神に召し上げられたレヴィ族
人に香油を注ぐ儀礼は、その人を高い役職に任命することを意味します。
後にナザレからの人イエスが「キリスト」、つまり「油注がれた者」と呼ばれたのも、バプテスマを受けたイエスの上に、天からの『聖霊』が『鳩の形をとって』香油のように注がれ、神からの任命を受けたことを指しています。ナザレ村からの人イエスがキリストに任命されたのはその時のことであり、およそ三十歳であったと福音書家のルカが記しています。
その千数百年も前のこと、荒野ではモーセがアロンの頭に香油を注ぐ日となりました。そのことを詩編は『注ぎ油はアロンのあご髭から滴る』としてその喜びをイスラエル同胞の一致と共に詠っています。(詩編133:2-3)
アロンへの香油の注ぎは、この民族が戴く神の崇拝の頂点を成す『大祭司』への任命であり、イスラエル諸部族の百万を越える同朋のすべてが、以後この崇拝によって民族の一致を得ることにもなるのでした。
同じように、後代のイエスへの聖霊の注ぎは、アロンを超える新たな崇拝の『大祭司』を生み出しました。ですから、新約聖書はイエスが『大祭司』となったことを告げて『イエスは、神の御前に哀れみ深く忠実な大祭司となって、民の罪を贖う』と述べます。(ヘブライ2:17)
後のイエスは、モーセの制度に代わる新たな崇拝方式の大祭司となられ、その祭儀は、世界の人々、あらゆるアダムの罪を負ったまま空しく苦しみの多い生涯に縛られたすべての人々に開放をもたらすことになります。それが神がアブラハムに『地のあらゆる民族の祝福となる』と約束した真相であり、イエスはそれを『神の王国』として宣教の主題に据えました。
古代の大祭司アロンの任命は、これを小規模に地上で示す先例となり、来るべき人類全体の一致の絆を与える天の崇拝を教えるものとなったのでした。
さてモーセは、エジプトを出て二年目の初めのアロンへの任命の日までに、ホレブの山頂で授かった指示に従い、YHWH崇拝のためのすべての什器と職服とが揃っています。モーセは命じられた通りにそれらの什器に油を注いで聖なるものとし、アロンを崇拝の天幕の前で水で洗い、それから特別な式服を付けさせ、その頭に油を注ぎます。
次いで、アロンの子らにもそのようにして、崇拝のための役職である『祭司』とします。その油注ぎによる任命は『代々にわたる定めない時に至る祭司職を彼らのものとするためのもの』であるとYHWHは言われました。祭司となるためには三十歳になっているべきものともされます。(出エジプト40:15)
出エジプト記は、崇拝で使われる器具、什器、職服、が制作されてゆき準備が整う場面で終わっていますが、ホレブ山上のモーセには二度目の四十日の間に、相当量の神の指示が与えられているに違いなく、続く「レヴィ記」には、崇拝に関わる非常に多くの契約条項が記載されているのですが、この書はふた月くらいの短い間に書かれたことが、続く「民数記」との関係で分かります。
その間に、モーセは会見の天幕の中で指示された事柄の数々をすらすらと記していったことでしょう。それはモーセという人間一人の能力を遥かに超えたことで、それはレヴィ記に含まれる記述が聖書巻末の黙示録に至るまで繰り返され、意義に於いてずっと一貫していることに表れています。
また、崇拝の準備として驚くべきことは、これら崇拝の準備が荒野で行われ、金銀銅の様々な什器や器具類、アザラシの皮革、かなりの量の麻やきわめて貴重な紫布などが民の寄進で調達されたことです。荒野の産物としてはアカシア材が含まれるくらいで、ほかに宝石を加工もしているのですから、奴隷身分から脱する民がエジプト人から剥ぎ取るようにして持ち出した物品の質と量にはかなりのものがあり、また、荒野のイスラエルの百万を優に越える規模について、聖書が誇張していなかったことを示してもいるのでしょう。
