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祈りとは
宗教や人種に関わらず、人は様々な祈りを捧げてきました。
それは人間の特性のようであり、世界中に普遍的に見られます。
この祈りについて、「今日、キリスト教を信じて祈る人に聖霊がないのであれば、どうして祈ることができるか」というお尋ねを頂きましたので
キリスト教ばかりでなく、広い意味からの自論を以下に述べます。
◆見えない相手に話す人
人は、その場に居ない誰かに、ふと語りかけることがあります。
その相手というのは、何かの理由で連絡の取れない誰かであったり、すで世を去ってしまった人、あるいは深く愛していたペットにさえ親愛の情から話しかけることもあるでしょう。
ほかにも、自分の仕事道具や機械に話しかける人々もあり、その効果があるのか科学上証明まではされていないことながら、それは必ずしも無駄でないという話も耳にします。それは何かの状況を変えることがあるらしく、普段乗り回している中古の自動車でも「あちこちポンコツ」とか、「ここが良くない」と言わずに、「よく走ってくれてありがとう」など声をかけるようにしていると、その車は調子が良いといわれるドライバーの話を聞きました。
実際、水に話しかけ、誉め続けた水と、罵倒し続けた水とは異なってくるという実験結果があるそうです。
我々人間は自分で意識している以上に複雑であり、普段ものごとを考えるこの意識は脳の働きの一部でしかなく、そのほかに体を働かせるための無数の気遣いが神経によって伝えられていますし、外界からの刺激に対しても体の中では意識にはっきり上らないながら、非常に多くの情報と反応が行き交っていると言われます。
そこで、わたしたちが発する言葉は意識する以上に、また心の中の言葉であっても、語る自分と相手とに思いがけないほどに深い影響を与えていることでしょう。
水といえば、人間というものも体の大部分が水でできているそうです。それは水の実験結果からしても、人が自分自身、また周囲からどう評価され扱われるかで、心も体も大きな影響を受けることは間違いありません。
わたしたちの意識が自分のすべてのように感じられますが、人間というものは複雑な影響を常に受けており、それらを制御し尽くすことはできないことでしょう。しかし、神の存在を意識する人は、自分の及ばないところでも、また周囲の人にも影響を与えることがあるに違いありません。
人は社会から様々な影響を受け、ときに元気づけられ、ときに傷つきますが、悪い影響を受けることが多ければ体を損ね、心も不健康になり兼ねないものです。しかし、励みを受ける言葉、希望を与える一言でも、それは心身に活力を与え、ストレスに耐えてきた硬い心を癒すものとなるものです。
意識は氷山の一角のように、より多くの意識されない脳や体に様々な神経的な働きがあって人の全体が支えられているのであれば、わたしたちの「語る」ということについて、それが独り言であっても、語る言葉には、意識するしないに関わらず、良くも悪くもその人に影響を与えずにはいないことでしょう。
まして、「神に語りかける」という事には、どれほどのものがあるでしょうか。それは人に影響を与えずにはいないことでしょう。
その語りかける相手は故人でも物質でもなく、それでいて聖書に従うなら、人類史の曙にまで遡る歴史に痕跡を刻んで来た『生ける神』なのです。
「神は全知全能」とされますので、それなら「自分から話しかけなくても分かっているはず」と思うかもしれませんが、人の側から話しかけることには大きな意味があります。
それはわたしたちの存在している由来である創造の神との関わりを造り、自分がなぜ生まれ、生涯を送り、世を去ってゆくのかという根本的な事柄に関わることになります。
また、神に話しかけることによって、生きてゆく上で「孤独ではない」ことになり、存在することの価値にまでつながります。つまり、わたしたちが存在して生きていることに創造者との関係が生じて価値が生まれることになり、それは人の一人一人が、無神論のように偶然にできた「泡」のような空しい産物ではないことを意味するのです。
