イスラエルの災難の歴史からの教訓
信仰者の不信仰という矛盾
(イスラエルの起源から語る1万5千文字の長文御免)
神の選民を誇るイスラエルながら、その神との関わりに見られる赤裸々な姿は、聖書に在って反面教師であり、常に僅かな人々が『イスラエルの残りの者』としての神の是認にかろうじて預かっている。確かに、聖書の多くの箇所で、神はイスラエルを無条件に是認してはいない。神との契約に在って忠節な側に立つ者は民の中の少数であったのが総じた実態である。
使徒パウロは旧約のイザヤの預言を引用して、神がイスラエルに裔を残されなかったなら『我らはソドムのように、あるいはゴモラのようにされていたであろう』と記して、キリストを退けたイスラエル民族の危うさに注意を喚起しているが、実際、イスラエルはモーセの律法でも不履行を神に責められ、一度国家と崇拝を覆されて捕囚となり、二度目には、現れたキリストを亡き者として『約束の地』を再び追われている。
他ならぬ彼らの神に『頭が硬い民』と旧約聖書の昔から非難されてきたイスラエルは、21世紀の今や、自己義認の強情さに於いて世界の諸国民にまでよくよく知られるようになっている。自らの非は省みることなく、四方に敵を作り続けて、何度かの和解の姿勢を見せつつも、近年ではすっかり極右の政権に牛耳られ、同じイスラエル民族からの反対にもっ耳を傾けずに、いまや辺り構わず噛みつく中東の狂犬のように世界から認識されつつあるのが事実ではないか。背景にあるのは、ユダヤ教の優越思想であり、キリストを葬り去った頑迷な宗教家らの後継者のようである。
そうであれば、クリスチャン方がイスラエルという血統に信仰上の正統性を感じるのは、逆の危険を冒すことにならないものか。つまり、ほかならぬメシアを屠る側に協働してしまう危険なのであり、そこは事の上辺だけで組する相手を判断するのではなく、まさに『その実によって見分ける』価値観を持って判断しなければ、神の前に恥ずべき決定をし兼ねないではないか。
『イスラエルがすべてイスラエルではない』とのパウロの言葉は、今日ますます切迫性をもって響いていないだろうか。(ローマ9:6)
だが、それでもモーセに熱心なユダヤ民族が、律法のゆえにも多民族に同化吸収されることなく健在であるからには、その強情さなり、独善なりに、神から用いられる終末の役割が残っており、その時が刻々と近付いているようである。
民族の父祖
さて、これらの事の始まりは今から四千年も前の事であったとされている。
シュメール文明最後のウル第三王朝の頃と思られる時期、南メソポタミアの首都ウル近辺のどこかに遊牧民の一家が天幕暮らしを送っていた。
彼らは家畜を育て、そこから得られる羊毛、乳製品、食肉などを城内の街々に住む人々に提供し、また彼らは定住の都市生活者から穀物、衣料や工芸品などを得て双方の必要を賄っていた。
出土する古代の物品は、都市生活者と遊牧民との間に文化的相違が少なくなかったらしいことを物語っているとされる。
城壁を巡らした居住空間、つまり「城市」に生活する人々は、当然隣人との間が狭く、互いに緊密に関わって生活するので、文化的進歩の速度は速く、多様で垢抜けており、些細な気晴らしは流行をもたらし、そこに世俗というものを生む環境があった。それはシュメール文明期の詩文にも表れており、若い男女の恋の顛末が語られ、女性は今日でも評価されるほどに美しい装飾品で身を飾り、それらの工芸品を制作する工房も存在した。
南メソポタミアの膨大な穀物の収穫は人々の間に分業の余地をもたらし、大麦の単位「シェケル」は今日イスラエルでの通貨名となっているように、既にこの時代に人々の間での物の交換に用いられる通貨の役割を果たしていた。それによって城市の外に暮らす遊牧民などの移動生活者は、自分の産物により穀物をはじめ多様な物品を得ることができた。
街にはメソポタミアを流れる大河が、上流域との交易をもたらしていたうえ、他の城市や鉱山からの水運や陸運の行商人を迎えつつ、自分たちの多様な製品に磨きをかけ、それらは人々の生活水準を向上させるものとなっていった。ウルでは即席食品までもが作られたことが分かっており、人々は食事の時間も惜しんでそれぞれに生業や楽しみに没頭していたことであろう。
だが、これら街のコミュニティが城壁に囲まれる必要があったように、必ずしも良いことばかりでは済まなかった。人間の利己心と貪欲とを避けることができなかったのであり、隣人同士の距離が近いということもそれだけ争いが起こる頻度が上がってくる。そこで人々の間では善悪を定めて、人々を規制する必要が生じることになる。
この点では、ハンムラビ法典を待つまでもなく、すでに幾つかの法律が設けられていたことを考古学が明かしており、その一つには「エシュヌンナ法典」と呼ばれるものもあり、それは聖書の初めの時期の登場人物にも影響を与えていたことも確認できるのである。