今や、会見の天幕のある境内は、結界を示す白い幕で囲まれ、その中庭に捧げ物のための祭壇と、祭司らが天幕に入るときと祭壇に捧げ物をするときに手足を清めるための水を湛える貯水槽である『海』が置かれ、祭司は民が捧げる様々な供物を庭に設置された外の祭壇の上で燃やします。それは動物の犠牲、穀物や葡萄酒などの飲み物の捧げ物などがありました。それらが燃やされる香りを神が受け入れるとされます。
供物の意味に応じて祭司はそれらの一部に与ることもでき、また寄進者と共に肉を食べることもあります。
庭の祭壇は、荒野でも生育するアカシアの硬い木で井筒型に組まれ、その上に銅をかぶせた2mとすこしの正方形の大きさで、高さは1.3mあり、その上部の四隅に角が放射状に突き出ていました。
すべてが金属製でないのは、重さを減らして移動を容易にするためだったのでしょう。この祭壇には炉床となる底がないので、実質的に供物は地面の上で焼かれることになります。
動物はこの祭壇の北側で屠られ祭壇で焼かれます。
それらの犠牲は、罪の赦しに関係し、人の罪のために動物が犠牲になるという儀式がそこで繰り返されることになります。
しかし、犠牲の脂肪と血については別格で、それはYHWHのものとされ、人が食べることを禁じ、神に捧げられるべきものとされます。
特に血については、誰であっても動物の血を食べてはならず、捧げ物の動物の血はすべて神に捧げられなくてはなりません。
崇拝だけでなく食用として屠られる動物の血も、血抜きは必須で、土に注ぎ出し、それに土をかけて処理すべきものとされます。
その理由は『血の中に魂*があって、それが贖罪を行う』のであり、命の代価にように見なされます。(レヴィ記17:10-14)*[多くの翻訳聖書が一般の理解を優先して原語にある「魂」(ネフェシュ)を「命」に入れ替えてしまっています]
この『魂』(ネフェシュ)という言葉は、「霊魂」と言われるような肉体から離れる意識のようなものを指すのではなく、個々の命ある神の創造物の象徴であることを指し示しています。
『すべての魂はわたしのものである』と言われる創造の神の言葉からすれば、魂である血までを食べてしまわないことにより、人が神の創造物の命を取るにしても、その所有権は神にあることを尊重していることを表し、神が『命の源』であられることへの敬意を示すことでもあるでしょう。(エゼキエル18:4)
ですから『魂』とは、人だけでなく動物にも当てはまるものであります。それぞれが、命を持つ神の創造物であるからです。
しかし、本当に人の罪の対価となって赦しを与えるのは、動物の魂ではなく、人間の魂なので、たとえモーセが自らを生贄として差し出しても、元々アダムの罪ある身である以上、誰の罪の赦しにもなれません。
しかし、イエス・キリストの『魂』はアダムの『魂』の身代わりとなり得ます。処女から生まれたその身にアダムの罪はなく、アダムの罪のない人間であった状態にあるイエスは、アダムに成り代わり人類の『とこしえの父』となるために、完全な『魂』を神に捧げたのであり、その血は犠牲として差し出した『魂』の価を象徴するものでありました。ですから『魂』の価値は、その生死に関わりなく存続しますし、もはや液体の血はそこでは意味を持ちません。(ローマ5:12-15)
そのため、液体の血のそのもが『魂』というわけではなく、『魂』の象徴が血であったのです。なぜなら、人は『魂』そのものを把握することはもちろん、扱うこともできません。そこで神は血という具体的な物を通して、創造物の価値としての『魂』を鄭重に扱うことができるようにされました。
律法の上では、人が神の創造物である命あるものを尊重できるようにと、「血の禁食」を求めたのであり、もともと血液そのものが『魂』というわけではありません。