しかし、創造の神は理由があって、人がするようにわたしたちに話しかけることはありません。
それでも個人個人について本人以上に神が熟知していると教えられても違和感はないでしょう。全知全能なのですから。
それでも神は、人が自由に意思を行うことを望まれ、また、人が自ら近付いて来ることを望まれます。
聖書は『天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たされているので、神はご自分の証を示されていないわけではありません』と述べます。(使徒17:14)
そこで、人が創造の神に関わろうとするのは難しいことでも、仰々しい宗教儀礼を要するものでも、定形文や姿勢など決まったものではないことを「山上の垂訓」の中でキリストは教えられました。神はあらゆることを知っているからこそ、その人の心に応じた声を聴こうとされるのでしょう。それなら人は神に何の取り繕いも隠し立てもなく、素のままに話すことができるはずです。
◆あらゆる人の神
しかし、「自分は聖書の神に祈ったことはない」と聖書教にない多くの人は言うでしょう。ですが、「祈る人」と言えば何かの宗教の熱心な信者ばかりのものではありません。
キリストの使徒パウロはこう言っています。
『その神はユダヤ人だけの神なのでしょうか。いえ、神が本当に唯一で有られるのなら、その神は諸国民の神でもあります』。(ローマ3:29)
このように創造の源であられる第一原因者が神であられるなら、その方はあらゆる人にとっての神であることになります。人々がそれぞれの宗教の神に祈っていてさえ、その違いも乗り越えている可能性もあります。つまり、人は宗教の違いに拘り、正しい崇拝者の祈りだけが聞かれると思いがちですが、それでは全知全能の神にしては狭量なことになってしまいます。『祈りを聴かれる方の許に、あらゆる肉なる者が来るのです』と、温かい神と人の祈りを通した祝福を聖書は語っています。(詩篇第65:2)
いや、これを申し上げるのは、宗教の教えはどれでも良いという事ではありません。ここでは創造者である神と被造物である人との普遍的な関係について言うのです。宗教に拘っているのは限界の無い神ではなく、思考力に限度があり、常に間違え易く、利得や自分の正しさを求めて様々な教えを信じ込んでは翻弄される人間の方だからで、あらゆる人にキリストの犠牲を備えたとされるほどに寛大な神が、特定の宗教や宗派に肩入れし、一部の人々だけを顧みるわけもないはずです。
パウロは『ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さった。 そうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神は見いだせるようにして下さった。事実、神は我々一人一人から遠く離れておいでになるのではない』と語ります。
加えて諸国民が偶像の神々を奉じて来た点については、『神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにいる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられます。神は、義をもってこの世界を裁くためその日を定め、お選びになった方によってそれをなし遂げようとされているのです』と異教の人々に向かって語っていたのです。(使徒17:26-27・30-31)
ですから、終末に世界が評議の場に引き出される弟子たちを通して聖霊の言葉を聴くときには、人々は真の神を知り、それぞれに自分を悔いる必要はありますが、それでもどのような民であっても、その一人一人から見出されないほど離れているわけではないのです。
人々が異なる神々に祈るとしても、それらが真摯な祈りであればつまるところ創造の神に向かうものとなり得ます。これを誰が否定できるでしょうか。パウロが言うように、そう捉えることが第一原因者の神が唯一であることを認めることにもつながるでしょう。