さて、南メソポタミアで興ったシュメール文明はその地に多くの城市を作らせるものとなったが、その社会には秩序を保つための法とそれを守らせる権力とを必要としたことは今日と変わらない。人間の利己性は暴走しかねないので、それをねじ伏せる強力な暴力としての権力を要した。つまり警察権力である。加えて城市同士の争いが起こった場合には、それ以上の権力、つまり軍事力を要することにもなる。現代に至るもこの件は変わらない。
この点で、メソポタミアの様子を描く聖書の創世記は、一つの国家的な城市ばかりでなく、幾つもの城市の上に君臨した皇帝のような権力者として「ニムロデ」の名を挙げている。創世記によればこの人物は元は猟師であり、『神の前に力ある狩人』と称されている。これはこの人物が神に是認された有力者を意味しない。創世記はこの以前の時代の『力ある者たち』(ハ ギッポリウム)として悪名を馳せた者らについて記しており、それは文脈からして明らかに良い意味で語られてはいない。(創世記6:4)
こうして太古の都市生活の中には今日にもみられる社会の要素が揃っており、俗な生活を送りつつ法と権力に縛られた庶民の姿がそこに見えている。
一方で城壁の外に暮らす遊牧民の生活は対照的であり、その生きる場は野原にあり、牧草の生育具合によって移動するので、多数の人々との軋轢が避けられ、権力からの支配は極めて薄い。放牧の仕事は多くの自由な時間をもたらすため、思索する余裕があり、俗世の流行に心奪われる機会もまずないうえ、煩雑な交渉に明け暮れる必要もない。
さて、創世記によればウルの城市の近傍に「テラハ」という遊牧民が居たのだが、創造の神はまずこの人物に語り掛けた。彼が遊牧民であったことについて、今日の識者はまず間違いない事としており、実際「テラハ」とはセム系語で「雄山羊」を意味する。そしてこの人物と神との邂逅がイスラエル民族が歴史に登場する端緒となった。
創世記はこのテラハに至る血統を記載しており、それによればノアから十一代目の人物とされるが、「ノア」とは、あの箱舟のノアである。
テラハは二人の妻を得ていたが、それは最初の妻が先立ったので後妻を迎えたというのではなく、同時に二人の妻を持っていたのである。しかし、これは当時珍しいことではなく、前述のエシュヌンナ法典にも規定されていたように、ひとりの妻の不妊のために一家が途絶えることを避けるために当時には広く行われていた慣行である。特に遊牧民にとって子を成さないなら、多くの家畜という財産の継承者を身内から出せないばかりか、ただでさえ狭い人間関係をますます寂れたものにしてしまう。
テラハ自身は幸いに双方の妻から子を得ていた。
一人の妻からは長子ハランとその妹サライが生まれ、もう一人の妻からは次男アブラムと三男ナホルを得ている。
こうしてテラハの一家が構成されていたのだが、彼らはある時になると『カナンの地』に向かって旅を始め、ウルを遠く離れて北メソポタミアのハラン(カラン)まで一千キロ近い移動を行っている。おそらくはこれがテラハと荒野の神エルシャッダイとの出会いによる行動であろう。ともあれ家族は一度そこに留まった。彼らがその地にしばらく逗留した理由はどうやらテラハの寿命が関係するらしく、そのハランでテラハは二百五年の生涯を閉じている。これは今日からすればあまりに長い寿命なのだが、五歳で乳離れし、四十歳で結婚し、六十歳で子を設け、百八十歳まで生きたというアブラムの息子イサクに関する記録からすると、当時は現代人の倍ほどの長さで人生の各ステージをゆったりと過ごしていたことになる。
それでもノア以前の人々の千年近い生涯からすればまだ短いものであり、創世記の記録によれば、ノアの大洪水の後から人々の寿命は次々に短くなっており、アブラハム自身が175歳、その七代後の預言者モーセに至って120歳となり、今日の感覚に近づいてくる。
神がノアの大洪水を起こす前に『その寿命は百二十年となろう』と予告していたように、今日の人類はこの限界を越える長寿を見ることはない。
(この寿命設定には大洪水前に人間への著しい危険をもたらしていたネフィリムの脅威の除去が関わっていたかも知れない ⇒「悪霊の正体と危険」)
ともあれ、一家は旅の以前に亡くなっていたハラン以外の者たちでテラハを葬っている。(長男の名と土地の名は音が異なるが日本語で区別できない)
しかし、神は次男アブラムに話しかけ、さらに西方に在る『カナンの地』を目指すように勧め、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行くように。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう』と言われる。それに加えて『地のすべての者らは、あなたによって祝福されることになる』とも付け加えるのであった。(創世記12:1-3)
