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キリストの再臨とこの世の裁き

◆やがて実現する二度目の来臨
かつてユダヤに現れ、広く奇跡を行って人々に知られた『ナザレ人イエス』は「初臨のキリスト」と呼ばれることがあります。
キリスト・イエスは天に去った後、いつの日にか戻って来られることを自ら告げていたので、キリストの帰還について後の人々が「再臨」と呼ぶようになったのは過去と将来での二度の現れの対照からして自然なことであったでしょう。

「再臨」という言葉は聖書にはありませんが、イエスは確かに『人の子が来るとき、果たして地上に信仰が見られるであろうか』または『人の子の来る時は、ノアの日のようになる』とも語られました。これらは明らかにキリストが再び来られる後の時代のことを指すことに疑問の余地がありません。
しかも、『戻って来てあなたがたを迎える』とも、その特別な時がいつになるか分からないので『見張り続けるように』とも言われました。(ルカ18:8/ヨハネ14:28/マタイ24:37.42)

また、パウロが『生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが・・彼らと共に雲の中で引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるようになる』と書いていたので、新教系の教会では、いつの日にか自分たち信者が天に挙げられてイエスに会い、そのまま天で過ごすものと信じてもいる人々もいます。そこでは『一人は(天に)連れて行かれ、一人は(地に)残される』のイエスの終末預言の句を、是認され、また是認されない信者が居るとも解釈されていることでしょう。(テサロニケ第一4:16/マタイ24:40)

ほかの場面では、弟子たちがイエスの天に昇ってゆく最後の姿を目撃した使徒言行録の中で、イエスがすっかり見えなくなった空をいつまでも眺めている使徒たちに、二人の天使が現れては『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上られたのをあなたがたが見たのと同じ有様で、また来られる』と言ったと書かれています。そこでイエスが再び天から、同じ場所であるエルサレム東側のオリーヴ山に降って来られるものと信じてやまない人々も少なくないようです。(使徒1:9-11)

それに加えて、その時には今ユダヤ教徒であるイスラエルの人々が、現実に天から降るイエスを見てはメシアとして認め、悔い改めてキリスト教に大量改宗することを心待ちにしている「キリスト教徒」も少なくないようです。
実際イエス・キリストの再来を見ることができ、その声を聴いて、奇跡の業を目撃する機会があるとすれば、どれほどの人が熱狂し、どれほど多くの「にわか信者」が現れることでしょうか。

このように「クリスチャン」と称する人々が、それぞれイエスが再び来られると言われた言葉を受け止めているのですが、ひとつの共通点があります。それは、キリストの再臨の説明に必ずと言って良いほど伴う『雲』という一言への充分な配慮がみられないことです。

◆雲と共に来る
「雲」と言えば、登山をする人々やパイロットたちにとってはたいへん厄介なものです。視界を妨げるからです。
旧約聖書には、エジプトを後にしたイスラエルを追撃するエジプトの戦車と騎馬の部隊の前に雲の柱が立ちはだかり、イスラエルを紅海の対岸に渡らせる時間を与えるものとなった故事が有り、また、その後、崇拝の天幕と什器が完成し、祭司たちが準備を整えたところで、天幕には雲が充満して、祭儀を開始することがしばらくできなくなりました。それは後代にソロモン神殿での最初の祭儀が行われる前にも起ったことでもあります。(出埃40:35/歴代第二5:14)

新約聖書でも、あるときイエスが山の中で輝きはじめて変貌され、その幻の中に共に現れたモーセとエリヤと会話している場面が終わろうとするその時、使徒たちの前に再び普段のイエスの姿に戻るところで、やはり雲が使徒らの視界を妨げ、幻から現実へと場面転換の幕のような働きをしています。(マタイ17:5/ルカ9:34)

これらの前例から、終りの日に『雲と共に来る』または『雲に乗って来る』と言われるイエスの再臨を考えるなら、その戻られる姿が見えるものかに疑問符を付けるものとなるでしょう。
やはり聖書は、キリストの二度目の到来が一度目とは異なる目的を持つものであることをこう明らかにしています。
『キリストも、多くの人の罪を負うために一度限り身を献げられた後、二度目には罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々に救いをもたらすために現れてくださる』(ヘブライ9:28)
パウロはキリストについて『彼は弱さのゆえに磔にされたが、神の力によって生きている』とし、復活については『卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、肉の体で蒔かれ、霊の体によみがえる』とも教えています。(コリント第二13:4/コリント第一15:43)
ですから、キリストの二度目の到来でイエスは肉の体で来るとは言えず、ユダヤの片隅にひっそりと現れた初臨とは異なり、再臨は『栄光を帯びた到来』となり、もはや人とのしての弱さによって裁かれ処刑される肉体で来られる必要はなく、むしろ裁き主として到来することをイエスは予告されています。(マタイ25:31-33)

