終末の『北の王』による三度の軍事行動と自壊
(終末論 第三類)
狂気の帝国を崩壊に向かわせる三つの戦役
現代に在って極端な強権軍事国家が台頭したために、周辺諸国ばかりか全球的な影響を被る異様な状況が生じてはいるのだが、その強大な国家も突然の終わりを迎えると教える古代の記述があるといえば突飛な話と思われるかも知れない。
現に、二大覇権の争いは時代の変遷と共に移り変わってきたのだが、今や冷戦期のような間断のない対立が再来するに至った。特に超然たる独裁的な新興のその後発の国家は、平和的台頭をせず、世界覇権を画策し時代の進行方向に逆らう姿を曝し、その支配欲には際限がない。(ダニエル7:24-25)
ただ、これがいつもの世界の趨勢の一場面だけではなく、格別な時にその国家が短期間に顕在化し、また消えて行くと予告する古代書物が存在するのである。
これについて語るのは旧約聖書のダニエル書であり、西暦前500年代のこの書は新約聖書の黙示録と共に読んだままでは謎に満ちる文書ではあるので、教会の中には「こんなものは聖書ではない」と言い放つ牧師もいるほどである。だが、新バビロニア帝国の滅びと新興メディア=ペルシアの権勢の移り変わりを眼前にした著者らしく、当時の支配者の傍に在った視点から書かれていることを考古学の進歩につれて明らかにされている文書なのである。しかも、他ならぬキリストが『預言者ダニエルによって語られた通り』と言及しているのであれば、牧師が「聖書ではない」と言ってよいものか。
さて、かつて前六世紀に記された旧約のこの預言が、前二世紀のセレウコス朝シリアの王を予告して語りつつ、さらにその鏡像となる遥かな将来の別の存在を『末の日』、即ち「この世の終わり」にまで二重に適用させ描写しているのは驚くべきものがある。それは「人類の滅亡」を意味せず、人間が倫理的な傷を負い、利己性によって振舞うようになって以来営々と続きて来た悪と苦しみの横行する今までの「世界」という一続きのシステムが収束することを意味する。簡単に言えば、終末とは人類をも創造した神による「世界の転換」の時期を指す。聖書によれば、それは自ら行き詰まり、最期には神に抗するが、自らの悪の性質のためにまったく瓦解してしまう。
だが、強欲によって推動される現状の世界は、そのような転換を拒む、それもまた利己性からそうするであろう。その転換に人間社会が激しく反対を表明することは、聖書の詩編にも予告され描かれている。(詩篇第2)
やはり神とこの世とは折り合えるものではなく、この世界に「神の摂理」のようなものはなく、この世の悪を引き起こしているのは人間そのものであり、この世に何事も起こる事のすべてを神は承認などはしていない。『この世』はただ人間の悪で動いている。そこで最終的に「神と人との戦い」に発展することになるのだが、この記事で述べるところは、その「終末」の世界の崩壊の前段階を成す幾らか前の時期に予告されていることについてである。
この悪と苦しみ満ちる『この世』を終わらせる神の意志は揺るぎなく、それは早くも「世」が形成される前のエデンの園から宣言されており、以後悠久の時にわたり連綿とその辿るべき過程が聖書に記されてきたが、その一連の流れの帰結について、預言書の中で神と人との最終的な激突が起こることが何度も記されている。(エレミヤ25:31/ヨエル3:9-13/ゼパニヤ3:8/エゼキエル38:21-23/ゼカリヤ14:12-13/黙示録19:17-21)
特にダニエル書と黙示録とは、その最終部分を語りつつも同時に幾らかの内容を『秘すように』と霊感を与えた天使から命じられ、読者から謎多い言葉によって覆い隠している。その理由は「この世の終わり」が「神の裁き」を伴うからである。裁かれる人間に、裁き手が起こる事柄のすべてを教えてしまうわけもない。
だが、ある人々にはその概要を教え、それが起こる時に、神が予め語っていたことをこの世に示すという離れ業をダニエル書と黙示録が特に負っているのであり、それは聖書全巻にわたる見識とその動機によっては開示されるものとなっている。おめでたい「ご利益信仰者」や自己顕示欲に塗れる「知ったかぶり」には秘められており、その前に右往左往するばかりで、雑多で無意味な「解明」がはびこるばかりであろう。
そこで、この記事ではこのダニエル書に描かれる『この世の終わり』の前段階となる、『北の王』という強権国家の行く末について主に追ってゆく。この世界覇権国家が過ぎ去っても、『終わりはまだ来ない』ので、『恐れるな』とキリストは語られた。(マタイ24:6/ルカ21:9)
そこで注目するべきは、特にそのダニエル書の第11章である。⇒ ダニエル書第11章の歴史照合と解釈