人はただ、それぞれの宗教の教えに捕らわれて自分の信奉するものだけを認めることでしょうけれども、神が唯一であるのなら宗教の違いは無意味になります。現に人々全般が懐く「上なる者」の共通性は世に広く見られ、宗教や神の違いに関わりなく、祈りは人間に本性的に備わったものです。
人は切羽詰った時に、「上なる者」を求めるもので、その神の名前や祈りの仕方がどうこうということはとりあえず別の問題で、ただ助けを与えてくださる方を必要とするのです。この普遍性を認めないと宗教論議と抗争に人を投げ込むことになるでしょう。
人は祈ったことがなくても、自分ではどうにもならないことに直面したときなど、やはり共通して「上なる存在」を意識するものです。「こまった時の神頼み」と言われもしますが、普遍的に人が本当に神を求めるのはそのような場面、自力ではどうにもならない時ではないでしょうか。
人が何も依り頼む必要もないときに、よほど素晴らしい事を経験するでもなければ、何かのことで神を引き留めたいとは思わないからです。
もっとも、聖書の神であれば、人の祈りが利己的であったり、邪悪な動機の言葉が聞かれることはないでしょう。そこは真の神に聞かれる真摯な祈りである必要はあるでしょう。それでも、人々によって捧げられる無数の祈りも『祈りをお聞きになる神』として無限の容量のなかに一つ一つの真摯な祈りの言葉が記憶されることでしょう。
キリストの教えでは、わたしたち一人一人の『髪の毛までもが数えられている』と神の個人への気遣いの深さを教えられました。
イエスの御父にとって、わたしたち各個人はその象りに創られた創造物であり、それを卑しめるなら、それは神自らを卑しめることになるでしょう。人は神の象りに創られたのですから。
当然『髪の毛まで数えられている』のはあらゆる人についてであれば、そこに宗教の違いもないはずです。
互いの違いを根拠に他者を卑しめるのは人間の特有の愚かさから、また、傲慢な正義感からのものなのでしょう。
◆神と人を隔てるもの
では、その神はなぜ人と会話されないのでしょうか。
聖書の創世記では、人と人がいつでも会話するようにではないにしても、その声を聞き、また話す場面があります。
そのような関係が今日まで続いていたならどうでしょう。
わたしたちは創造者との恵まれた環境に在って、この世に見られる害悪や労苦も経験していなかったのではないでしょうか。
イザヤの預言の中には千年王国の幸いが描かれる中で、神は『彼らが呼ばない内にわたしは答え、彼らがまだ語っている内に、わたしは聞く』とあり、人との幸福な関係が、まさしく理想的な関わりが記されていますが、これは人々にとって実現していない将来の希望です。(イザヤ65:24)
そこで考えるべきは、どうして神と人との間に今は隔たりがあり、言葉と言葉を介して意思の疎通ができないのか、という点です。
やはりイザヤ書には『あなたがたの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げている』とあります。(イザヤ59:1-2)
『アダムの罪』が今日までこの世を動かしてきましたので、この世には害悪や労苦が溢れています。そうであれば、人々は皆が罪人であって、神と世との間には大きな隔たりがあります。それはちょうど高貴な支配者が罪人と直接の面談が憚られることに例えられるでしょう。
それでも、その方は罪人の更生を望まれ、その御子を遣わし、様々に悔いる人々からの言葉を聞かれることを厭いません。
一方で、祈りというものは信仰を伴うものであり、神に話かけようとする人は、神という存在があるとの仮定に立つものでですから、そこには大なり小なりの信心あってのことでしょう。そうでなければ、話かける行いそのものが空虚でたいへんおかしなもの、また人に聞かれなら恥ずかしいことになります。
そこに神の人々に対するひとつの意図が表れていると言えるでしょう。つまり、神は全能であっても、いや、全能であるからこそ、人々に自らを顕現されず、信仰によって個人個人に見出されることを求めているということです。
もし、全能の神が人々に顕現されるなら、人間は皆が平伏する以外なく、神はどのような独裁者も持てないほどの途轍もない権力を得てしまいます。
