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有能な家令エリエゼルを派遣する
◆独り子の婚約を導く家令
晩年のアブラハムはその時に至るまで神の恵みを受け続けた。彼は独り子イサクの献供の試練に信仰を持って神に応じ、その報いから恩恵をますます受けたその家は大きく繁栄していった。当然、アブラハムの家は多くの奴隷によって全体が支えられる大所帯であり、天幕暮らしとはいえ、その宿営するところ場所を定めず移動する都市のようであったらしい。
その栄光から、周囲のカナンの族長からもアブラハムには神の格別な恩寵ある預言者として相当な敬意を受けており、持たないものと言えば住むべき土地ばかりであった。これはヘブロンにある亡き妻サラの墓所を除いて『足の幅ほども』無かったが、それは彼と神との契約がそのようであったことからのものであり、アブラハムもサラも、その息子や孫までもけっしてそのことに不平を言った記録がない。土地はなくともこの老夫婦には神からの契約と祝福が充分にあった。(創世記23:6/使徒7:5)
さて、アブラハムの妻サラ亡き後、イサクも四十歳近くなり、父は息子の嫁取りに動く。
四十歳での結婚とはいえ、今日の倍もの寿命を生きていたことが記されるこの時代には、その年齢で結婚相手を捜すことは順当なことであったのだろう。だが、アブラハムには当たり前に健康で器量よい嫁を得るだけの嫁捜しであってはならない強い信念がある。
それは彼と神の間の契約に関わる極めて重要な息子イサク、即ち、老齢である上に石女の正妻サラから奇跡のような出産を経て誕生したその『独り子』が、神の約束を受け継ぐという聖なる特異性からのものである。まして周囲のどこにでも居るカナン人の娘ではならなかった。
神からの『親族を離れ、わたしの示す地に行け、そうすればあなたの子孫にその土地を与えよう』との言葉に信仰を働かせたアブラハム、いや、当時の名であればアブラムは、妻サライや家財や家畜に奴隷たちをまとめて、現トルコ南東部のハランの地に住む兄弟の家と父テラハの墓を後にして、もはや二度と戻らぬ強い決意と信仰の下、国境の大河ユーフラテスを渡ったのであった。
そこにアブラムの既に亡くなっていた兄ハランの息子ロトをも伴っていたのは、荒野の神「エルシャッダイ」が約束の地の意向を最初に示したのがアブラムたち兄弟の父にして、喧騒な都市に住まない遊牧民のテラハであったこと、また、子を生むには体質も年齢も望めない妻サライの実情に応じた結果の甥の同伴であった。
約束の地に入ってから紆余曲折あり、そのロトも離れ去ってしまい、子がなく失望するアブラムは『わたしの相続人といえばダマスコスの人エルエゼルなのです』と悲嘆して神に言うのであった。当時の慣わしなら、一家の主人に跡取りが居ない場合、その家中の使用人の長である家令がその家を受け継ぐことになる定めがあり、シリア人エリエゼルは男だけでも三百人以上を数えるアブラハム家中を取り仕切る奴隷の頭である。
この人物の名は聖書中にこの一度だけ現れるのだが、その役職と出身地からして早い時期から一家に同行した有能な人物であり、主人の想いをよく理解したことであろうし、エラムの王ケドルラオメル連合軍との夜戦では、家の男たちを束ねる冷静果敢な士官ともなったであろう。
アブラムがダマスコスのエリエゼルの名を神に語ったのはその戦いの後のこと、ユーフラテスを渡って十年が過ぎるころであった。
だが、ヌジ文書などに見られる当時の習慣に従って、アブラムが信頼を置く家令として家を任せるエリエゼルをアブラムが「我が子」と呼ぶことはあっても、それでもやはりエリエゼルはアブラムの家系にはなく、この家令の相続では『あなたの子孫に土地を与える』との神の言葉は成就しないことになってしまう。
年齢を重ねてゆく中で息子がますます望めなくなってゆく失意のアブラムを、創造の神は夜の天幕から連れ出し、満天の星空を見せては『あなたの子孫もこのようになるのだ』と自らの創造物を見せて希望を与えたこともある。その言葉に信仰を持った彼を神は『義と見做した』とあるが、この言葉には重い意味がある。人というものが将来を知ることができないその特性を用いて、神は信仰を求めるのである。(創世記15:6/伝道10:14/ローマ4:21-22)