◆偽のキリストが肉体で来る
加えて、イエスは『終わりの日』の預言、つまり終末預言の中では、ご自身の次の来臨は『稲妻が東から西へきらめき渡るように、人の子も来る』と言われてもいます。(マタイ24:27/ルカ17:24)
これは、肉体をまとったイエスを広く人々が同時に見られる到来となるという意味ではなく、その直前の文脈で、イエスは偽キリストの登場があることを警告して『人々が「見よ、彼は荒野にいる」と言っても、出て行くな』また「見よ、奥の間にいる」と言っても、信じるな」』との言葉によって明確な対照を言い表しています。これはイエスが地上のどこかの場所に居るものではないという意味以外に捉えられません。これに『しばらくすれば、もはや世はわたしを見ない』とのイエス自身の言葉を加えるなら、キリスト再臨が地上へのものとはならず、しかも不可視であるということは動かし難いというべきでしょう。(マタイ24:26/ルカ17:23/ヨハネ14:19)

これらに加えて、見えないキリストの到来を強く支持するのは、再臨が人々の『裁き』でもある点です。
パウロが『神は、義をもってこの世を裁くためその日を定め、お選びになった方によってそれをなし遂げようとされている』と明言した通り、キリストが初臨でユダヤを裁いたように、終末に再臨するのはこの世の全体を裁くことが明らかにされています。(使徒17:31)

今日では、イエス・キリストほど名の知られた人物もないほどです。イスラム教徒からもイエスは偉大な預言者「イーサー」と呼ばれ、やはり終わりの時に再び現れるものとされています。意外かも知れませんがイエスはイスラム教徒にも敬われる偉人であり、しかも終末に活躍するマシーフ(メシア)として教えられているのです。
ユダヤ教徒はナザレ人イエスをメシアと認めなかったので、以来二千年も自分たちが納得できる別のメシアの到来を待ち望んでいます。ですから三つの一神教はいずれも終末のメシアを待っており、そのほかの宗教でも末世に救い主が現れると教えているものもあり、仏教もその一つに挙げられます。

そこで、キリストのイメージといえば、長髪に白衣をまとった姿と世界的にすっかり定着してもいるので、それらしい人物が同じ扮装をして現れ、幾らかのそれらしい不思議を行うなら、人々は自然とイエス様々と崇め奉ることでしょう。誰かが『偽キリスト』を演じることはそう難しいことでもなさそうです。たいていのクリスチャンはその人物に狂喜してしまうでしょう。多くのクリスチャンと称する人々の多くが、それが誰であろうと見えるキリストの来臨を望んでいるからであり、そこで欠けているのは『真理への愛である』とパウロは指摘しています。その信奉者は自分の「救い」の願望を偽キリストに託すことで、キリスト教の真実を探ろうとしないことでしょう。(テサロニケ第二2:10)

他方、古代ユダヤでのキリストの最初の現れでは事前の外見のイメージなど無く、預言にある通りに南のベツレヘムから来ると信じたユダヤ体制は、その定着した考えから北のナザレから来たイエスの行う奇跡に信仰を持たずに退けてしまい、その不信仰を裁かれたというべきでしょう。祭司長は『預言者は[北の]ガリラヤからは出ないことを聖書から調べてみろ』と同僚の議員に注意を促し、『ナザレから何かよいものが出るだろうか』とイエスの使徒となる直前のフィリッポさえ発言しています。(ヨハネ7:42・52)

キリストの受難から37年後、エルサレムはローマ軍によって徹底的に破壊され、神殿も失って、モーセの律法を行うことが出来なくなりました。律法の三分の一は神殿で行う祭儀を定めていたからです。これがバプテストのヨハネによって警告されていた『火のバプテスマ』であり、以後ユダヤの民は流浪を余儀なくされました。(マタイ3:11-12)

