エホバの証人に贈る書
輸血拒否、体罰、忌避など「エホバの証人」また「ものみの塔」といえば、昨今その特徴的な信仰行動について報道され、世にも広く知られるようになってまいりました。
この信仰にない外部からすれば、この人々の実害のある行動が奇異にも、また気の毒にも感じられます。そのため当の信者は外の人々の様々な否定的反応に耐えてゆかねばなりません。
しかし、それらの表面に現れる行動の原因はその「教理」にあり、信者である「エホバの証人」はもちろんその教えを心から信じ込み、「良いつもり」というより、むしろ誠実に神の命令への従順を示す「義務」と信じています。
これほどの違いある生き方、一般的な生活とは異なる日々を送る彼らからすれば、戒律的な行動そのものが信仰の表明ですが、それが変わっていて注目を浴びるほどに平素から伝道する「ものみの塔」を更に世間に宣伝する機会としています。
それほどまでに伝道に特化した信仰生活も珍しいのですが、エホバの証人にとってはそうするか否かが極めて重大な問題とされています。
その理由の一つには、神の義認を得ている唯一の宗派であると教えられるところで、『永遠の命』を得られるのが唯一この教団に所属することにあるとされ、その様々な戒律に従うことに命が掛かる「必要不可欠な行動」となっているのです。
そのため彼らが気にかけているのは「ものみの塔」という名で知られる宗教団体であって、その関心の度合いは家族の絆にも勝ります。
『永遠の命』のために伝道し仲間を作ることが「命を救う業」であることにされ、自分と伝道する相手を救うために、人数と時間数を駆使した伝道によって、また特徴的な非社会的行動によって自分たちを目立たせ、その宣伝によって一人でも多く人を教団に向かわせ、信者らの労力の成果によって仲間を増やします。
そうして「ものみの塔」という宗教団体が拡大を遂げてきましたが、一方でそうすることが唯一人類に生き残る方法を与えていると思うところに、彼らの信仰行動の根強い動機があります。誰かを教団に帰依させることが「命を救った」ことにされるので、より多くの時間を割いて伝道するなら、教団で敬われる立場に就くことにもなっています。
また一つの信仰動機には、よく知られた「1914年から一世代の内に世界が終わる」という預言の成就の年代計算への信仰によって、切迫感を信者に強いるところから、急いで信者を一人でも増やすと共に、本人がこの教団に信者として留まり続けることが神からの至上命令とされ、「命を得ること」また「滅ぼされない」ことがその信仰の向かうべき最大の目的となっているのです。
ですから、自ら他の家々の呼び鈴を鳴らして回り、街頭でも組織が出版した図書を展示するばかりでなく、我が子を幼い頃からムチ打ち、伝道に連れ出して幼児から伝道者としての人格を植え付けようとするのも、その子らを生き残らせるための訓練また矯正であり、その無理強いを行うのが愛ある親であるとされています。しかも、外部からは信じ難いことに、これらのすべての切迫した危機感が彼らの善意から出ているので、この人々は誠実さを奮い起こしてそうしているのです。
これは、その教理の外に居る人々の目からすれば、ますます奇異に映るばかりですが、命が掛かっていると考える彼らはもちろん真剣に戒律に従おうとしているのであり、どちらでも良いような事ではありません。
しかも、そのような信仰行動をとることで、彼らの中では外の人々に勝るもの「永遠の命」を得ているという実感さえあり、戒律に従うのは生きるか死ぬかの問題です。
彼らの抱く緊急感については、伝道を受ける側も察知するので、彼らの伝道はほとんどの家々で断られますが、彼らはそれが自分たちの切羽詰った熱意の方に問題があるとは思わず、「悪魔に毒され洗脳されたこの世の人々の哀れで暢気な有様」と思い込み、いよいよ「教団だけに救いがある」との思いを強めます。
つまり「ノアの箱舟」のように宗派を見なし、いよいよ少数の仲間との関係を深め、「滅ぼされる外の世界」には心を閉ざし、情報を自ら制限することになります。これは組織依存なのですが、彼らはそれを望ましいものと思い込み、無視や反論をされるとますますその殻の中に閉じこもります。
これが教団側の信者囲い込みの方策となっており、伝道時間の報告を義務付け、生活の全般に大きな影響を与えられますが、熱心で伝道時間数の多いほど讃えられ、仲間から一目置かれることになります。そうして宗教団体に人格を形成され、コントロールされ、生涯にわたる生き方を縛られてゆくことになってゆきます。
特に、すぐにもこの世が終わって楽園になると信じることでは、老後の備えが脆弱になり、実際に困窮する家庭もあれば、子供たちには社会性が育たず常識が育たない弱点が目立ちます。
信じがたいことですが、彼らはそれを然して気にも留めず、すぐにもこの世の終わりが来ると永年云い続けられながら、その中で定職に就かずに老後をそして最期を困窮して迎えます。つまり、教壇から教えられたようには世の中の終わりが来てはくれないのです。
ここまで人々を窮地に追いやることに宗教の教えの恐ろしさを外部の人々が感じるのは、その教理を得心していないという「幸福」からくる自然な反応なのです。
では、こうした考えや行動を促す元となっている「教理」をどう判断したものでしょうか。聖書やキリスト教とは本当にそのようなものなのでしょうか?