まずダニエル書は、旧約聖書に在って新約聖書の黙示録と共に、神からの多くの啓示を幻によって伝える特異な巻物として古来伝承されて来た。⇒「ダニエル書の構成」
その第11章では著者のダニエルの生きた前六世紀に在って、その四世紀後に二大強国の対立が起こる事を予告し、オリエント文化の時代が終わり、ヘレニズム期へ移行する中での不安定な中東情勢に在って、イスラエルの民の上にどのような事態が待ち受けているかを予め知らせるものであった。
それは一度セレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトの間に成就し、地理上中間に位置する神の選民ユダヤはそこで大いに悩まされたのであった。
エジプトとシリアという南北の関係からして、ダニエル書に『北の王』とあるにしても、エゼキエルが終末に至って『北の最果てからくる』という終末の侵略者を単純に「北」という方角に捉えることができない理由がある。このエゼキエルが預言する『北の最果てからくる』という『マゴグの地のゴグ』もまた、ダニエル書の『北の王』とは別に、終末での役割が大きい。
だが、アレクサンドロス大王の後継であるマケドニア人による南北二つの王朝の一方のシリア。即ちダニエルが特に紙幅を割いて述べるシリア王アンティオコスⅣ世の特徴を追ってゆくと、シリアが北に存在したという以上に「北」という言葉には終末に於いては具体的な方角の意味がないことが見えて来る。それはヘレニズム期に於ける『聖なる民』の予型であった当時のユダヤがシリアとエジプトに挟まれ、干渉を受けたことに由来する名としての『北』に過ぎず、エゼキエルの言う『北の最果て』とは意味が異なっていると言える理由が明確にある。⇒ 「マゴグの地のゴグの素性を暴く」
ダニエル書の記述では、その第12章で『聖なる民』(これは現イスラエルを指さない)、即ち血統のユダヤ人によらず、象徴的なアブラハムの子孫にして真実のイスラエルの選びが確定するという、終末にだけこの「神の民」に起こる事が知らされ、それを新約聖書の黙示録から整合箇所を割り出すと『第一の復活』が起って聖霊注がれた聖徒らが天界に招集されることでメシアの王国が実現する描写が『北の王』の記述に続くことが分かる。
これら一連の流れはヘレニズム期に、この世の国家であったユダヤに成就したことを模式とはするものの、終末で二度目の成就が起こるときには現世的な武装した地上の国家ではなく、聖霊注がれたキリストの弟子らが構成する象徴的国家たる「イスラエル」、即ち『神の王国』を構成する『聖なる者らの民』を地上で強烈な迫害をもたらす終末期のある強権国家について、かつてヘレニズム期に存在しユダヤの崇拝を圧迫した『北の王』シリアになぞらえているのである。
一方で、二千年前に彼らが待望した「約束のメシア」のユダヤへの最初の現れに至るまでの道程がダニエル書の第九章に描かれてはいるが、そこでメシア=キリストは『契約を保つ者』として述べられ、メシアの契約は登場後の『一週』即ち、七年の間固く維持されるとあるが、ナザレ人イエスはメシアとして現れてから三年半活動しただけで地上から去っている。⇒ ダニエルの七十週
従って、メシアとしての契約を保つ期間の残り三年半が未だ残されているはずであるが、それが何時になるのかについて聖書は一言も語らず、メシアの二度目の現れの時は謎に包まれたままにされている。(ダニエル9:27/マルコ13:31-33)
しかし、キリストは弟子らが世の為政者らの前に引き出され、聖霊の働きを受けて驚くべき発言を行うことを予告したが、それは各福音書に記録されており、しかも、それは『諸国民への証し』ともなると言う。(マタイ10:17-18)
この事態をもたらすのが『聖霊』と呼ばれる人間以上の能力の源であるが、『聖霊』はかつてキリスト帰天の十日後に、その弟子らに注がれ出したものであり、その人々が奇跡の賜物によって語り出したことが新約聖書の使徒言行録に記されている。(使徒2:1-)
この聖霊の注ぎは当時の弟子らがメシアとの『新しい契約』に入ったことを印付けるものであった。彼らはその契約を以ってイエスと共にアブラハムの真実の子孫とされ、『地上のあらゆる民族が祝福を得る』という、その目的を持つ選民となるのであった。この民は核兵器を持ち、周辺諸国との闘争を繰り返しているような地上の国家ではないゆえに、使徒マタイは『天の王国』と呼んでいる。(ローマ8:14-17/創世記22:18/ペテロ第一2:9/マタイ8:11)
そこでダニエル書は、未だに到来していない契約の残り半週分の三年半が残されていることを告げ、キリスト・イエスは自らの再来の時を知るものは居ないと言う。(黙示録11:3/マタイ24:42)