それを信じたアブラムは、妻サライと兄ハランの息子ロト、その他自分の家財や家の下僕らを従えて、国境の大河ユーフラテスを渡り、彼の子孫と創造の全能神エルシャッダイとの悠久の時に亘る関わりが開始されることになった。もちろん、当時の彼らがそうすることにより、後の「神の選民イスラエル」が登場し、預言者モーセによって以後千年以上も続く「律法契約」とユダヤ教が興されることも、更に決定的な彼の子孫として約束のメシア、イエス・キリストが到来すること、以後キリストと共成る象徴の民族『神のイスラエル』が歴史に登場するなど思いも寄らないことであったに違いない。
アブラムの妻は石女であったために、神の祝福を受け継がせるつもりでテラハの家の嫡流に当たるハランの子ロトを伴ったアブラムであったが、その後の長い神との交流を通して、自分の正妻サライが高齢にも関わらず奇跡のようにただ一人の男児を生むことが神から告げられ、夫婦そろって信じなかったにも関わらず、確かに独り子イサクを賜ったのであり、それが奇跡の誕生であることが夫婦の心に刻まれている。彼らには『約束の地』パレスチナに於いて『足の幅ほどの土地も与えられなかった』のだが、その子孫の繁栄を信仰のうちに遥かに眺めて満足する。
その過程で、彼ら夫婦はアブラハムとサラに改名するよう命じられ、今日その名によって広く知られている通りである。
彼らの息子イサクは長じて双子の男児、エサウとヤコブの父となり、そのヤコブの方が「イスラエル」と呼ばれるようになり、彼は二人の妻と二人の侍女から十二人の男子の父となる。これがイスラエル民族の十二部族の礎となり、ヤコブらはカナンの地の飢饉を逃れるためにエジプトに留まり、それから四百年の後には百万を越える一民族に成長したところで、彼らイスラエルの子孫にカナンの地を与え、そこに住まわせるために興された預言者がモーセとなるのであった。
民族としての独立
モーセは、アブラハムの裔であるイスラエルをエジプトでの奴隷状態から導き出して、神がアブラハムの子孫に与えると誓った『約束の地』に携え入れる大役を担ったのだが、それに際して神は他の神々との異なりを示し、世に知らしめるために自らの固有名をモーセに告げている。
その名は確かに旧約聖書の写本に伝承され[יהוה]と記されてはいるのだが、あろうことか、後代のキリストがユダヤを去って後、エルサレムに在った神の神殿が破壊されたことを原因として、この固有名の発音が失われてしまい、以後今日に至っている。当時のユダヤ教徒は「敬虔」なつもりで神殿以外の場所で神名を発音することを固く禁じた命令がその原因となった。
そこで本書は、この至聖の神の御名については四つのヘブライ文字[יהוה]に代えてローマ字に相当する「YHWH」と記すことにする。この神聖四文字の読み方は「エホバ」でないことはまず間違いなく、チュービンゲンの学者が考案した「ヤハウェ」でもないのであろう。
さて、エジプトのファラオは、自分たちの奴隷となって下働きをしていたイスラエルを解放することに同意せず、頑なさを示して神から十度の災厄を被ることになったが、遂に十度目の長子を失う災いに屈して解放を許したものの、数日の内に意を翻し、出発したイスラエルの後を戦車隊で追い、遂に紅海の岸辺に追い込んだと思えたところで、神が海水を二つに分けてイスラエルを逃れさせる奇跡を目の当たりにするのだが、それでも乾いた海底に追撃に下ったところでエジプトの軍勢は海に飲まれてしまう。これが良く知られた紅海の救いとなった。
紅海の対岸、シナイ半島の中に進んだイスラエルの民は、シナイ山のホレブの峰の麓に宿営し、そこで民はモーセを仲介者として神との契約に入ることに同意する。
その契約の内容とは、イスラエル民族に法を与えて国家としての秩序をもたらし、神への崇拝とその方式を定めて他の神々に仕えさせず、創造主にしてアブラハムに現れた神だけを崇拝させるための613条から成るイスラエルの国法たるべき「教え」(トーラー)であり、これを守ることによって民は『約束の地』カナンに於いて繁栄し、最終的には神の選民『祭司の王国、聖なる国民』となり、全地の人々の祝福の元、『諸国民の光』とされることが謳われた。即ち、神がアブラハムに『あなたの裔によって、地のあらゆる民族が自らを祝福する』と語られた事が、ここでも再確認されているのである。
ここで与えられた法律である「トーラー」は、日本語では「律法」と呼ばれ、聖書中ではモーセを介して与えられたところから「モーセの律法」また単に『モーセ』と呼ばれることもある。その最初の十ヶ条は『十戒』とよばれ律法全体の基礎的条項となっている。これらの条文については、神が直接に二枚の石板の両面に記してモーセに証しとして与えたもので、それは格別な容器、金を被せて作られた箱に収納された。
こうして、エジプトで増えて一国民に成長したイスラエル民族は、神YHWHから国法を賜り、いよいよ『約束の地』への入植を目指すはずであったのだが、未だ旅程に在ってさえ、彼らは律法と神の意向に従うところからの逸脱を見せていた。聖書は、その原因を『不信仰』として糾弾している。