そのときに神は、やがて彼が百歳にもなろうという将来になればイサクという独り子を与えるとの情報はそのときには与えなかった。ただ満天の星々を見せただけであったのだが、そのためにアブラムは神への信頼を示す機会を与えられ、それに見事に応えたのであった。二つに裂いた犠牲により、暗闇の中で契約を結んだのはその後のことであり、そのときにもイサクの誕生についてはやはり語られなかった。では『あなたの子孫に与える』との契約の行方はどうなることであろう。(創世記15:1-21)
そのようであるから契約を結んでさえ、彼は正妻のサライが自分に男児を産むなどとは思っていなかったし、それこそは信仰深い彼にとってさえもあり得ないことである。それはサライもそうであったので若いエジプト人の侍女を夫に差し出して男児イシュマエルを得させたのは妻の苦肉の策ではあった。
しかし、彼ら夫婦の信仰は深いとはいえ、神が示そうとされたのは彼らの思惑を遥かに超えるものであり、神の全能の証ともなる老齢の夫婦からの奇跡のような出産であったのだ。
それから彼らはアブラハムとサラと改名された、「諸国民の父」また「女主人」への改名は、契約に関わる端緒であった父テラハに代わり、次男の彼を神は新たな一連の家系の祖としたことを意味するのであろう。それはまだ現れぬ選民「イスラエル」に向けた布石である。
そうして、彼は百歳にして遂に正妻からの嫡子イサクを得た。いや、賜ったのだった。
それは神の業というべき奇跡的な誕生であったから、以後老夫婦の信仰は新たな高みに達してゆく。
この奇跡の出産という主題は聖書の中で繰り返されてゆくのだが、それは同時にアブラハムに約定された『地のあらゆる民族の祝福となる』彼の子孫の登場が容易なものとはならず、ただ時の経過を待てば済むものでもなく、神の導きと力添え無くして有り得ないものとなることを早くも暗示したのであろう。彼の正妻サラがもとより石女であったことは、神の視点からすれば障碍ではないばかりか、アブラハム夫妻にも、後の人類にも「信仰」というものを教えるところが大いに有った。
後にアブラハムは、イサク献供の試みに対して息子を生き返らせることさえできると信じたと新約聖書は確言するのであり、それは『神にとって異例に過ぎて行えないことがあるか』という、イサクの奇跡的誕生の前年の天使の言葉に対する彼の見事な応答となっている。(ヘブライ11:19/創世記18:14)
◆イサクの花嫁を探す特命を受ける
さて、アブラハムの妻サラが逝去して後、彼の心境は正統な後継者として独り子イサクもその妻を迎えるべきことにある。それは神との契約に関わる大事であり、アブラハムは自分の家の使用人の女からでも、ましてや周囲の異教カナン人から嫁とするなど考えもしなかった。
アブラムは終始自分の神を信仰しない異国人に信頼を見せず、妻のサライを実際に腹違いの妹であることから、妻を兄妹の関係であると称して自分の身を守っていたほどである。
アブラムが神を共にするのは、神エルシャッダイとの関わりを持ち始めた遊牧民の父テラハ以来。その家の兄弟姉妹だけであり、それらの親族はアブラムらの出立以後もユーフラテスの東側、メソポタミア北部のハラン地方に留まっている。即ち、『約束の地』に達しない故国側である。
息子イサクの嫁取りのためとはいえ、アブラハムが国境の大河を渡ってメソポタミアに戻ることなど、彼にとって神の約束を違えるようなことであったに違いない。嫁捜しはもちろん、婚姻の結果として息子イサクを約束の地から戻すことなどアブラハムには到底考えられないことであった。
そこで、アブラハムは家中の奴隷の頭である出納を司る家令に、跡取り息子イサクの嫁取りのためにユーフラテスを渡らせ、ハランの地方のアラム・ナハライムに居るという弟のナホルの家に赴かせる。
この家令とは、アブラハムの『家を司る最も年長の者』とあり、これは信頼深いエリエゼルであると見て良いと思われる。神と彼との星空の下での語らいから五十五年ほどが経過してはいたが、やはり今日の倍の寿命を持つ当時の人々からすれば、我々の感覚で三十年弱という時の隔たりであり、『年長の家令』と引き続きエリエゼルであっても不合理ではない。
その信頼性の証のため、主人の陰嚢に手を当てるという、古代の奥深い儀式の内に主人との神にかけた誓約を行ったうえで、神との契約に関わる重大な使命が与えられた。