しかし、人をご自分の『象り』として創造された神であれば、今は『罪ある』人類の上にそのように君臨されないことでしょう。もし、神がその絶対的権威によって現れるなら、人は恐れ多くて何と話してよいやらすくみ上がり言葉に詰まってしまうでしょう。
そのように人間をご自分の『象り』として尊重する神は、圧倒的な存在であるご自分を制御され、人の自由な意思を圧迫しないよう、その存在を自発的に認める人にだけ存在するかのようにされていると言えます。聖書が偶像を無意味なものとし、真の神を『濃い暗闇に住まう方』、『御顔を隠される神』と呼ぶのは、理由のないことではありません。
確かに、神の御顔を崇めたいと願った預言者モーセに『わたしの顔を見てなお生きている者はいない』と神は答えられました。それでもモーセについて『わたしが人と人がするようにして顔と顔を合わせて語った者である』と神は言われています。(出埃33:20/申命記34:10)
これは、モーセが実際に神の御顔を拝したということではなく、神とモーセの関わりがどれほど深いかを教える言葉であり、そうしてイスラエルはモーセを介して、以後千数百年に施行される『律法』の613にも上る条項を伝授されているのです。
◆聖霊によって祈る無意識性
他方で、「聖霊によって祈る」ということは、一般的な諸教会の理解とは異なるかも知れませんが、キリストの監臨が終わっていなかった時代に、聖徒たちが集まるときに、『霊によって祈る』という奇跡も行われていたことをパウロがコリント書簡で述べており、特に異言の霊による祈りの最中には、自分の意識が実を結ばないと言うのです。
これは異言という、自分にもわからない言語で聖霊が語らせるなかで、その人自身も意味が分からず、ただ霊の顕現が起こっていることの奇跡を体験している状態を指しています。
ですから彼は、異言で祈っているときには自分の心でも別に祈っていると述べるのです。(コリント第一14:13-16)
そこでもし『翻訳の霊』を持つ仲間の助けがあれば、その奇跡にも学ぶ意味が生じました。
ですから「聖霊で祈る」という聖書本来の意味と、後のキリスト教界での意味とには相当な違いが生じてきました。
それは、「信じた時から、その人には聖霊が注がれている」という教会一般に流布してきた教えと、実際の使徒時代の様子を伝える新約聖書との異なりに由来するものです。
ですから、聖霊の賜物に対しては『愛』が勝るとしたパウロは、『聖霊』が聖なる者、『神のイスラエル』に属する者、また『キリストの共同相続者』としての『印』という面をわきまえてのことであり、その後の「信者の誰にでもその内に宿る、ありがたい神の位格」という概念は的外れというほかありません。
また、使徒時代のそうした聖霊の働きは、終末にキリストが語るべき言葉を授けるので何と話すか気を揉んで練習したりするなと言われる『聖なる者たち』に起こるであろう奇跡の場面を予想させるものでもあります。それによって彼らの意識とは別に、驚嘆を誘う『反駁できない言葉』を世界は聞くことになり、『天地を動揺させる』ことになるのでしょう。
ですから、今日ではやはり聖霊で祈ることよりも価値あることがあります。
◆人から神への言葉の素晴らしさ
人々に共通する全能の神に向かって古代から無数の祈りが行われて来たことでしょう。聖書の中にも数々の祈りが残されており、殊に聖書の18%を占めるとされる「詩篇」は、この神との格別な関わりを営々と持ってきた人々の祈りの集大成となっています。
古代イスラエルの中では、祈りを歌に託すことが習慣的にあったようです。
それが神の霊感を受ける『神の人』である場合には、即興的な歌の間に預言を受けることがしばしばあった例が詩篇にも、イザヤのような預言書にも見られます。預言者エリシャは預言を求められて竪琴を用意させていますし、おそらく神殿に仕える身であった預言者ハバククも霊感溢れる歌により預言の言葉を聖書に残しています。
それらは、歌っている間に忘我の境地に入り神の霊感に動かされていったのでしょう。