この神殿を中心とするユダヤ律法体制の終焉以来、ユダヤの民はエルサレムの市域からも、やがてはパレスチナをも追われ世界各地に流浪を余儀なくされました。その土地は、ローマによって「ユダヤ」とは呼ぶことが禁じられ、今日まで「パレスチナ」とされるに至ります。こうしてバプテストの警告通りにイエスに信仰を持たなかったユダヤという体制の『籾殻は焼かれ』たのですが、一方では『小麦』として『蔵に納められる』、『聖霊注がれた人々』の一団が現れたことで、『聖霊と火とのバプテスマ』によるユダヤは二つに裁かれたのでした。(マタイ3:11-12)

こうして血統上のイスラエルは律法契約を失い、キリストを仲介とする『新しい契約』の下、『水と霊から生み出された』『小麦』の人々は諸国民からも選ばれるようになり、真の意味での『アブラハムの子孫』、『神のイスラエル』という血統によらない神の民が史上初めて現れることになってゆきました。

それは『人々が東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く、しかし、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする』とのイエスの言葉の成就でもあり、神との契約は「血統のイスラエル」を離れ、「信仰によるイスラエル」、信仰の人であったアブラハムの真の子孫に渡されたのでした。
そのため復活したイエスは使徒らに『行って諸国民を弟子にするよう』その宣教をユダヤから異邦諸国へと拡大するように命じられ、『異邦人への使徒』パウロも加わり、弟子の集団は聖霊の啓示を受けて、後に「キリスト教」と呼ばれる新たな宗教の礎を築き始めることになります。

かつて、キリストの「初臨」の際には、旧約の預言からユダヤ人にはナザレ村から来た大工の息子をメシアとして受け入れるのに、どうしても宗教知識を超えるところの『信仰』、奇跡を行うイエスを信じて受け入れることが求められました。神はそのとき、律法を守る業ではなく、御子への信仰によって人を救う『義』を与えようとされたからです。(フィリピ3:9)
しかも、その信仰はユダヤ人の各個人の内面を試した結果であったといえます。

再臨するキリストの姿について言えば、初臨のイエスが復活を受けたあとに弟子たちに現れ、確かに食事さえしたと書かれています。
しかし、その復活でイエスが再び血肉の人間となられたわけではありません。それが証拠に旧約聖書には天使たちが食事をしている場面が一度ならず有り、そのことは『キリストは肉において死に渡され、霊において生かされた』という使徒ペテロの言葉を否定できるものではありませんし、再びキリストが肉をもって現れるなら、その犠牲は、またアダムのための贖いはどういうことになったのでしょうか。(創世記18・19章/ペテロ第一3:18)
やはり『「最初の人アダムは生きる魂となった」とあるように、また最後のアダムは命を与える霊となった』と述べるパウロも、やはりペテロに同じく復活のイエスが肉体を離れ霊者となったことを教えています。(コリント第一15:45)

そして、キリストの再臨が『この世の裁き』のためであるなら、世界の人々が自分がどのような者であるのか、各個人の内面が明らかにされねば『裁き』の意味をなしません。
そこで、神もキリストも裁きの前には決して『顕現』はしない、つまり各個人が自由な判断により信仰を働かせることができるよう、圧倒的な現れ方はしない理由があることになり、それはユダヤ体制の裁きでも、またエデンで禁断の木を監視しなかったところにも一致します。神は裁きに於いて人の内心の決定を見守られていたのです。


◆キリストの言葉を聖霊で語る者ら
では、キリストの再臨が『雲』によって衆目には隠されたものであるとするなら、人々はキリストの圧倒的な現れではなく、裁きのために受け入れるも拒絶するも可能な一定の範囲での神の証しを見聞きすることになるでしょう。
キリストの終末預言の中には、まさしくそのようなものが有るのです。
それがつまり、イエスが終末に起る事として語られた、弟子たちが為政者らの前に引き出され、彼らがそこで聖霊の語らせるままに語るという新約聖書に繰り返し現れる終末預言の事態の発生です。(マタイ10:17-18/マルコ13:9/ルカ21:12-14)