しかし、ダニエル書の第11章から12章を精査してゆくと、神の選民「真実のイスラエル」が強い迫害と誘惑を受けた後にキリストの許に集め出される事態を観るのであり、第12章に向かう過程には、彼ら聖霊で語る選民がどのように苦しみに遭い、磨かれてゆくかが古代セレウコス朝シリアの暴君の圧制の予告の中に終末にも起こる事柄として二重に描かれている。
それはダニエル書の第11章の後半、特に異例な人物エピファネスを予告して語るところが、聖なる選民との兼ね合いに於いて鏡が映すように、終末をも二重に暗示するものである様相を呈しているので、その結末は『この世の裁き』の起る終末、キリストの再臨の時期をも教えていることになる。
実に、キリストの初臨は当時のユダヤ体制を裁くものとなり、イエス後37年を以って、ユダヤの体制はローマ軍によって完膚なきまでに破壊され、その後ユダヤ人は流民となって世界に散っていった。しかも、メシア=キリストの現れがユダヤにとって吉とはならない危険を、旧約最後の預言書マラキが警告していたのであった。それが裁きとなったからであり、キリストの二度目の到来は、この世界にとっての裁きの日となることは、聖書は旧約も新約も揃って警告し続けてきたことである。
メシア=キリストの最初の到来までにユダヤが巡る国際情勢をダニエルは予告したのだが、それと共に彼はメシアの二度目の到来、即ち終末の時期に再び契約を結ぶ弟子らが現れ、その者らの受ける試練をも第11章の後半で知らせていると見るべき理由は以下のように存在しているのである。
即ち、ダニエル書とは単に二世紀後の出来事を予告したに留まらず、神の霊感の下に二重の成就を知らせて歴史上のクライマックスとなる終末をも予示していると言えるのである。
聖書中には、預言された事柄が成就した後に、そこから更なる二度目の成就を告げる事例に事欠かない。一度目の成就が二度目を警告することにより、預言の言葉の警告の重さは倍加するのであり、聖書の言葉は時代の経過に伴ってますます重大性を持つものとなっている。そこでダニエル書に一度予告されたセレウコス朝シリアの王エピファネスの行動がそのまま終末の『北の王』の予型となっているのであれば、一度予告されヘレニズム期に成就した通り三度の軍役が行われたのであるから、という仮定に基づくものではあるが、やはり同様の将来を予期すべきことになるであろう。
まずダニエル書が記されて二世紀後に成就し始めたヘレニズムの二大覇権国家の趨勢の予告でさえ驚くべき預言であって、現代の識者らはそれが信じられず、ダニエル書の著者は実はそれらの起った出来事の後の人物に過ぎず、預言を装った歴史記述であろうとする。だが、ダニエルのバビロニアやメディア・ペルシアの習慣や宮廷の記述はその詳細の描写に於いて現実の体験者の風情がある。⇒ 「荒らす憎むべきもの」
アレクサンドロス大王の後、巨大な支配領域はやがて四つの王国に収束し、分けても南の大国エジプトと北側を占めるシリアという南北の勢力の狭間に在ってユダヤは支配者を逐次代えてゆく。
だが、そこに異様な程にユダヤ宗教体制に干渉する強権王が『北の王国』シリアに現れ、千年以上の伝統を持つイスラエルの宗教伝統に著しい危機をもたらすのであった。それは前二世紀に現れたシリア王アンティオコスⅣ世エピファネスであった。
だが、それは前二世紀の出来事だけでは収まらないことを、新約聖書の黙示録がダニエル書との深い関連性によって示唆している。そしてダニエル書自身も、『北の王』の歴史だけでは説明の付かない記述を加えているので、これは更なる将来、即ち『この世』と呼ばれるこの世界の体制が激変してゆく「終末」と呼ばれる時代についても、当時の事象を鏡像のようにして教えるところがあり、しかも、それをこの21世紀の世界の趨勢と照らし合わせる時、精密に合致するように見える国家が今や現実化しており、しかも、日々その傾向を増々強めているのである。
そこでこの記事は、ダニエル書第11章を中心に、それらの記述が前二世紀だけでなく今世紀に進行しようとしている事柄を映し出していると捉えるときに、それがどれほど具体的か、また、その意味するところが何か、そして結末を探る試みである。
それは前二世紀に強烈な反ユダヤ教政策を強行し、当時のイスラエルを揺さぶった過去の事例を通して、今我々の眼前に『北の王』として明瞭に表れて来た世界覇権国家がこれからどのような道を辿ってその終焉に至るかを示すものである。
要点は以下の通り
現代のエピファネスとは
孤立を止め諸国との連帯を謀る
引き起こされる宗教との軋轢
強硬な反民主と反宗教
三度の戦役それぞれの戦果と事後処理
最後の戦役による世界の趨勢の変化
悪役を果たし終え滅亡を迎える
その存在は世界情勢への影響だけに留まらず
(以下約1万字)
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