詩篇については、そのほとんどがダヴィド王の作った歌となっていますが、それらの歌詞にも多くの貴重な預言が含まれています。例えると詩篇第二十二首は、自らの体験を歌いながらも、遠い将来メシアの身の上に起こる出来事の詳細まで描き出していましたが、彼自身それを意識しておらず、一心に想うところを言葉に表していた結果、そのなかで霊に導かれ預言が込められたことでしょう。即興で歌詞を紡ぎ出すときには、想いに集中し、時に高揚するのは想像できることです。彼の神への祈りは歌の調べを伴うものでありましたが、それらの詩の中には、彼が王位に就く以前の若い時代から、その後も生涯の多様な場面について神に歌いかけるものが少なくありません。
それはダヴィドが少年時代を羊の番をして過ごす間に、竪琴で歌う技能をよくよく身につけたことに由来し、その即興歌唱によりサウル王の傍らに仕えるようになり、その歌はサウルの病んだ心を慰めるほどのものであったことを聖書は知らせています。
やがて、サウル王から嫉妬され命を付け狙われる逃亡の身となっても歌を忘れず、異国の敵地に居てもそれは変わりませんでした。
エルサレムで王となってからも、事毎に歌を残し、あのバテシバとの大問題を起こした後でさえその悔いを歌っており、それから後、長子アムノンと三男アブシャロムを家庭内の問題で相次いで失うだけでなく、ダヴィド自身も王位の危機を迎え、自ら打ち立てたエルサレムからさえ一度都落ちも避けられず、その後も子らを失った深い悲しみを調べの歌詞に託してもいます。
まことに彼の生涯は波乱万丈であり、何度か大罪を犯してさえいるのですが、彼に関する『わたしの思いをすべて成し遂げる者』との神の評価は変わることがありませんでした。
これは、ダヴィドという人物を通して、神が人をどう見ているのかを教えるものといえるでしょう。
彼は十戒の中の三つを同時に犯すという大罪人となりましたので、律法によれば死罪が当然ということにはなります。
しかし、王に関する罰則は律法に無かったということもあったのか、市民から処刑されることなく預言者が遣わされ、彼に課せられる罰の苦難が宣告されました。それでもダヴィドは神に歌いつつ『御顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください』と願い出ています。(詩篇51:9-10)
これはなかなか言えることではありません。自責の念が強ければ、自分など価値がないと思われ、神に会す顔も無いと悲嘆し離れ去ってしまうのが普通でしょう。しかし、神の意向はその逆であったのです。
『打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません』とダヴィドは神の意向について知っていることを明らかにし、常に品行方正で規則に従う義人であることを神が要求されるのではないという、深い真理を告げるのでした。(詩篇51:17)
また、このことを通してダヴィドの歌には、死罪に価するも赦された罪人の心が込められることになり、それはキリストの罪の犠牲を受けるすべての人々の想いを代弁するものといえます。
後にキリストが『一万タラントの負債を許された奴隷』の例え話で教えられたように、我々人間は『アダムの罪』を免れず、そのため寿命を迎えて去ってゆくべき身の上ではありますが、そこを赦され永遠の命を与えられることの意味の重さについて、ダヴィドの詩篇は感覚として人々に知らせるものがあります。
では、大罪を犯したダヴィドに律法が定める相応の処置を与えなかった神は、不公平な偏りや贔屓をしたのでしょうか。
もし「律法」が神の裁きの定めのすべてであったならそう言われる理由もあったことでしょう。しかし、キリストが言われたような『けっして赦されることのない聖霊への冒涜』を彼は犯してはいませんでした。
むしろ新約聖書は、神の赦しについて『憐れみは裁きに対して勝ち誇る』と語るのです。(ヤコブ2:13)
しかもこれを語るのは、あの「義人ヤコブ」なのです。
罪人に対する『愛』と『赦し』とは神の勝利であって、もし正義にだけ従うなら、我々『アダムの罪人』が神に祈ることさえ認められなかったことでしょう。我々は皆が神の御前に程度の差があるばかりの罪人であり、そのことはキリストを遣わし人類の贖罪を備えた神がよくよくご存知です。