そこで、律法に従ってきたユダヤ人からすれば、異邦諸国民の中には血を食べたり飲んだり、浴びたりする習慣には大いに悪を感じたものですから、キリストの弟子たちの中にユダヤ人と非ユダヤ人が混じるときに起る、良心や善悪の感覚の違いから分裂が生じないようにとの配慮から、キリスト教徒の中に律法を守ろうとするユダヤ人が居る間は、諸国民の弟子たちにも、ユダヤ人の良心のために血を食することを禁じていたのが、使徒たち集まったエルサレム会議の議決の趣旨でありました。(使徒15:19-21)
それですから、何が何でも血を体内に取り入れたならキリストの教えに反するということにはなりません。まして「輸血もすべきでない」とするのは、他の人々と異なる「自分の義」を見せて神に取り入ろうとするキリストに反発した律法主義者の行いという以上に何か意味があるものでしょうか。(ルカ18:11-12)
さて、祭司による奉仕は天幕の外の庭だけでなく、日々その中でも行われることになります。
天幕の中は前室と奥の間の『聖の聖なる処』の二つに幕で仕切られ、手前には祭司らが日毎に奉仕する聖なる部屋として、南には「七又の燭台」、北には「パンの食卓」西にある内陣に面した「隔ての幕」の前には小さい「香の祭壇」が置かれます。
香の祭壇は50cmに満たない正方形の上面を持ち、高さは1mに満たない小さなものですが、ここで祭司は毎日二回、朝と夕に指示された通りの特別に調合された香が炊かれます。この調合は崇拝以外に用いることが禁じられた特別の香りでありました。これは『きわめて聖なるもの』とされるべきと神は言われます。
聖書ではダヴィド王の詩編と、新約聖書では黙示録がこの『香』と『祈り』とを結び付けています。(詩編141:2/黙示録5:8)
香が祈りの象徴であるなら、神は人の祈りが日々行われ、また他の場所で捧げられるものとならないように制限されたところにその意図を見るかのようです。後にイスラエルがYHWHへの崇拝をなおざりにして、異神に香を炊くまでに不忠となったことを考えると、香を炊くという儀礼一つにも、古来から様々な宗教の中で神への人の関わりの姿が広く反映されてきたことが偲ばれます。しかし、香が格別のものであったように、人は真の神に祈りを捧げるべきであり、悪霊や偉人に頼るようなことのないようにするべきでしょう。
その祭壇の右側の面、つまり北側に沿って置かれるのが、食卓であり、ほかの備品と同じくアカシア材で作られ、金で覆われています。
幅は88cm、奥行が44cmほどでありました。
これは丸いパン(またはケーキ)の合計十二枚を縦に六枚づつ重ねて置くための卓台で、それらの『供えのパン』は安息日になると新しいものに取り換えられます。
これら『供えのパン』は直訳すると『顔の前のパン』の意味で、一週の間神の面前に在ったためきわめて清いものとされます。下げられたパンは祭司らだけが聖なる場所で食するべきものとされ、パンと共に添えられた乳香だけが香の祭壇で燃やされ、十二枚のパンが神に捧げられた象徴とされました。
これらのパンについては、紀元前四世紀にユダヤ人の監修の下に旧約聖書をギリシア語に訳した聖書「七十人訳」では『供えのパン』の「供え」を「目的」や「予定」を意味する単語(プロテシス)に訳しています。(歴代第二13:11)
この語は新約聖書では、キリストによる『天にあるものと地にあるものとをキリストにおいて再び集める』という神の目的の中で、キリストの弟子たちについては『わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的(プロテシス)の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれた』としています。(エフェソス1:10-11)
それが安息日毎に新たにされる「七」と「十二」の繰り返しによる神の「目的」や「予定」を意味するのであれば、それは律法契約は最終的に目差した『祭司の王国、聖なる国民』の十二部族を生み出すことにより、人類に安息の『第七日』をもたらすという、神の変わらぬ目的が繰り返しそこに表象されていると理解することができるでしょう。