イスラエルの民が、彼らの父祖アブラハムのようではなく、問題多い『邪悪な民』であることを神は嘆きつつ、当時の主だった世代が過ぎ去るのを待つために、『約束の地』への入植までの期間を引き延ばして四十年とし、その間にエジプトを出たときの二十歳以上の者らが僅かな例外を除いて絶え果てるのを荒野を彷徨させて待たせたのであった。
カナン入植
やがて、四十年が満了する頃になるとモーセはその役割を終え、その従者として仕えて来たモーセと同支族の長であるヨシュアがイスラエルを率いてカナン人の土地への侵攻を開始するに至った。
カナン人とは、ノアの三男の子、即ち孫に当たるカナンに由来する民族の総称であり、十一の部族によってレバノンの地中海沿岸を中心にエジプトの手前まで定住していた。その名「カナン」には商人の意があり、実際、長子シドンは地中海沿いに港湾都市を築いて海外交易を広く行うようになり、ギリシア・イオニアの人々は彼らを「フェニキア」の名で呼ぶようになる。簡便なそのアルファベットは交易に適し、やがて世界へと拡げられていった。
この民族にはシドン人の他に、ヒッタイト、エブス、アモリ、ギルガシ、ヒビ、アルキ、シニ、アルワド、ツェマリ、ハマトの部族があり、神がアブラハムの子孫に与えるとした『約束の地』を含む、エジプトの手前から地中海沿岸を含んでシリア内陸部にまで居住が及んでいた。旧約聖書には、これらの民族名が度々登場しているが、多くの場合でイスラエルに悪影響をもたらしている。その原因は、彼らの崇拝する神にあり、北メソポタミアから地中海まで広く信じられた神ハダド、またの名をバアルという雷を手にする偶像で崇敬された季節をもたらす天候の神であり、バアルとは「主」を意味していた。
この神の崇拝の特徴に、嬰児を生きたまま火の中に落として捧げるというおぞましい要求があり、イスラエルの神YHWHはこの崇拝の影響を受けることがないようにと律法で繰り返し注意を促していた。
だが、イスラエルは周辺のモアブやアンモンというロト系の近親の民ともども、やがてその影響に屈するところとなってゆく。
その原因といえば、ヨシュアに率いられたイスラエルは、カナン民族の主要な抵抗を排して『約束の地』の各所に定住することはできたのだが、イスラエルの十二の各部族はそれぞれにカナン人の城市のすべてを陥落させ、非道なカナン人への神の裁きの要求通りに殲滅させるには至らなかった。パレスチナにはイスラエル人の街々が存在するだけでなく、カナン系諸族の街もその間に点在していたのであった。その異民族との同居状態をYHWHは指摘して『彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたの罠となるであろう』と言われる。そして実際にそのようになり、イスラエルはバアルを崇拝することに躊躇しなくなってゆく。⇒ 書籍「バアル崇拝の顛末」
しかし、これは現代のユダヤ人がアラブ系先住民に害を与え、住居を奪って駆逐する根拠にはなり得ない。後述するように、イスラエルはなぜ『約束の地』を失ったのかをまず考えるべきであり、その反省なくしては今日の諸国民からの敬意さえ得ないであろう。聖書の神YHWHは、イスラエルを『不信仰で』『頭の硬い民』と呼び、この民を四十年にもわたって導いたモーセも、その後継のヨシュアも、その同じ民に諦めの言葉を聖書に残しており、それは後代にキリストが現れて決定的な結末に至っている。
約束の地から吐き出される
古代にも、イスラエルが王を戴く時代を迎えると、王権が横暴になったことによる二つの王国への分裂、十部族のイスラエル王国と、エルサレムと神殿を擁する二部族のユダ王国に分かれた後に、双方共にバアル崇拝の影響を免れず、時に善王が現れ、預言者が事を正そうとするも、彼らの体制が民族として律法を守っていたとは言い難い時期が多かった。これを神YHWHは指摘して『彼らの先祖たちがエジプトを出た日から今日に至るまで、彼らは常にわたしの目の前に悪を行って、わたしを怒らせた』と言われる。それでも神がイスラエルを顧慮したのは、彼らの父祖アブラハムへの約束を守るためであった。(列王第二21:15)
ここに於いてYHWHはイスラエルとの契約に見切りを付ける。それはかつて紅海を割って救った民が早くも律法を守らず、荒野での境遇に不平を鳴らし続けた結果、遂にその世代を『約束の地』に入れなかったように、その不信仰の延長のようでしかなかった血統のアブラハムの子孫への諦めであり、それは民を率いて『約束の地』に導き入れたヨシュアにさえ見透かされていたことであり、最晩年に至ったヨシュアは自らの民族についてこう語った。
『あなたがたの神YHWHがあなたがたについて約束したすべての良いことが実現したように、YHWHはすべての悪いことをもあなたがたにもたらし、遂には、あなたがたの神YHWHが、あなたがたに与えたこの良い地からあなたがたを根絶やしにするであろう。YHWHが命じられたその契約を犯し、行って他の神々に仕え、それを拝むからである』。(ヨシュア23:15-16)