そのときには『すべての反対者も論駁できないような言葉と知恵が授けられる』ので『予め何と言おうかと思い悩む必要はない』また、『話す練習はしなくて良い』とまでイエスは言われているのです。(ルカ21:15/マルコ13:11)
これは世界的な注目を浴びるものとなるのでしょう。ですから『それは彼ら(為政者)と諸国民とに対する証しのためとなる』ともイエスは言われます。つまり人間の能力を超えた神の行う世界宣教とも言えるものです。(マタイ10:18)
ですが、それらの弟子たちはキリスト自身ではありませんから、世界は彼らの証しを受け入れるも退けるも強制されるほどのことにはなりません。ですから、そこで求められるのが「信仰」と言えます。彼らの語る『聖霊の言葉』は人々の価値観を刺激するものとなって信仰を惹き起こし、それも表面だけの盲信や軽信にはならないでしょう。

その弟子たちの聖霊に導かれて語られる言葉が具体的にどんな文言となるのかは、当然ながら今は皆目わかりませんが、それがアダム以来、人間が誰しも負っている『罪』という不道徳性を知らせ、それを赦すための『神の王国』の到来を知らせるものとなることです。
『この世』と『キリストの支配』の聖書中の対立性からしてそれは明らかで、それゆえ聖徒たちは『王や高官の前に引き出される』のであり、そうして宗教家らと論争するよりも重い現実的争点に立つ理由があります。『神の王国』は到来する現実の支配であるからです。
そこで人々は、『この世』という現状の体制と『神の王国』という新たで、人間の『罪』から逃れた理想的な社会との選択で、人々が分かれるであろうことは今からでも容易に想像できます。(マルコ13:9-11)

もちろん、世の政治家たちがその立場を喜んで譲るとは思えません。詩編第二には『地の諸国の王は一団となって立ち構え、諸国の高官も共に謀り、神とその油注がれた者とに逆らって言う。「我らは彼らのかせを壊し、彼らのくびきを解き捨てよう」』と書かれた通りのことになるでしょう。

この終末のキリストの働きである聖霊の言葉についてイザヤ書は『彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ』と述べているのです。(イザヤ52:13-15)

しかし、なぜ人々の多くは聖霊の言葉を受け入れないのでしょうか。
その理由の一つは、キリストが肉体を以って現れないからであり、第二に『この世』には複雑に絡んだ無数の「既得権益」というものが張り巡らされていて、その欲の縺れは簡単に解けるようなものではありません。キリスト初臨の時のユダヤ体制に同じく、この世の体制の政治も経済も、また宗教ですら古い利権構造を変えたがりません。関わるのは心の中の貪欲でしょう。人々が自分の都合を第一にすればこの世の争いは続くばかりで、世界が住みよくなるわけもありません。

この世では、ほとんどの財物をほんの数パーセントの人が占有し、九割以上の人々がほんの僅かな残りを巡って日毎の争いによって生活を支えるというこの世の体制は、労役の『エジプト』のようであり、人は生まれながらに不公正と不平等の世界に投げ込まれてきたのです。これは創造の神の意図するところではありません。『地にも御心が行われますように』と祈るのはそのためです。

そして『出エジプト』の出来事は単なる昔話ではなく、大規模に終末に繰り返される「予型」であることを、神は後の時代の預言者ミカによってこう語りました。
『あなたがエジプトの国を出た時のように、わたしは諸々の驚嘆すべき事を彼らに示す。国々の民は見て、そのすべての力を恥じ、その手を口にあて、その耳は聞えぬ耳となる』。(ミカ7:14-15)
これは「信者が天国に召される至福」ではなく、人類が陥った「この世からの救済」であり、世界を一変させる『神の腕が目覚める』奇跡を目の当たりにする救いの行われる日となるでしょう。

このような『世』を過ぎ去らせて神の意図する世界を成し遂げるのが、キリストの伝道の主題であった『天の王国』であり、その統治で地上を治めるのであり、決して信者だけが死後に行く安楽な「天国」ではありません。
この世には、一部の富裕な人々が得をするピラミッドがすでに存在しているので、新しく廉直なシステムをこの世の体制側の人々は嫌います。それに対して『神の王国』ほど革新的で新しく公正なものも無いことでしょう。キリストがどれほど弱者に寄り添ったかは福音書に明らかです。