それを食物とし、活力とするのが祭司だけであるということは、後に『祭司の王国』となる真のイスラエルの姿を予め映し出しているとも言えるのかも知れません。
そうであれば、これらのパンはキリストによる新たな十二部族の『神のイスラエル』が、この世を象徴する六日間の終りに到来する安息日の象徴『神の王国』を実現することを指し示していることになり、これはエデンで宣告された『女の裔』が『蛇』のあらゆる害を除くという神の最終的な目的をも指し示すものであることになるでしょう。
つまり、これら天幕での崇拝は、達成されるべき目的に向かって進むべきものであり、漫然と永遠に繰り返されるものではないのです。イエス・キリストが無数の動物では成し遂げられなかった真実の犠牲を捧げた以上、この崇拝方式の目的はその時に果たされていました。(ヘブライ10:1-4)
さて、崇拝の幕屋に目を戻せば、奥の間は『至聖所』であり、祭司さえ入れる場所ではありません。大祭司といえども、年に一度祭儀のために中に入ることが許されるばかりで、その灯りのない暗い部屋には『契約の箱』[アアロン ハ ヴリート]が安置されています。その『契約の箱』の中には、モーセに授けられた両面に人手によらず刻まれた二枚の石板からなる十戒ががあり、後には一食分マナを入れた壺、それからアロンの杖が収められます。これは後に『証の箱』また単に『証』と呼ばれます。(レヴィ16:2/イザヤ8:20)
「暗闇」といえば良い印象はない言葉ですが、全能の神にあっては逆の意味を持ちます。なぜなら、人に見せるための偶像のようではなく、人に信仰によって見出されることを求めるからであり、これまでの数々の奇跡に示されたその強力な業は無力な偶像で自らを人に示す必要がありません。至聖所に灯りがないことは、神YHWHが不可視であることをその暗闇が象徴していたと言えます。
そのうえ、至聖所の暗闇は陽の光を必要としないでそこに入る者に自ら光明を与えたのでした。この箱の特筆すべきことは、その全部が金で出来た重い蓋にあり、『宥めの蓋』とも呼ばれるそこには、彫刻された二体のケルヴが向かい合って翼を広げ、モーセが神と会話するときに、その翼の間には奇跡の雲が生じ、そこに「臨御(シェキーナー)の光」が宿ったとユダヤ人に伝えられています。大祭司やモーセらが入室するとき、暗がりの至聖所はその光明によって照らされたので、前室のような燭台を必要としなかったのでしょう。その燭台は七つの枝を持ち、毎夜そのすべてが灯っているように油を供給されるべきものであったのです。(出エジプト25:17-22/レヴィ24:3)
詩篇は神について『雲と濃い暗闇がその周囲にある』と詠い。後のソロモン王も『YHWHは濃い暗闇の中に住まうと言われます』と祈りましたが、自らを不可視にする神は、全知全能の超越性と「人に信仰によって見出されることを求める神」であることを示されます。
この崇拝には、神を表す像はもちろん、絵も図柄もありません。(列王第一8:12/使徒17:24-27)
『契約の箱』の恐るべきところは、本来人が見れば命を落とすというほどの聖なるものなので、天幕を解いて移動するときには、あざらしの皮の覆いがかけられることになります。後の時代には、この箱を直に見てしまったために死を免れなかったベイト・シェメシュという街の人々について聖書は記録しています。(サムエル第一6:19)
しかし、契約の仲介者であるモーセは別格で、彼はその箱を前にしてYHWHと会話することが許され続けます。YHWHは箱の上に生じる霧の中の奇跡の光の中からモーセと会話することを続けられるのでした。(出エジプト25:22)
まさしくYHWHは、臨御光となってそこからモーセに話しかけることを通し自ら話をされる『生ける神』であることを示され、偶像の神々のように無言ではないことを示されました。