しかし、『もし、その乙女がこの土地に来ることを拒むならどのように致しましょうか』というエリエゼルの問いに対し、やはりアブラハムは息子イサクを決してユーフラテスの向こう側に連れ出してはならないと厳命している。それこそは信仰深いアブラハムにとって神との契約に反するに等しい暴挙と思えたからである。
だが、この彼の子孫が約束の地から追われるという事件がこともあろうに、後の孫の代になって家督相続の争いから双子の弟ヤコブに起こってしまう。それでも相続地からの放逐されるヤコブの無念さはあっても、いずれこのヤコブに対する神の温情の豊かさを表す将来の舞台背景とされることになる。
さて時を戻し、エリエゼルが十頭の駱駝によるキャラバンを組んで数々の貴重品を携え、アラム・ナハライムの地に到着したからといって、主人の家の将来を託すべき一人の乙女をどう見出すべきかに家令エリエゼルが大いに戸惑ったことは、そのときの彼の祈りに表れている。
『主人アブラハムの神、YHWHよ。どうか、今日わたしを顧みて下さり、主人アブラハムに慈しみを示してくださいますように。
わたしは今、ご覧のように泉井戸の傍らに立っております。
この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に「どうか、水甕を傾けて、飲ませてください」と頼んでみます。その娘が「どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう」と応じたなら、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしはあなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう」。』(創世記24:12-14)
確かに、血統の上ではアブラハムの同族で、エルシャッダイの神(後のYHWH)を奉じてメソポタミアもさらに遠い南部、後にカルデアと呼ばれる海に近い地の城市ウルの近郊から一千キロも旅して、父テラハと共に国境近くのハランにまで北上した神を同じくする親族の者ではあっても、その乙女が婚姻を通して神との契約の家系に組み込まれるに相応しい性格や器量を持つかどうかはまた別の問題となろう。
エリエゼルの祈りは、その信仰に於いても、人の選別の知恵に於いても、大いに富んだアブラハムの家の数百にもなる奴隷を統括する者の器があることを見せるものであった。
時刻は夕暮れであり、家々から女たちが井戸に水汲みに来る時刻でもあったが、そこで神はエリエゼルの祈りの言葉の通りにして見せることになる。
その祈りも終わらない内に、アブラハムの弟ナホルの息子ペトエルの娘リベカがエリエゼルの一行に近付いていたのであった。
彼女が泉井戸の底に下り、水を満たした甕を担って上ってきたところにエリエゼルは走り寄って『少し飲ませて下さい』と頼んでみたところ『お飲み下さい』と答えたばかりか『あなたの駱駝たちにも飲ませましょう』と言ったのであった。エリエゼルは眼前に起きる事柄を内心驚きながら眺めたに違いない。
駱駝という生き物が水を飲む機会を得たときに、どれほどの量を消費するかは驚くほどである。
それをリベカは何度も何度も井戸の底に下りては水槽に汲み上げたのであった。
その慈愛ある親切はリベカの性格の優れたところを明らかにしている。
もはやエリエゼルには迷いもなかったであろう。『あなたはどなたのお嬢さまでしょうか。また、あなたの家に、わたしどもの泊まる場所はあるでしょうか』と尋ねると、おお、何とそれはまさしく主人の弟の孫娘ではないか。
家令エリエゼルはその場に伏して神に祈るのであった。
『主人アブラハムの神、YHWHが讃えられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、YHWHはわたしの旅路を導いて、主人の一族の家に辿り着かせてくださいました』。
事の次第を知ったリベカは兄のラバンの許に走ってゆくと、その兄は『どうぞおいでください。YHWHに祝福された方よ。どうして外に立っておられますか。わたしどもは家も、駱駝のための場所も用意しておりました』とエリエゼルの一行の到着を予期していたかのように招き入れる。