ですから、再臨の裁きで問われるのは、利己心か利他心かということにならざるを得なくなるでしょう。これはたいへんな『裁き』です。
すべての政治家や既得権益者がキリストの支配を拒むというわけではないにしても、それはよほど高潔な人、僅かな人数ではないでしょうか。
そのように聖霊の言葉によって世界が驚嘆し揺さ振られることを、使徒パウロは旧約聖書のハガイの預言を引用して、神はシナイ山を激しく揺さ振ったように、終末に神は再び天地を激しく揺さ振ると述べ、『あなたがたは語っている方を拒んではならない』と警告しています。(ハガイ2:6-7/ヘブライ12:25-27)

これらの事が起る時には必ずや地上に『聖霊』が再び注がれているに違いなく、その時には『聖なる者』が再び現れていることが明らかにされることでしょう。彼らは聖霊を注がれ『新しい契約』に入る格別な弟子たちであり、新約聖書では『聖なる者』また『聖徒』と呼ばれています。それは神の天の召しに与る『選ばれた者』でもあり、彼らは事前に『アダムの罪』を赦されるなど、『新しい契約』を守る限り『人類の初穂』として多くの栄光が約束されています。
この優れた『聖なる者』の立場について新約聖書に書かれているからと、それらをただ信者が自分に与えられたものだと恥ずべき勘違いをしているのが、大方の教会であり、彼らは命がけで聖霊の言葉を語ることになる『聖なる者ら』の特権を横取りするかのようにしているにも関わらず、その主張を頑迷に変えようとしません。その背後にあるのは、ご利益目当ての利己心なのではないのでしょうか。救われるべきは人類か、信者かという問題に行き着くことだからです。しかし、その信仰を悔い、良心に従って改める機会の時はまだ残されています。

◆『キリストの兄弟たち』への反応によって裁かれる
終末では、彼ら聖徒による聖霊の言葉の証こそがキリストの再臨の決定的な証拠であり、その時にはイエスが到来していて『終わりの日』は間違いなく始まっていることになるでしょう。

しかし、キリストの二度目の来臨がクリスチャンと称する人々にとって必ずしも祝福になるとは限りません。それはマラキの預言が警告していた初臨のユダヤと同じです。
『彼の到来する時に、誰が耐えられるか。彼は銀を精錬する者のようであり、洗濯人の洗剤のようになる』と旧約最後の預言者マラキはメシアの現れをユダヤに警告していたのであり、実際にイエスを迎えたユダヤは裁かれてしまいました。それはまさしくバプテストのヨハネも警告していたことであったのです。(マラキ3:2/マタイ3:9-12)

やはり、終末の再臨が『この世の裁き』でもあることをイエスは次のように語っています。『人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。それからすべての国の民がその前に集められ、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
そして、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぐように」』(マタイ25:31-34)
しかし、左側に分けられた人々には『呪われた者どもよ、わたしから離れて、悪魔とその使いらに用意された永遠の火に入ってしまえ』と言われるのです。(マタイ25:41)

このように人々を裁き分けるものが何であるのかを明かして、イエスはこう言われました。
『あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、渇いていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかった』。
そこで、彼らもまた答えて言う、「主よ、いつ、あなたが空腹であり、渇いておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか」』
『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
つまり、試されるのは聖徒への支持、弱者への気遣い、また内心の利他性の有無と言えます。
他方、これら呪われた人々とは逆に、キリストの是認に入った人々にはこう言われます。
『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたことは、すなわち、わたしにしたことだ』。

ここに『この世の裁き』の条件が示されています。
それはキリストを直接に見ることや仕えることを願った人々にとっては不意を打たれるような結末となるでしょう。
その裁きは「キリストの兄弟」、つまり終わりの日に聖霊注がれて語る『聖なる者たち』への反応によるのであり、その動機は慈愛ある利他心、また聖霊の言葉への信仰でしょう。そこでイエスは『弟子であるという理由で、これらの最も小さい者の一人に一杯の水を差し出す者はその報いをけっして失わない』と予告されているのです。
また、それは『人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜はけっして赦されない』と言われた通りであり、あらゆる人は、聖霊の言葉によって二つに分けられることをイエスは明らかにされているのです。(マタイ12:31)

◆神と子と聖霊への信仰
これらの言葉からイエスの再臨がやはり目に見えないものであることが明らかになります。どちらの人々もイエスの兄弟への振舞いが自分へのイエス本人からの酬いになるとは思っていなかったのであり、しかもイエスは地上にご自分を捜さないようにと言われるのです。