この神の哀れみはダヴィド王が律法の定めの下に在ったからこそ強調されて知らされたことであります。ここに『律法が罪を知らせる』との役割がふさわしく果たされております。『罪』の自覚があってこそ、人は『悔い』に達し、憐れみと赦しを賜ることができるからです。(ローマ3:20)
ダヴィドの詩篇はこう歌います。
『神は永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることもない。
YHWHはわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもされない。
天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を遥かに超えて大きい。東が西から遠いように、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる。
YHWHはわたしたちをどのように創られたか知っておられ、わたしたちが地の塵に過ぎないことを御心に留めておられる』。(詩篇103:9-14)
やはり、放蕩息子のたとえでは、息子が分け与えられた財産をすっかり浪費し散財した後になってから心を改め、もはや子の立場に戻ることも諦めて、父の下僕にしてもらい、下働きに就くことを願って帰宅したのですが、そこまで悔いていた息子を遠くから見つけ出した父親は、駆けていって抱き締め、家の下僕としてではなく、一家の子としての栄誉に復させました。
天地の創造者、人間の父としての神は、ただ正義の裁き主ではなく、土の器に過ぎない人間にさえ、キリストを与えて進んで赦そうとされる方、『祈りを聞かれる方』であり、これほど慈愛深い神を戴くのはすべての人にとって大きな恵みです。(詩篇65:2)
それですから祈る機会はあらゆる人々に開かれているのであり、『YHWHは一切を亡くした者の祈りを顧み、その祈りを侮られなかった』、また、『YHWHは慈しみ深く、苦難の日の砦である。主はご自分に身を寄せる者たちを知っておられる』とあります。(詩篇103:17/ナホム1:7)
これは「義人のような優等生を神は受け入れる」という考えを否定するものであり、むしろ、「どうしようもなくなった人の助け手」である神を知らせ、賛美するのが詩篇の祈りでもあるのです。キリストの足を自分の涙で洗った『罪人として知られる女』を通して、イエスは『多くを赦された者はそれだけ多くを愛す』と言われた通りです。
ダヴィドの詩篇には、彼が非常な窮境に陥った際に、どれほど祈ったかが克明に記されておりますが、それらの祈りは聴かれたでしょうか?
彼の生涯の終わりは、多くの功績と王の栄光と安寧の内に有終の美を飾っているところからして、神に語りかけた数々の言葉は無駄でなかったと言えることでしょう。
わたしたちの祈りが聞き届けられるかどうか、それはこのように大きな結果から見るべきように思います。
もし、人の請願を神が何でも叶えていたなら、我々は神を便利屋のように卑しめることにならないでしょうか。
『天が地より高いように、わたしの思いはあなたがたの思いより高い』と神は言われますが、祈る人はそこに信頼を寄せることができるでしょうか。
神は明らかに我々を遥かに超える方であられるので、ダヴィドも再三『なぜ、そうして下さらないのですか』と、また『答えてください』と繰り返し語りかけており、それはハバククのような預言者さえも、『YHWHよ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、あなたはいつまで聞いてくださらないのですか』と訴えているところに示されています。(詩篇/ハバクク1:2・13)
ですが、わたしたちの最善を知るのは神であり、祈りに対して何が真の答えとなるかは神のお決めになるところではないでしょうか。
◆聖なる者とその他の者の祈り
特に聖霊注がれた聖徒たちの祈りには、キリストの契約に在って格別の恩恵があることは確かでしょう。彼らの祈りには霊の介助や取り成しがあり、イエスが言われたように、『この桑の木に「根こそぎ抜け出して海に植われ」と言ったとしても、その言葉通りになる』と言われたことも終末には誇張とはならないことでしょう。(ルカ17:6)