この重要な問い掛けを行うことは、部外者以上にエホバの証人自身にとって難しいながら希少な再考の機会でもあります。
彼らは教団側に自由に意見することなく、一度信者になったからには外からの情報を制限され、「間違っていても正しい」とされる教団中枢の数人で構成される「統治体」への全き従順が要求されているため、実質的に教理そのものを再吟味することが許されず、個人の判断力は押さえつけられ、教団への批判は、もちろん個人の宗教判断も許されていません。
このように圧政的な宗教を吟味できるのはやはり宗教であり、権力も世論も実害を告発して取り締まっても、宗教教理の一つの妥当性でも検証することはなく、またその立場にもありません。
しかし、エホバの証人の信仰を一度経験するとその考え方や生活様式、教えの通りにできないときの罪悪感や、神の是認から離れ落ちたかのような滅びへの恐怖を引きずりながら過ごすことになり兼ねず、そこから解放されるにはどうしても「宗教の教えの呪縛」から解かれることが必要とされてくるのです。
この度刊行した以下の書籍では、同じ宗教の立場から主に聖書と歴史資料を根拠に、ものみの塔が聖書に基づくものとして築いた一式の教理を検証するときにどう評価されるべきかを自問するよう、他ならぬエホバの証人の一人一人に勧める書として、中でも決定的に重要な問題と思われるところを扱っております。
それは彼らの周囲の人々にとっても、彼らの置かれた精神的環境を理解する助け、また、場合によっては彼らに信仰を再吟味するよう助ける備えとなることもあるでしょう。
本書表題の「あるいは無駄に走って来なかったか」は、新約聖書にあるフィリピ書簡2章2節のパウロの言葉を借りて、自らを省みることなく教えを鵜呑みにしていながら、外部の人々の上に自らを置く傲慢な決め付けに終始して一生を終える、または指導者の信仰をコピーしたままの「自己判断しない信仰」で、本当に『終わりの日』の決定的な時を迎えてしまうことのないよう注意を促す意味を込めました。
聖霊に霊感された啓示を持ち、『奥義の家令』をも自認するパウロでさえ『自分が諸国民の間で宣べ伝えている良いたよりを彼らの前に示しました・・・自分が無駄に走っているようなことは、あるいは[無駄に]走ってきたようなことはないかと思ったからです』と告白したように、自らが啓示されていた理解であっても、それが空しいものでないかどうかと十二使徒をはじめとするエルサレムの古参の中心的な弟子たちにその理解の内容を吟味される機会を捉えたのでした。
では、この世に対して真理を証していると自認してやまないエホバの証人は、その教えを振り返って検証する必要はまったくないのでしょうか。
もし、パウロが「自分はたとえ間違っていても神に是認されているのだから正しい」という不遜な態度でいたとすれば、その姿勢は確かに「統治体」に継承されているというべきでしょう。それは独裁国家の支配者のようであり『圧政的な狼』とは誰なのかと疑問に思えるところです。
しかし、パウロですらそのようではなく、弟子たちの中での拭い難いユダヤの規則主義への絶え間ない説得を続け、自ら啓示されたことを旧約聖書やイエスの言葉から証を行ってキリスト教の向かうべき方向を彼が示し続けたために、今日の人々に新約聖書となって彼の多くの書簡にその与えられた啓示の一端が明かされている通りです。自分の言うことに反論を許さない態度によらず、各自の自由な判断に対して得心できるようにと、彼は心を砕いて語っているのです。
では、エホバの証人が一度信仰を持ったあとで、その教えを再吟味してはいけないのでしょうか?