やはり、『この世の裁き』に於いて世界を分けるものはキリストを見てそれを認めることではなく、『聖霊の言葉』に信仰を働かせることであり、『聖なる者たち』への人々一人一人の反応であるのです。これこそは『聖霊』を用いた人の内面の利他性を見分ける神の裁きです。これは人の心の奥底までも選り分けるもので、どんな裁判官にも真似できるようなものではありません。(ヘブライ4:12)

そのため終末では、人はユダヤ教のように神を信じるだけでも、加えてキリスト教のように御子イエスを信じても足りず、それに聖霊を信じてはじめて救いに至るのであり、これは三位一体ということではなく、このような観点から『父と子と聖霊の名によるバプテスマ』という言葉を理解しなくてはなりません。イエスが『人の子をあしざまに言う者は赦されるが、聖霊を冒涜する者は決して赦されることがない』と言われたように、それが終末に示される印であり、求められる信仰の十分要件だからです。(マタイ12:32)

では、そのときの人々はどう反応するでしょうか。
『この世』とそこから得られる利益に執着し続けることは大きな罠になるでしょう。罪深い『この世』は『神の王国』と折り合えるものではないからです。そして人は『聖徒』でない限り、誰もが裁かれるときには『この世』に属したままで、アダムの『罪』の内に生きています。そこにあるのは短い寿命に制限された空しい一生だけです。

そこで、特に政治に携わる人々、大企業の経営者や利権者、巨大SNSや報道関係者、直接に聖徒らを捕縛する役割を負うような警官や軍人にも葛藤は避けられないことが考えられます。更に難しいと思われるのが宗教関係者となることでしょう。
神やキリストの顕現を見るならまだしも、人間である聖徒らの『聖霊』の発言を前にして、それまで教えてきたこと、また信じてきたことを訂正するだけの潔さがあるでしょうか。
あるいは、かつてイエスに神の印を感じ取り、その許を訪ねたユダヤ最高会議議員でパリサイ派であったニコデモのように廉直な宗教人も終末に現れるかも知れません。またイエスの処刑を担当したローマ軍の百卒長がイエスと時を過ごした後に信仰を言い表したようなことがあるかも知れません。しかし、そう多く望めないようではあります。(ルカ23:47)

◆新約聖書での最大の教訓
キリストの初臨を迎えたユダヤからして、神の裁きに臨む誰にでも言えることは、自分の利権や権威に凝り固まっていないこと、自分の都合や体裁ではなく真実を求め、人々への共感や同情心に豊かであることこそ神の目に不変の価値があることでしょう。
しかし、「自己義認」というものは避けるべきです。「自分は正しいのだから、場合によっては悪を行うことも許される」というのは神の前には通用しないことに違いなく、それこそはユダヤの宗教家らがメシアに対して行った決定的な悪でありました。彼らの「正しさ」には自分の都合や願望、つまり利己心が混じっていたところで、イエスへの神の証しを見ても神の義には服せなかったのです。(ローマ10:3)

ユダヤがキリストを退けたように、終末の世界は『聖なる者たち』を信じずに退け、彼らを逮捕し処刑してしまうでしょう。しかし、彼らのすべてが殉教することはなく、なお残される者たちがいます。彼らは迫害の発生から然程の時を経ずに、その残った全員が、やはり『雲の内に』一斉に地上を後にして天界のキリストの許に召されることになりますが、これがあるクリスチャンらに「携挙」と誤解されています。(黙示録11章)

肉体を残さず霊となった彼らを逮捕するために捜索する官憲らはそこで驚愕することになるでしょう。どれほど探しても彼らは地上に存在せず、そのとき復活する殉教者の遺骸も、捕縛し投獄したはずの弟子らも、生き残った『聖なる者たち』も地上を去っているので監視カメラのネットワークも役立たず、どれほど探しても見つからないからです。これは『聖徒たち』による最後の証となり、察知した人々への驚嘆すべき印とはなるので、なお幾らかの人々の信仰を招くことでしょう。(黙示録11:7-13)