律法不履行の場合に何が民に降り掛かるかは律法契約の締結直後から、すでにモーセが警告していたことでもあった。
『あなたがたがこの地を汚して、この地があなたがたの先にいた民を吐き出したように、あなたがたをも吐き出すことのないようにせよ』。(レビ記18:28)
やはり、アブラハムの血統にある民族とはいえ、その父祖のように信仰深く、何事にも神の言葉を行うとは限らなかった。
神は律法契約は遵守されなかったと判断し、彼らの王国の末期に入るとイザヤやエレミヤのような預言者らを遣わして、来るべき処置を知らせ始めるのであった。
それがアッシリアとバビロニアによるイスラエル王国とユダ王国との征服と滅亡であり、相次いで現れる二つの強大な覇権国家の占領政策によって、イスラエル王国の民は北メソポタミアから東方にかけて、残ったユダ王国も南メソポタミアへと強制移住させられて『約束の地』は遂にイスラエルをも吐き出すに至る。
『約束の地』の北側を領したイスラエル王国は、アッシリア王に攻められ首都サマリアを破壊されて民はアッシリアからメディア方面に移され、南のユダ王国はエルサレムとYHWHの神殿を破壊された上でバビロニアへの流刑に処せられた。それぞれ西暦前740年と前586年の事とされている。
パレスチナへの帰郷
だが、これらの処罰は恒久的なものとならないことを預言者らは予め知らせていた。彼らは『約束の地』に戻って来ると予告されていたのである。
それは「回復」または「慰め」(ナハムー)の預言と呼ばれ、顕著なものにイザヤ四十章以降があり、そこはこのように始まっている。
『慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたがたの神は言われる。エルサレムに優しく語りかけ、これに呼ばわれ、その服役の刑期は終り、その咎は既に贖われたのだ』。(イザヤ40:1-2)
これを記した預言者イザヤは、未だユダ王国も神殿も健在であったヒゼキヤ王の時代の人であり、イスラエル民族が帰還に至る二世紀前にこの言葉を語っていたことになる。
だが、神はイスラエルをまったく捨て去らず『祭司の王国、聖なる国民』をアブラハムの裔から起こす目的を放棄してはいなかった。もし、そのようにされていたならキリストも現れず、全人類の希望もそこで潰えたであろう。
そこで一度は捕囚の憂き目に遭い、普通の民族であればもはや再起も望めないような境遇から、イスラエルを救うべく神は独りの傑出した人物を起こすことを明言する。
それが『東からの人』、『キュロス』と名指しされた後にペルシア帝国を起こすキュロスⅡ世王のことであった。
キュロスのペルシアは、それまでのアッシリアやバビロニアの政策とは逆に、諸国民を故地に戻し、それぞれの宗教を保護したので、ユダとイスラエルの捕囚民も『約束の地』に帰還し、YHWH崇拝を復興する機会に恵まれたのであった。これら一連の処罰と釈放の記録は、旧約聖書の後半に在って神の一大事業として記されている。
それらの預言に込められた意義は、人間の不善にも関わらずその意向を進める神の全能性であり、また、その赦しの豊かさであり、ほかにも多種多様な神の崇めるべき特質と、深慮遠謀の驚くべき智慧とが表明されているのである。
それは、数々の預言の中に込められた二重三重の成就をもたらす意図の内に、我々現代に生きる人々にさえ、なお将来に迎えることになる重い事象についての注意すべき警告をも含んでいるのであり、特に「捕囚からの帰還」に於いては、旧新双方の聖書が揃って二十一世紀の現在でもなお起っていない将来の「回復」に焦点を当てている。そこで我々は過去の出来事から「終末」に起こる事柄、つまり『この世の裁き』が行われ、あらゆる人々が関係する事象について洞察するよう促されているのである。
そして、エルサレムと神殿の破壊を、そして民の捕囚を目の当たりにしたのが預言者エレミヤであった。
この預言者は神に背き続ける民の中に在って迫害に身を曝しながらも、民の行くべき道を語り続けたのだが、そのような回心の機会を開かれていながら、遂にイスラエルはすべてに於いて神の掟をないがしろにして、その終わりに至ったのであった。
それでも神はこのエレミヤを通して、律法契約に代る別の契約について語り、捕囚への処置が神とイスラエルの関係の終りとはならない一縷の希望を示したのであった。それがエレミヤ記31章に記された『新しい契約』と呼ばれるイスラエルとの関係の更新であった。
『見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。・・わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう』。(エレミヤ31:31-33)