エリエゼルは出された食事に手を付ける前に、用向きを話さねばならないと切り出し、主人の跡取りイサクの嫁を親族から迎えるべく旅してきたことを告げる。
その不思議のすべてを悟った娘の父ベトエルと兄のラバンとは『この事はYHWHから出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことができません。
リベカがここにおりますから是非連れて行かれ、YHWHが言われたように、あなたの主人の子の妻としてください』と答えるのであった。(創世記24:50-51)
『わたしは参ります』と意を固めたリベカを伴い、エリエゼルの一行は、多くの宝物をナホルの家に贈り、またリベカに装身具の数々を授けて、婚礼への旅路に就く祝福に与ったのであった。
こうして後、イサクはリベカを愛するようになり、母を亡くした慰めを得た。
◆独り子の花嫁
ハラン地方のパダン・アラムの実家の人々が認めたように、アブラハムの独り子イサクの結婚の祝福は、神の強力な意志によって進められたことに違いなく、それは神とアブラハムの契約が後代に相続される道を拓いただけのことではない。
そこにはイサクが『独り子』であったように、神の独り子イエス・キリストの結婚への予型としての暗示が込められている。
後になってからリベカとの結婚はイサクに双子の兄弟をもたらすものとなったのだが、リベカもなかなか子を産まずに過ごしたので、神エルシャッダイに願い出、神は彼女を恵んで双子を身篭らせたのであった。
だがその二人はリベカの腹の中に居たときから格闘するほどであり、これを心配したリベカが神に尋ねると『二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう』と知らされる。(創世記25:23)
この件については、後代の使徒パウロが彼の当時の律法遵守優先を強調したユダヤ教に反論するために、『まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びが業によらず、召した方によって行われることを示して「兄は弟に仕えるであろう」と彼女に言われた』と援用している。(ローマ9:11-12)
このパウロの言葉の趣旨は、神の独り子であられるキリストの現れの前に、当時のアブラハムの子孫であるユダヤが双子のように二つに裁かれたことを言うのであり、一方はモーセの律法の業に頑固に固執して信仰を退け、もう一方は心柔らかにキリストを受け入れメシア信仰に達し、アブラハムの契約の相続に預かっていることを表す。
この違いはリベカから生まれたエサウとヤコブによって明瞭に示されていた。相続に鋭い関心を払う古代の習慣では、リベカの胎を先に出ただけのことのエサウにその権利が与えられるべきものとされたのだが、そのエサウのかかとをつかんで生まれ出たヤコブとはいえ、その順番からすればアブラハムからの相続は適わない者とされた。
しかし、神の恩寵はアブラハムへの契約の相続を望みながらも、それを軽んじることを示すようになったエサウには与えられず、出産では弟とされながらも契約を高く評価し、それを追求して止まないヤコブに向かったのであった。
イサクが相続権を息子に与えるに際し、リベカは策略を以ってそれがエサウではなくヤコブに与えられるようにした上で、相続権を取られて怒り狂うエサウの殺意から逃れさせるために実家のあるパダン・アラムの兄ラバンの許にヤコブを急いで送り出したのであった。
そうしてヤコブはその身一つで『約束の地』を追われ、あの大河ユーフラテスを渡りメソポタミアに戻らざるを得なかった。それはアブラハムが息子イサクにけっして許さなかった事態であったから、ヤコブは自分が神との契約から除外されてしまった孤独と落胆を感じる旅となったに違いない。
しかし、その逃避行の途上のルズの地で夜を過ごすために横になったヤコブに神は夢に現れ、アブラハムへの契約の言葉を彼に対しても繰り返して、こう言われた。
『あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。
わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう』。(創世記28:13-15)