結局のところ、キリスト初臨の時にはユダヤの宗教家らの優れた聖書の知恵や表面上の清さ、外面の正しさはかえって彼らに罠となりました。イエスを信じない理由を旧約聖書の中に見出していたからです。
同じように、終末でも聖書やキリスト教の知識でさえ『持っているものまでが取り上げられる』というイエスの警告の言葉はまだ終わっていないというべきで、その裁きが臨む時、人の抱いてきた思想も宗教も関わりなく、もちろんキリスト教に精通した「クリスチャン」であるかどうかにも関わりなくすべての人が内面を試されることでしょう。むしろ聖書を生半可に知っていることは罠になり兼ねません。そこで自分の内心の利己心に言い訳を見出してしまうからです。むしろ、知らないでいる人の方が、キリストの再臨に対して「ご利益」ではなく、「倫理」という大局的で隣人愛ある観点から応じ易いことでしょう。

そのときに、バプテスマを受けた自分だけは裁かれずに救われると教えられ、それを本気で信じて来た「クリスチャン」の突然の失望はどれほどでしょうか。まことに『人は人の外の姿かたちを見るが、YHWHはその心を見る』と言われる通りです。(サムエル第一16:7)
そのとき「洗礼を受けたから救われる」というのは、魔除けの呪文程度に成り下がることでしょう。実際、他の人々と何が異なるというのでしょうか。
キリストの犠牲は信者のためのものでしょうか、それとも人類のためのものでしょうか。これは似ているようで、その懐く精神は真逆です。

では、終末に生きる人々がその時に至って聖霊の言葉を聞くときに、一人一人どう判断し行動するのでしょうか?
その聞く事に純真な価値観を持てるなら幸いなことで、人は誰もが自らの心を今からでも省みるべきでしょう。

キリストの初臨を受けて試されたユダヤ神殿体制がローマ軍の徹底的な攻撃によって灰塵に帰し、今日まで崇拝を中断せざるを得なくなったように、新約聖書最大の教訓がその時の裁きにあります。これは歴史にも刻まれた動かし難い事実であるのです。

終末に聖霊で語る『聖なる者ら』、キリストを隅の親石として天界の神殿を構成する石の数々となるキリストの『兄弟』、あのペンテコステから水と霊から生み出された『聖なる者ら』が『新しい契約』によって再び現れるとき、その聖霊の働きを見聞きするような事があれば、その時にこそ人類は『信仰』を試されるのであり、それが人々をキリストの左右に分けるものとなるでしょう。

一方で、ミナやタラントの例えに描かれたように、聖徒でありながら迫害を恐れて自らに与えられた聖霊の言葉を語らずに隠し、『新しい契約』を守らず、地上に残された者らは、この世に大きな影響を及ぼし、世界を誤導して滅びに至らせる行動を起こし始めます。これらの者が『一人は残される』とイエスが言われた弟子であり、その頭領が偽キリストとなり果て、悪魔からの霊力によって権威を得、世界は終局に至ってその熱狂に包まれることでしよう。

『聖徒ら』を退けた世界は、神と対立して聖霊の言葉を信じた人々をも退けようとします。それらの聖霊の言葉に信仰を働かせる人々は、その時にはイエスが祈り求めたように、神の民として一つに結ばれていることでしょう。(ヨハネ17:19-21)
そして、いよいよ裁きが執行される段階に進みます。それが神と人間との戦い、『ハルマゲドン』という状況に世界を至らせることになるでしょう。
かつてのイスラエルが信仰を示したカナン人を救うために、夜を徹して行軍し、ついにアヤロンの谷での大勝利を迎えたように、再び『夕暮れに明るくなる』という『神だけが知る日』を世界は目にすることでしょう。

こうなると『聖徒ら』、つまり「真実のイスラエルの十二部族」、『地のあらゆる民の祝福となる』アブラハムの子孫を天に集めたキリストの完全な勝利まで、もう僅かな時が残るのみです。(創世記22:18)
その頭上には諸国から奪った『複数の王冠』があり、征服を完了したことが示され、その外衣は赤く染まっていると黙示録は描きます。(黙示19:11-16)


この記事は以下の書籍からの抜粋加筆

終末に関わる「荒らす憎むべきもの」「不法の人」「666」「蝗と騎兵隊」
「南北の王の対立」「ゴグとマゴグ」「ハルマゲドン」「四人の騎士」などの謎の解釈を時系列に沿って列挙した書、『この世』から『神の王国』へと支配体制が入れ替わるに際して神がキリストを用いて行う事柄の数々を解説
単なる好奇心で読んでは済まない、心をえぐる教訓に満ちた理解
    「再臨するキリスト」 紙本は四六判 210頁 



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