こうしてモーセの仲介により、アロンは神YHWHの崇拝の第一人者『大祭司』としての任命を受ける香油の注ぎを受け、またホレブ山麓での不義きわまりない偶像礼拝の騒ぎを鎮圧したレヴィ族の者らもイスラエルの神に仕える者として選ばれ白い亜麻布をまといます。(レヴィ6:10)
その以前にモーセは、まず香油を幕屋のすべての物品に注いで聖なる物とし、新たにされた祭壇や水溜の『海』など聖域の屋外にあるものから会見の天幕の中に収められた什器に至るまでそのようにし、最後にモーセはアロンの頭にも油を注いで聖なる者としました。
モーセは神とイスラエルとの仲介者として、この任命を行う者となり、更に牡牛の犠牲を罪祭として捧げ、その血によって祭壇の四方に突き出た『角』に血を塗り、残りの血は祭壇の基部に注ぎ出します。
次いで雄羊を屠ってアロンの右の耳たぶと手足の右親指にもその血をつけて大祭司として聖別してゆきました。
アロンの下で奉仕を行う『祭司』については、レヴィ族の中から選ばれます。族長ヤコヴの三男であったレヴィには、ゲルション、コハト、メラリの三人の息子が生まれ、そこからレヴィ族はそれらの名で呼ばれる三つの系統に分かれていました。
モーセとアロンの父アムラムはコハトの息子であったので、YHWH崇拝に関してコハトの家系が最も重要な立場を得ることになり、健康なコハトの適齢男子は崇拝の備品のすべての設置と撤去に最初の工程が任され、他の者が直視すれば死に至るという『契約の箱』に覆いをかけるために至聖物に近づくことが許されます。レヴィ族でも他の人々は、彼らが準備を終えた機材を運ぶ務めを負うばかりでした。ほかの諸部族に至っては、同じイスラエルといえども、レヴィの祭儀を受ける側に立つばかりです。
レヴィ族の全体が崇拝の一部を支える役割を持ちますが、コハト以外の者らは当初それら聖なる物品に近づくことさえ許されません。そこでYHWHはレヴィの中でも最重要な働きを行なわせるべき『コハトの支族が定めない時に至るまで絶えることのないようにせよ』と言われます。
祭司は「コーヘン」と呼ばれ、今日のユダヤ人の間でこの姓を持つ人は、古くはレヴィ族もコハト系である可能性が高いとされています。
[今日ではユダヤ人が諸国に散っていたため「コーヘン」の発音は多様に変化しています]
それでも、コハトの男子がみな祭司かといえば、そうとも言えません。
YHWHの意向により、祭司職はコハトの中でもアロンの子々孫々に限定されたのであり、これにはモーセの子孫でも関わりは持たなかったのです。
荒野でYHWH崇拝が始まった時点での祭司は、アロンの子らであるナダブ、アヴィフ、エレアザル、イタマルの四人だけでしたが、イスラエルがカナンの地に入植を始めるころには、更に人数を増していて『約束の地』で崇拝が本格化する必要を満たす祭司団となります。
さて、すでにイスラエルの人々の宿営から『会見の天幕』は離れた場所に張られるようになっていましたが、その後、荒野の旅程で崇拝の天幕が張られるときには、十二部族の宿営からレヴィ族の天幕群によって隔てられ、北側をメラリ支族、西をゲルション支族、南をコハト支族に囲まれます。そして東といえば『日の出ずる』聖なる方向、崇拝の天幕が正方位として神を迎える特別な方角であり、そこにアロンの祭司家系だけが天幕を張りました。
神の聖性はレヴィ族の聖職によってイスラエル一般より高められる位置を常に保つようにされました。このように神がレヴィ族を重用する背景にあるのは、もちろんモーセとアロンがレヴィ族の出であったということがありますが、そこに出エジプトの晩の子羊の犠牲が関わってもいます。
YHWHはレヴィの聖職の規定を伝えて後、イスラエルをエジプトから携え出したあのアヴィヴ14日の晩餐に各家庭で屠られた子羊について語られ、あの時の子羊の血が門口に塗られたために、イスラエルの長子が救われたことを民に思い起こさせます。