また、終末での彼らの祈りは神の御前に上がり、地上に大論争の火が炊きつけられ『七つのラッパ』が備えられるともあります。それはそれはたいへんな物事をもたらす祈りです。(黙示録8:3-5)
それゆえ彼らが聖霊注がれたために試練を受ける間、神は彼らの祈りを大いに聞かれ、後ろ盾となられることでしょう。
しかし、特に『聖霊』がなくては祈りも聞かれないと思われるのでしたら、その『聖霊』そのものが人類救済のために働くものであることを考えると、むしろ『聖霊』を注がれた選民イスラエルだけが祈れるということにはなりません。実際、聖霊注がれる前のローマ士官コルネリウスの祈りが聞き届けられ、使徒ペテロが遣わされた件に示されるように、彼が無割礼でまったくの異邦人でありながら、その日々の祈りや施しが聞き届けられたのですから、『神は不公平な方ではなく、どの国民でも神を畏れ敬う人を受け入れられる』とのペテロが学んだ教訓は今日でも変わる理由がありません。(使徒10:34-35)
この点で使徒パウロは『神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです、異邦人の神でもあります。神が唯一ならばです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです』と述べ、創造の唯一神であるなら、あらゆる人の神であるとしましたが、これはまさしく道理に適ったことではないでしょうか。(ローマ3:29)
ですから、世界を創造された第一原因者である方に祈りをもって話しかけることは、すべての人に開かれた機会であり、特別な言葉や姿勢や時間を守れなければ祈りを聞いてはもらえないと思うべき理由もありません。
もし制限があるとすれば、それは邪悪な者の利己心を満たす貪欲な祈りであって、その祈りそのものが『罪とされる』ともあります。(詩篇109:7)
この件で思い起こされるのは、イエスの語られた「収税人とパリサイ人の祈りの例え」があるでしょう。自分の義行に満足して祈りを捧げ、隣の収税人のようでない自分の勝った立場に感謝の祈りを捧げているパリサイ人と、祈りながらも目を天に向けることも憚られてうつむいて自分の罪深さが赦されることを願う収税人の対照から、イエスは神の観点を明かされています。(ルカ18:10-)
ですから、神の善悪の見方は世間一般のものと同じとは限りません。『悪しき者の供え物はYHWHに憎まれ、正しい者の祈りは主に喜ばれる』とはソロモンの箴言ですが、この世的成功の物質的富と心根の良さとの対比が見られます。この善悪は表面的なものではないことも明らかです。『神は人の心をご覧になられる』からです。(箴言15:8)
つまり、人は祈る言葉によって、自分自身がどのような者であるのかを表すことにもなります。それで、祈った言葉を思い返すことは良いことですし、同じ事柄を繰り返し祈ることで、自分自身の必要もより鮮明になり、また心も整えられてゆくことでしょう。
◆祈り続ける
確かにイエスは山上の垂訓の中で『諸国民のように同じ言葉を繰り返してはならない』と言われましたが、これは祈祷文や祝詞を捧げるような自分の心のない言葉を祈ることの無意味さを教えられたのであり、繰り返し同じ事について祈ることを禁じたわけはありません。むしろ、「執拗な寡婦の例え」のように祈り続けても良いこと、むしろ、それほどの信仰を示すようにとイエスは教えられています。(ルカ18:1-8)
イエスご自身も祈ることでは格別の時間を設けること、また弟子たちを置いて一人になられました。これはキリストとしての人々への模範の体現であったでしょう。
やはり「執拗な寡婦の例え」の要点は「諦めてはならない」であり、繰り返される祈りは信仰を強め、自分自身の心も次第に焦点がはっきりとしてくることでしょう。そうして意志が明瞭となり、神に申し上げる事も精錬されてより鮮明になってくるでしょう。
『涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取ることなる。