もし、そうなら、それは人が自由に考え、信仰というものを持つ個人の自由を否定することにならないものでしょうか?果たしてパウロがそうしたでしょうか?
それとも指導者の信仰に盲従するのが「正しい」ことで、『自分の理解に頼ってはならない』という律法時代の訓戒をキリスト教に当てはめるべきなのでしょうか?
キリストは『求め続け、探し続けよ』と言われ、また、『あなたがたはなぜ自分で判断をしないのか』とユダヤの群衆に問いかけています。そこにメシア信仰の機会が開かれていたからです。このキリストの言葉は情報統制とは反対に、奇跡の業を見せたうえで、人々に自ら判断する信仰を求めていました。
もし、自ら判断力を働かせて信仰に至ったのに、一度宗派に属したならそれ以上は判断してはならないというのであれば、それは『神の象り』『自由人』の信仰を抑制し、再び奴隷身分の業に人を押し込めることになるのではありませんか?それで『求め続け』ていると言えるでしょうか?
まさしく「情報の制限」こそが専制支配者に必須の手法であり、意見のフィードバックが無いところで見識は狭くなり、知恵の糾合や錬磨を欠いて、実体は少数者による愚昧の牢獄に人を捕らえるものであり、その外を「悪魔の世界だ」と脅す必要が生じます。これが情報統制というもので独裁国家やカルトと呼ばれる集団に付き物の戒律行動の原因がそこにあるでしょう。
カルト教祖の常識はずれな発言や行動は、その組織が人々の思考力を合わせた賢明さを失っていることの表れでしょう。
しかも外からの情報を遮断する理由が「永遠の命のため」であるとすれば、その人が愛しているのは『神』でも『真理』でもなく、ご自分自身の「ご利益」ではないのでしょうか? まさに、信者保身の利己心が奇怪な独裁を許してしまっているのです。
しかし、エホバの証人がいつ『アダムの罪』を赦されて清くなり、この世を悪として優越感を抱けるようになったのでしょう?エホバの証人のいったい誰が『新しい契約』に参与して奇跡の聖霊を注がれ、為政者らの前に引き出されて、主が授ける論駁不能の言葉を宣言したのでしょうか?
今般、新たに書き下ろした記事と、以前に掲載した記事などを補筆したものを一冊に編纂し、エホバの証人の現役の信者でその信条を再考してみる余裕を持つ方を対象とした書を発刊致しました。
そこでは、ものみの塔教理を検証しても、個人の心の居場所やアイデンティティを失う必要がないことに安堵があるでしょう。
取り上げた題材は12項目を選択し、最後にはその結論として、これまでのエホバの証人として過ごした本来の目的にどうアプローチするかの考察を含みます。
但し、些細な苦言の繰り返しにならぬよう、然程重きを成さない論題は省略した結果、紙本で180頁程度に収め、ものみの塔の信者の生活に影響の大きい特徴的な以下の教理の検証に焦点を当てました。
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取り上げた論題は
・潔癖症的敬虔さ・時間制伝道の要求・硬直的聖書主義・聖霊無視と油注がれた者への誤解
・年代信仰の誤謬・終末の印の決め付け・輸血拒否の的外れ・世代の捉え方・統治体の無根拠
・神の裁きの規準で見せる利己性・優越されない愛・忌避の悪魔性・二世教育の問題
様々な戒律を以って自分たちの正しさを主張する「ものみの塔」は、その正しさの根拠として外部を悪魔の世界と断じますが、悪魔が『光の使いを装う』のであれば、宗教団体の「内か外か」などという区別で簡単に正邪を見分けられるものでしょうか。むしろ、悪魔の危険度は「内も外も」変わらないというのが実情でしょう。いや、圧制の下にあるエホバの証人こそ、悪魔的なライオンに檻の中でむさぼり食われてはいませんか?そこで自分たちこそが「神の経路である」とすることに無理はないものでしょうか。