このような律法契約と異なる『新しい契約』とは何を意味するのか。それはこの言葉が語られたエルサレムと王朝の終りの時期にあっては到底分かるものではなかったに違いない。
だが律法そのものも、契約の仲介者モーセに匹敵するほどの偉大な何者かの出現を予告する記述があった。
『わたしは彼らのために、同胞の中からあなた[モーセ]のような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう。』(申命記18:18-19)
予告されたメシアの到来
このように将来に傑出した人物が現れる事について旧約聖書は度々に語るので、次第にユダヤ教徒は神から任命されて現れるであろうその特定の人物を「メシア」即ち、香油を頭に注がれる儀式によって高位の任命を受けた格別の人物と想定し、旧約聖書の多様な場所にその特定の人物に関する予告の言葉が存在することに気付くようになっていった。
その古くは創世記から見出すことができ、その者は『シロ』とも称され、イスラエルのユダ族に由来すること(創世記49:10)、ダヴィド王の血統から王座の継承権を持って到来し(詩篇132:11)、出身がベツレヘムであること(ミカ5:2)、例え話を用いて話すこと(詩篇78:2)などが理解されていった。
だが、その「来るべきメシア」が実際に到来したときに、ユダヤがどうしたかと言えば、当時の宗教体制はモーセの律法に固執して自分の義を主張するばかりに、そのメシアがもたらそうとした宗教上の次元上昇にはついてゆけず、再び不信仰を示して『新しい契約』に参与することなく、仲介者メシアを含めて拒否してしまうことになる。それはモーセやヨシュアが失望と共に予見していたことであり、神に至っては折込済みで、イエスの受難で起こる細々な点まで預言者らに予告させているほどであったのだ。
この民族の問題は彼らの『頭の硬さ』、即ち自分の正義に凝り固まり、自然な感覚の内に耳を傾け、目を澄ますことをしなかったところにある。
「自分たちは神からの是認があって救われている」との信仰が傲慢さを招き、その刃はキリストにさえ向けられた。これは今日の熱心な一神教の信奉者の多くが陥っているところでもある。
畢竟、律法が人の罪を暴き出す働きを持ったように、イスラエルと雖も『アダムの罪』を免れず、たとえ律法の下に別の民族が置かれたとしても、違った結果を得たかはまったく疑わしい。
そこで、イスラエルは我々諸国民を代表して余分の労苦を背負いつつ、人間と云うものの限界を示したと見ることもできる。それは労役であって、朝から葡萄園で働いた人足のようで、後から加わった者らと同じ賃金では収まりがつかないということもあろう。確かに苦労は多かったのだ。
だが、神との深い関わりに与った彼らもまた「特別な人間」ではなかったのであり、パウロも云うように血統が正しさを作りはしないということであったのであろう。これは「誰が優れているか」という論議を沈黙させ、共に人に取り付く『罪』を悔い、キリストの贖いの犠牲に心を向けるべき道理を説くものではないか。
自分を利して、他者を退ける独りよがりな「信仰」がどれほど有害であるかは、今日までの歴史が争いの火種として証してきた通りであるのに、ほとんどの信仰者はそれに気を止めず、教師らは却って正しさを煽っては来なかったろうか。そこに「宗派による神の独占」という恐るべき誤謬があり、それこそは「キリストを殺めた邪悪の根源」ではないのだろうか。
だが、これも旧約聖書の予告するところでもあった。
キリストは『人々から信じられず』(イザヤ53:1)、イスラエルにとっての『躓きの石となり』(イザヤ8:14)、『裏切られ』(詩篇41:9)『罪人として裁かれる』(イザヤ53:8)。
だが、これらの陰気な予告は宗教熱心で神の是認があると自負するユダヤ教徒には到底受け入れられない内容であり、そこで注意力は削がれていたのであり、確かにその罠にはまっていった事態は後の新約聖書が克明に記すところとなっている。
そして、古代にモーセを通して『これに聞き従わない者があらば、わたしはそれを罰する』と警告されていた通りに、現れたメシア、ナザレ人イエスを退けて殺害したユダヤ体制は、それから一世代を経ない内に徹底的な滅びを被るのであった。
その報いが西暦七十年に於けるローマ軍によるエルサレムと神殿の二度目の破壊であり、新約聖書でイエスの使徒パウロが予告していたように、『神は「新しい」と言われることにより、初めの契約を古いとされた。年を経て古びたものは、近く消えていくものである』。(ヘブライ8:13)
こうしてイスラエルは二度目に約束の地から吐き出されたのであり、それはメシア殺害という一度目より決定的な罪を負ってのことである。
これはバプテストが予告していた、小麦と籾殻への処置に他ならず、キリストに信仰を懐いた少数者らには聖霊が注がれて『新しい契約』に参与したが、大半のユダヤ人に臨んだものは、ローマ軍による壊滅と離散の始まりであった。こうして小麦は蔵に納められ、籾殻は火に焼かれたのである。