袋に僅かな種を携えて泣きながら出て行く者は、大束を携え喜びの声を上げつつ帰ってくるであろう』との言葉はどれほどの人々の励みとなってきたことでしょうか。(詩篇126:5-6)
この世は人を過酷に遇することがあり、ほとんどの人はそれを避けることができません。
『この世』という場は悪魔が導いた『罪』の酬いの世界であり、人にとって一種の敵性環境となります。人々の心を病ませるのは、ほとんどの場合この世の病みが元凶でしょう。この世では欲は欲を呼び、利己心が衝突するところでは『絶えず動揺し、芥を打ち上げる海』のようです。(イザヤ57:20)
やはり、人はストレスの下に長く置かれてよいものでないことは、その体の反応から明らかです。創世記にあるように、神が人を「エデン」つまり「楽しみの園」に置いたのであれば、生きて行く上で人々にしばしば迫られる強度の圧迫は、人間本来の造りに反するものであり、それが『エデン』と『この世』の人に対する扱いの違いでしょう。
神は、自らの創られた人々が『アダムの罪』の酬いを受けるとはいえ、悔いる人々を気遣われるのであれば、人々をまったく放置することは考え難く、むしろ、祈りによるつながりを開いていると捉える方が理に適い、また創造者として自然でしょう。
詩篇は聖書の中に在って、この世に置かれた中で人が神に語りかけた言葉の優れた例であり、それらの意義深い祈りが今日まで伝えられてきたのは、読む人々を益するために違いなく、それは聖霊の有無に関わらず、誰であってもそれらの詩篇の言葉に自分の心に共感するところから、また古代に受け入れられ叶えられた祈りの数々から、自分が何を語るべきかを知り、祈ることを促す書と言えます。
神は打ちひしがれた人々の声を聴かれ、確たる証はないながらも信仰を持つ人には寄り添う方であることを詩篇は繰り返し明らかにしております。
よく知られた詩篇に第二十三首があり、そこでダヴィドは自らが羊飼いであった経験を背景に『YHWHはわたしの牧者。わたしは何にも不足することはありません・・たとえ深い陰の谷を歩こうとも、わたしは何も恐れません。あなたがわたしと共にいてくださるからです』と神との幸福な関係を歌いました。
牧者は自分の羊たちを良く知り、野山の危険から守り、草の豊かな餌場へ導くのが仕事であり、ダヴィド自身も牧者として働き、襲い掛かる野獣を石投げ器で仕留めて群を守ったこともあります。(詩篇79:70-72/1サム17:36)
そして、彼は神を自分の牧者になぞらえ、その世話を受ける幸いを歌いました。
この詩は、古今愛された一首であり、人が『たとえ深い陰の谷を歩む』ような境遇にあっても、神という牧者に見守られて導かれる幸いは、現代の世を労苦して生きるあらゆる人々への助け、また慰めとなることでしょう。
神がどのような方であるかは、創造の神の心を語り、その想いを体現して知らせた方イエス・キリストが、『父がどのような方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには誰もいない』との言葉の通りに、人々はキリストを通して創造の神の人に対する想いを知らされました。(ルカ10:22)
まさしく『神の言葉』であられるキリストは、神について多くを語りつつ、あらゆるアダムの子孫の『罪を赦す』ための犠牲の最期を遂げて、神があらゆる人を深く愛されることを証明されました。
それは御子の父であられる神が、どれほど人を深く顧みていらっしゃるかを指し示すものであり、人の皆が、聖霊の注ぎの有る無しに関わらず、その慈愛深い愛顧を現に受けている証拠であり、聖書全体の主題はそこにあると言えるのです。
使徒パウロが、まったくの異教徒の街、哲学の都であったアテナイの人々に向かって力説した『神は我々一人一人から遠く離れておいでになるのではない』との言葉は、ますますこの点を教え励ましています。(使徒17:27)
ですから祈りとは、わたしたちのすぐそばにいつも置かれた神との絆であり、神に語りかけることを許された創造物の大きな恵みです。それはその人の信仰に応じて用いることのできる、神との意思疎通の奇跡の手段であるのです。
わたしたちが神の創造物であるのなら、誰もまったく孤独ではないのです。