そこで神は、死すべきイスラエルの長子らを子羊の血によって贖い、救い出したと言われます。つまり、『わたしはイスラエルのすべての初子を聖なるものとして取分けた』、それゆえ『初子はすべてわたしのものである』と言われたうえで、『すべて最初に生まれるものの代りとして。レヴィ人はすべてわたしのものとなる』とご自身の支族としてレヴィ族を召し上げると言われるのです。(民数記3:11-13)
そのため、ほかの部族の生後一か月以上のすべての長男が数えられ、他方でレヴィ族男子の数が数えられ比較されます。レヴィ族の男子の数は二万二千人丁度であり、他の部族の長子は二万二千二百七十三人となり、レヴィ族の男子が全部族の長子の代りとなるには幾らかの不足がありました。
そこで神は、足りない分は一人当たり5シェケルの金額をが民から徴収され、その金額はアロンの手に託され、長子をレヴィに代替できなかった分の資金は崇拝のために取られます。
こうしてレヴィ族は全イスラエルの長子としての身分を得ることになりました。神はレヴィ族をさらに特殊な部族としてゆきます。
なんとアブラハムの子孫に与えられるはずの『約束の地』をレヴィ族は受け継がないと言われます。(民数記18:20)
他の部族がカナンの地に土地を得て産物を受けるのに対して、レヴィにはカナンの地に散在する48の街々が与えられますが、与えられるのはそれらの都市に付属する僅かな土地だけに限られます。これは、彼らを神の崇拝のための仕事に専念させるためであり、他の部族の産物の十分の一を受けて生計を立てるという他にない生活を送ることになるのです。また、レヴィ族については流血から遠ざけるために、軍役は他の部族に任されます。(レヴィ記35:18/民数記1:45-47)
このようにレヴィの部族が特別扱いを受けた理由は、イスラエルの中から神に買い取られ、抜き取られたので清くあるべきとされたからです。『YHWHの器具を運ぶ者は汚れから離れ、身を清く保つべき』だったのです。
その生計も他の部族が支えることを神は取り決められましたが、それでもレヴィ族も受けた分の十分の一を更に祭司職に捧げ出さねばなりません。そうしてレヴィ族もまた神に仕えるものであることを示すようにされました。(民数記18:26)
イスラエルがエジプトを発って二年目の一月アヴィヴの一日に崇拝の天幕は完成し、その時には天幕の中には雲が生じてモーセも中に入れない時間が生じました。これは神の認証の証しであり、後のソロモン王による神殿の落成後にも起ることになります。
アロンへの油注ぎが行われ大祭司の任命が行われたのは、それから一か月ほど後のことでしたが、アロン親子はそれから更に七日の間、聖なる境内に留まり、『権能を満たす』べきことが求められます。
八日目になると、アロンは大祭司としての自分を贖罪し、次いで祭司である子らを贖罪し、最後に民の贖罪を終え、罪祭と燔祭と供与の犠牲を捧げて民を祝福すると、天からの火が下って祭壇の上に備えられたものをすべて焼き尽くすのを皆は見ることになるのでした。
そして、天幕が組まれて以来、奇跡の雲がその上に生じていて、あらゆる人がそれを見ることができました。それは『雲の柱』であり、エジプトから紅海へと導き、エジプト軍の視界を奪って彼らを守った雲であり、その後もシナイ山へと導いたものでもあったでしょう。
神はその柱が、崇拝の天幕から高く上げられるなら、次の宿営地に出立しなければなりません。
そしてエジプトを出て二年目の第二の月の二十日、ついに雲が高く上がり、イスラエルはYHWHとの契約に臨んだシナイ山麓を離れ、いよいよ約束の地に向かう最初の旅程に着きます。
崇拝組織として構成されたレヴィ族は、崇拝の天幕を移動のためにたたみ、聖なる什器に覆いをかけ、各支族の割り当てに応じて旅支度が行われたことでしょう。
目指す目的地はカデシュ・バルネアであり、そこはパランの荒野で、あのエサウの子孫が住み着いたエドムの地の西の外れに位置し、カナンの地の南に接する辺りに大きなオアシスに恵まれた地で、一国民の休み場となり得る場所でありました。