こうして『イスラエルが海辺の砂のようであっても、帰って来るのはわずかな残りの者である』の句がバビロン捕囚以来二度目の成就を迎えたのであった。
二度目の回復
こうして、アブラハムの子孫の経歴を辿ることで、我々は契約の不履行によってイスラエルの民が受けた二度の処置を通し、悠久の時に亘る神の偉大な意向、その経綸を探り出し、我々の将来に起る『回復』をも予期することができるのである。
だが、終末の『回復』は血統のイスラエルに起こると期待すべきものではない。パウロは『接木』に例えて、イスラエルという『根』に属しながらも、不信仰な枝を折り取り、信仰ある質のよい『諸国民』というほかの枝が接木され、イスラエルの名目を得る事態が起こったことを知らせている。『そうしてイスラエルの全体が救われる』とは、一本の木のようにアブラハムの裔としての名が、良質な異邦人の参入によって補われるという意味であり、血統のイスラエルがそのまま救われるとは言っていない。
あのペンテコステの日から、聖霊が生み出しす「象徴的なイスラエルの民」が現れ、『接木』が起こってアブラハムのような信仰を持つユダヤ人と異邦人とで構成されているため、石玉混じる血統のイスラエル民族よりも純粋で遥かに清く、キリストの犠牲がもたらした『被造物の初穂』として神の前に罪を赦され義を得ているゆえに、聖書はこの民を『聖なる者たち』、または『聖徒』と呼んでいる。
これが真実のアブラハムの子孫『神のイスラエル』である。バプテストが予告していたようにこの人々は聖霊のバプテスマに与り、キリストの兄弟にして共同の相続人となりアブラハムからの『地のあらゆる民族の祝福となる』との神の誓約を受け継ぐ者らとなったのである。
これらは終末を映し出す鏡像のようにキリストの再臨の時期を暗示している。
キリストを退け、モーセに拘り続けるユダヤ教徒は終末に在っても聖霊に逆らい続け、肉体で現れるであろう偽キリストでもなければ受け入れず、偶像のような具体物でなければ信じないことであろう。それであるから、彼らは実際の血統、実際の土地に固執して憚らない。
彼らにとって、キリストを土台石とし、聖霊が生み出す象徴の民族『神のイスラエル』など、到底受け入れられないことであろう。血統のイスラエルという「ハガルの息子」が「サラの息子」を虐げたように、聖が生み出した奇跡の子らが終末に至って、再び聖霊注がれ驚嘆を誘う言葉を、公の場に引き出されて奇跡の言葉を語るとき、旧態依然とした宗教家にとっては、それがキリスト教であろうとユダヤ教であろうと激しく反発しないで済むものだろうか。
だが、目に見えるものではない『霊による崇拝』、それはイエス後の千八百年の永きに亘ったメシア不在により聖霊の無い期間が続いたその終りを印付けるものとなり、かつてのバビロン捕囚からの解放によってYHWHの神殿祭祀の中断が七十年で終了したように、不定の期間を含みつつも『七十週年』を以って完全に成就するメシアの天界の祭祀の開始を印付けるものとなるであろう。 ⇒(ダニエルの七十週)
それゆえイエスは『「見よ!ここに居る」と言われても出て行くな』と言われるのであり、ご利益信仰のキリスト教徒は、目に見える終末の偽キリストという「究極の偶像崇拝」に対してまったく無防備であり、その結末をユダヤ教と共にし兼ねない状況にある。肉体で現れるであろう偽キリストを見て、ユダヤ教徒までもが大量改宗するなどというお目出度い妄想に浸っているのが「クリスチャン」であるという珍妙な事態は、現に今我々の眼前に醸造されている。
一方で多様な聖書の叙述や歴史は、古代の捕囚と釈放とが、ただ過ぎ去ったものではなく、なお継続中の神の大事業であることを示しているのである。
しかし、それは近代の「シオニズム」とはまったく関わりがない。
新約聖書でパウロを筆頭に使徒らが聖霊の教えを説いて、あのペンテコステの日以来、聖霊注がれた民『イスラエルの残りの者ら』が集め出され、その後エルサレムと神殿がキリストを退けた報いとして完膚なきまでの破壊を経験したため、以後は律法の完全な履行が不可能となっている。
まさにこれはパウロが予告していたように『古いものは近く消え去る』の言葉通り、キリストの完全な犠牲の献上を以って、動物の犠牲を捧げるモーセの崇拝方式の終わりとなった。キリストは『エルサレムでもないところで神を崇拝するときが来ている』とサマリアの女に語り、『神は霊であられるから、霊と真理を以って崇拝されるべきだ』と自らが据える神殿祭儀とは異なる新たな崇拝の到来を告げられた。
霊の崇拝を荷う格別な民、『水と霊から生まれる』というキリストの犠牲が生み出す『罪』を相殺された者らの出現については、パリサイ派でサンヘドリン議員であったニコデモスの理解を超えるものであったように、聖霊注がれた『聖なる民』、あのペンテコステから現れた『真のアブラハムの裔』を今日のパリサイ派たるユダヤ教も把握することが難しいとしても無理は無い。