この地はヤコブによって『ベテル』と呼ばれる都市となる。
だが、この双子の相続権の逆転は何を教えるものだろうか。
ひとつには、律法の業を守ってアブラハムの子らとして優勢に見えた使徒の時代のユダヤ体制ではあったが、聖霊の注ぎを受けることもなく、また『諸国民の光』となって『地のあらゆる民族の祝福』となるとのアブラハムへの契約から除外され、信仰を示したほんの僅かなキリストへの帰依者らだけに『新しい契約』が結ばれたということがある。
『イスラエルが皆イスラエルなのではない』との言葉の通り、キリストを前にしたユダヤは、ナザレの人イエスを巡って信仰と不信仰に篩い分けられたのであり、『諸国民の光』はそのときからイエスの帰依者の許に相続され、一方でユダヤ宗教体制を圧倒的に支配していた宗教家らを中心とする大多数の人々であっても、聖霊の注ぎに預かることも、聖霊が示す新たな教えであるキリスト教に到達することも叶わなかった。
この逆転により、バプテストのヨハネが警告していた通り、ユダヤ人の上に聖霊が降るか、あるいは滅びの火が降るのかの二つの道にアブラハムの嫡流の民は分かれたのであった。
◆繰り返される民の選別
キリストの初臨でのユダヤの民の選別は、旧約最後の預言者マラキによって『その来る日には、だれが耐え得よう。その現れる時には誰が立ち得よう。彼は金を吹きわける者の火のようであり、選択人の洗剤のようになる』と警告されていた通りに行われ、アブラハムの相続権は血統のイスラエルから信仰のイスラエルへと移されていった。
そこには、『あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る』というバビロン捕囚の顛末に似た選別の試みがあり、『自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができる』というバプテストの警告の言葉にも明らかではあった。(イザヤ10:22/マタイ3:9)
こうして『イスラエルがみなイスラエルなのではない』という言葉は、血統に従えばアブラハムの相続権は自分にあると油断していたイエスの当時のユダヤに当てはまり、モーセの律法体制が続くものと思い込み、律法を守る業に固執したユダヤ人はキリストの到来によってそのほとんどがキリストによる『新しい契約』に選ばれることから離れ落ち、遂にその相続権から明確に退けられた。
そこでパウロは、『一部のイスラエル人が頑なになったのは、異邦人が入ることで全体が救われるに至る時までのことであって、そうしてイスラエルの全体が救われる』と述べたのは、信仰による相続人の数をユダヤが満たさなかった原因であるところのキリストを処刑するほどの不信仰を、異邦諸国民ながらキリストに帰依した者が『東や西から多くの人が来て、アブラハム、イサク、ヤコブと宴席を共にする』とキリストも述べたことを言うのである。
他方で『この国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう』との厳しい結末が血統のイスラエルに選別の結果として望むことをもキリストは宣告している。(ローマ11:25-26/マタイ8:11)
そこで、やはりパウロは諸国民を含む聖霊を注がれたキリストの弟子たちを『キリストの共同相続者』と呼び、ユダヤについては『彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかった』とし、『キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられた』と明言している。(ローマ10:3-4)
パウロは、エサウとヤコブの相続権の入れ替わりを念頭に『あなたがたはわたしの民ではないと、異邦人らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれるであろう』とのホセアの預言を引用している。(ローマ9:26)
ユダヤは自らの内から現れたメシアとその追随者らを迫害して追い出し、アブラハムからの遺産の相続を損ね、その選びを異邦諸国民に与える機会を開いてしまった。
その結末はイザヤにあるように『あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る』ということであり、エサウとヤコブの相続権争奪の顛末には、大いに学ぶべきものがある。(イザヤ10:22)
