから、『わたしはこの件では潔白である。そなたらが処置しろ』と言わざるを得ないほどの強硬さを「蛇の裔」は示しました。実際、キリストを渡した者らの罪過の重さは、ローマ総督としてたまたま任命されて赴任していたピラトゥスの比ではなかったのです。(マタイ27:24/ヨハネ19:11)
これら宗教家ら共通の頑迷さと嫉妬とは、終末に再び『聖霊で語る』聖なる弟子らに向かって燃え上がり、キリストと伴なる『アブラハム裔』『神のイスラエル』『新しい契約』に与る『聖霊注がれた者たち』に対して発揮され、そこには裏切る者、終末のユダ・イスカリオテである『滅びの子』も契約から脱落する者として存在することでしょう。(テサロニケ第二2:3)
終末にも『キリストの兄弟』となる聖霊注がれる人々は、各地で為政者の前に引き出され、驚くべき宣告を行うにしても、既存の宗教家らの激しい嫉妬に遭い、彼らに権力が誤導されて、聖霊で語る人々をも除き去られることを聖書は予告しています。その模式が初臨のキリストに際し、かつてユダヤで示されていたのです。(ヘブライ2:10-17/マタイ24:40)
地上で誰をも裁かなかった肉のキリストは、終末では自らと、その兄弟らである「真実のイスラエル」、聖霊の注ぎによって生み出された『アブラハムの裔』への悪行の復讐の厳貌の内に炎の両眼を持つ「一度死んだ」者、ただ一人倫理の完全性に到達したキリストは、全てを裁き切る大権の内に「御稜威の大王」として立ち上がり、この世もろとも『蛇の裔』を完膚なきまでに処置してしまうことでしょう。(ヘブライ2:11/黙示録1:12-18)
以後、悪魔は一千年の幽閉を経て、悪の試金石としての誘惑者の本領を最後に発揮した後、悪魔は遂に『火の燃える岸辺から投げ入れられ』永遠の滅びを被り、そこで『女の裔』によって遂に頭を砕かれ、もはや、その後は死も墓もない世界、創造の当初の神の意図する創造界が実現するに至ります。(黙示録20:14)
これらの事の教訓は、最大の悪とは、善の上辺を装い、自分の正義に燃える事であることを、キリストが現れたユダヤが明確に示し、それが新約聖書の動かし難い記録となっているのであれば、まして、「自分は正しい」との精神を懐くあらゆる罪ある人間が裁かれるとき、世界は初臨のキリストに為したその通りを終末にもその兄弟らに繰り返すに違いありません。
その『蛇の裔』も『安息日を守っていない』というような表面的規則主義の宗教家らをその演じ手とすることでしょう。つまり、『人間の戒めを教える』のであり、それを根拠に真実なものを前に「異端だ」と断じて、従う人々を自分に倍して裁かれるような人にしてしまうことでしょう。『聖霊』をも否定するその行いが罪とならずに済むものでしょうか。(マタイ15:9・12:31)
終末での「神と人との戦い」の端緒が宗教の争いによるものとなる危険性は、初臨の時のありさまに見えているのであり、福音書の中のイエスの闘いは、その警告と言えるでしょう。
そこで『来たりませ、主イエスよ!』の言葉は、格別な意味をもって響くことになります。それは正邪を分かつ「シャファト」、つまり神の「裁き」を待ち望み、エデン以来の不正とその精神である傲慢が『女の裔』によって正され、また人々からアダムの罪が裁かれ、また贖われて赦される事を願い求める言葉となるのです。