これを「置換神学」と揶揄してレッテル貼りすることは如何にも簡単だが、『イスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、救われるのは残りの者だけであろう』とイザヤが語り、パウロがそれを引用して『イスラエルから出た者が皆イスラエルなのではなく、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではない』と教えた以上、これらの聖書の記述を覆すことはまず無理であろう。実際、ユダヤ教に対するキリスト教の超越性は圧倒的で拭い難いものがある。 ⇒ 「キリスト教の優越性」
メシアを葬る不肖の子ら
誰であれ自分の民族を誇りにしたい気持ちはあるものだ。ましてアブラハム、イサク、ヤコブの血統の子孫であれば、神からの言葉を託され、契約に在ったからにはこれ以上の民族もない。だが、それだけに諸国民の耳目を集めることになり、その重い責も担ったのである。
即ち、どの民族が優れているかという事よりも重い意義がそこにある。それは「何を学ぶべきか」ということに他ならない。
『我々の父はアブラハムだ』と言い張り、現れたメシア、ナザレ人イエスに強硬に反対して殺害を企てていたユダヤ人らに対し、『アブラハムの子らだと言うなら、アブラハムの業を行え』とイエスは応じている。この論議は二千年の時を経た今日にも残響し、やがて大きな論争となるであろう。
ローマ軍により第二神殿もろとも崩壊され、バビロン捕囚以上の亡民となったユダヤが、今日まで当時のローマへの蜂起を正当化し続けている現実からすれば、イエスが帰依したユダヤ人らについては神殿とエルサレムに見切りをつけ『山に逃れよ』と命じて、その者らを危険から遠ざけたことは、以後のユダヤの宗教体制に神の是認の無いことを示しているであろう。
それを例証するものを加えるなら、イスラエルの神であるYHWH[יהוה]の名、即ち「ハ シェム ハ メフォラーシュ」(「その固有のその御名」) の読み方さえユダヤ民族から忘れ去られたのは、血統によらない真実のイスラエルの民、聖霊注がれる諸国民から構成される、「アブラハムのような信仰の民」の終末の現れによって再び知らされ、何者が創造の神YHWHの是認を受ける『神のイスラエル』であるかを、世界は彼らを通して知り、その神の御名の呼び方を再び学ぶ日が来るためであり、それがキリストの再臨による『終わりの日』に入ったことを知らせるであろう。使徒ペテロは預言者ヨエルの言葉を将来に適用し『その名を唱える者は救われる』と語っている。
それであるから「クリスチャン」を称する人々が、血統のイスラエル民族に未だ神の是認があると思うとすれば、それはキリストの犠牲を否定していることになる。ユダヤの自己義認と正当化の歴史は、近年に限られたことではなく、旧約聖書からして預言者らを迫害して来た姿に刻まれている。
キリスト教徒について言えば、『新しい契約』によって、サラがようやくに生み出したイサクのような、水と霊によって生み出された『神のイスラエル』を知ることなく「キリスト教徒」を自認するのは大矛盾であり、血統のイスラエルが「エゼキエルの幻の神殿」を建造するようなことにでもなれば、どうしてキリスト教徒がモーセに従い動物の犠牲を再び捧げなければならないだろうか? むしろ、そこから一目散に逃れなければならない道理があろう。
これら一通りの内容に触れることをきっかけに、読者諸氏が更に事の真偽を自ら確認なさることを願いたい。やがて、世界はその『終わりの日』を向かえなければならず、今現在の信仰の有無にも聖書の知識にも拠らず、あらゆる人がそれぞれ内奥の性向を神の前にさらけ出す時が到来することを、古来より聖書記述が指し示して来たからである。全能の神は聖書の言葉の通りに行動して人を安心させず、まして宗派にも納まってはいないのであり、『あなたがたがエジプトから逃れる際に見たような驚嘆すべきことをわたしは見せる』と言われる以上、真に神を崇敬する者は人知を超える神たるものを聖書の言葉の表層や人間の教理で縛ってしまえないことを弁える必要がある。
この点でキリスト教信者の多くが置かれている精神的な状況はどうなのか?
イスラエルのように凝り固まるのが「信仰」だとばかりに、自分の正義や救いを妄想しているとすれば、その結末はどういうことになるだろうか。
神の前に自信に溢れ、自己義認に疑いを持たなかった血統のイスラエルが裁かれたように、終末に『この世』の全体も内心を問われるのであり、むしろ聖書はイスラエルの裁きの結果を介して世界が教訓を学ぶべきことを知らせているのである。総じて、イスラエル民族が聖書を通して教えてくれていることは、自分の正義感に疑いを持ち、自然な価値観を失わないことと云える。この世に「正しい人間」など一人も居ないのだ。
終末に関する聖書記述を組み上げた結果の俯瞰の書