あらゆる人が『アダムの罪』を負っているのであれば、エホバの証人は自分たちの「神の義」を唱え「救いの独占」を誇る以前に、実際には謙虚さと愛とを必要としていることに気付くことなくして、キリスト教の基礎の基礎にもたどり着くことはないでしょう。
この一冊がエホバの証人の皆様のお役に立つよう念願しております。
----------- 目次と概要 -----------
1.神の是認
・ものみの塔の明快な教理
ものみの塔が旧来のキリスト教会とどう異なったか
・聖書に従うという「義」
その「聖書主義」の由来
2.ヨブ記の意外な結論
・ヨブ記の構成
道徳性追求の根拠とされるヨブ記の解釈の再考
・撤回すべきヨブの義
道徳者であることは神の意志か
・キリスト教に近いヨブ記
律法と対を成す非イスラエル人ヨブの教訓
3.神の経路である聖霊
・力と知識を与える聖霊
キリストを通した聖霊の特異性
・ものみの塔の聖霊への見方
聖霊をどう見做してきたか
・明示された神の証
終末での聖霊の働き
4. ミナとタラントの例え
・邪悪な奴隷とは
利殖に働かないのはなぜか
・主人の財産とは何か
それは何を指していたか
・真実の証人
神の音信を伝えるのは誰か
5. エレミヤの七十年
・預言されたのは帰還か
七十年が何時終わったかの疑問
・当時のユダヤ人の観点を探る
ものみの塔の認識と異なる聖書筆者
・ものみの塔も認める前515年
以前から考古学と一致している年代の存在
6.四騎士は終わりの日の印か
・ハデスが明かす全体像
四騎士を解き明かす鍵
・白馬の騎士
敵のただ中から征服するとは
・黒馬の騎士
権力崩壊の後に世界を襲うもの
・青馬の騎士
最終的な裁きの執行として
・終末の新たな展望
「時代の印」では済まない四騎士
7.魂(ネフェシュ)から血の禁令を考える
・輸血拒否の背景
ものみの塔の主張の要旨
・聖書は輸血を禁じているか
聖書の記述の確認
・魂による復活
血の中の魂とは何か
・魂として保護される
魂は血を超越する
・神が悪を許して来た理由
魂から導き出される結論
8.『七つの時』と『世代』
・英米の覚醒運動から
ものみの塔のアイデンティティの由来
・『世代』の真意はどこに
イエスの「世代発言」の真意は何か
・37年で終わった『世代』
実際の成就から見る世代の意味
9.統治体の権威の根拠
・「エルサレム使徒会議」
使徒会議は統治体の根拠になるか
・「忠実で思慮深い奴隷」
統治体はどのような奴隷なのか
・神の裁きへの介入
キリストの兄弟への協力という罠
・情報統制に支えられる
「神の経路」でも「神の代表」ではない?
10.永遠の命は誰に与えられるか
・真の隣人愛の業か
その伝道は誰のためのものなのか
・差別化のための道徳性
拒絶される理由をつくる優越感
・永遠の命が最重要か
「ご利益信仰」である証拠
11.従順か愛か
・神の裁きで問われるものは
神が人に求めるものは何か
・罪人を招くキリスト
キリストの犠牲の価値は罪人のためのもの
・すでに救われる状態に入ったか
組織は「箱舟」か
12.排斥と忌避
・忌避の背後にある精神
組織擁護のための脅し
・聖書に根拠の無い忌避
聖書にも歴史にも見出せない忌避
・聖句の切り貼り
本来聖なる者に課されるべき掟
「エホバの証人」で過ごした意味は
清教徒的発想と覚醒運動を払拭しないものみの塔の性質
二世問題の淵源に何があるのか
証人であった年月を今後どう生かすか