それであるから、聖霊注がれたキリストの弟子たちに向かって『一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行で俗悪な者にならないようにせよ』とパウロは警告している。エサウはアブラハムの相続財産を軽視していながら、実際にそれが奪われると弟に殺意を懐いた。(ヘブライ12:16)
エサウは自分がどう振舞おうと相続権は自分から離れることはないと思え、その慢心が『長子の権なぞ何になる』という日頃の発言に出ていたが、本人はそれを望んでいないわけではなかったのであろう。ただ、アブラハムから相続する財産にどれほどの意義があるかには無頓着であったことが分かる。
だが、ヤコブはそうではなかった、本来エサウが手にするはずの相続財産が徒ならぬものであることを理解していなければ、策略をもってまで双子の兄から奪おうとしなかったに違いない。
その姿勢は、二十年後にカナンの地に戻ってエサウに会う直前に、自分以外の何者かを祝福に行く天使を見つけては、その何者かがエサウであることを懸念し、その許に行かせまいと夜から朝までその天使相手に格闘し、『わたしを先に祝福しなければ行かせません』と言って譲らないヤコブには、エサウの後から胎を出たことの宿命に対する積年の想いが込められてのことに違いない。そうして夜が明けるころ、遂に「イスラエル」の渾名を賜ったところにもそれは現れている。
それほどにアブラハムの遺産を切望するヤコブにこそ、信仰深いリベカは相続をさせたかったのであり、眼の悪くなっていた夫イサクを欺き、長子エサウの隙を突いてまでヤコブに相続させようと画策したのは、リベカ自身が自らの婚約の一件からしても、アブラハムからの約束の継承が徒ならぬものであることを味わい知ってのことであったのであろう。
だが、今やリベカは契約から外れた長男エサウの憤りの激しさから、次男ヤコブの危機を悟り、パダン・アラムの実家に避難するよう着の身着のままの彼を送り出すのであった。
それはアブラハムが息子イサクに決して許さなかった『約束の地』から出ることであり、孫ヤコブの相続権は却って危うく見えたに違いない。まして彼は策略を弄してイサクの相続の儀式を掠め取っており、その不正を神を認めるだろうか。
だが、今となっては方途なく、母リベカの実家を頼るほかない。
ユーフラテスを渡るためにネゲヴから北に向かい、エルサレムの北、ベテルの辺りで日暮れて横になるヤコブであったが、自分の行く末を思うとき、どれほど心細かったか知れない。
だが、神はその晩、ヤコブの夢に現れ、彼にアブラハムに誓った『約束の地』を相続することを告げる。神意はヤコブの相続にあったのだ。
その夢では天に続く階梯があり、それを天使らが上下していたので、ヤコブはその地を「神の家」ベテルと呼ぶのであった。
そうしてリベカの実家に逃れたヤコブは、雇われ人として働く日々となり、それは楽な生活とはならなかったが、神が共に居てヤコブを助け続け、自分の家財を増やし、妻たちと子らを得てゆくのであった。
それから二十年、『約束の地』カナンに帰還することになってゆく。
◆キリストの花嫁の資質
これら一連の出来事が見せる将来への暗示がある。
アブラハムの『独り子』であったイサクから二人のまるで異なった孫たちが現れ、その違いのゆえに一方は退けられ、一方が遺産相続を認められるという構図に何が示されているだろうか。
それは単なる神話のようなものに終わらない。
『神の独り子』キリストから性格の異なる個々の聖徒たちが聖霊によって生み出され、その後に試練を経て、アブラハムの遺産を高く評価するヤコブ(イスラエル)のような聖なる者らと、神からの契約の価値を悟れないエサウ(エドム)のような者たちとに峻別され、終末には共に聖霊注がれていながらも『一人は(天に)連れてゆかれ、一人は(地に)残される』という聖徒の選別と裁きを示唆するものとなっている。
ベテルの夢に現れた「天への階梯」も、この観点からみるときに意味があり、神はヤコブをして聖霊に生み出されて天に挙げられる、真実の『聖なる者』となること、加えてエサウには後代のキリストによる『新しい契約』を守らず、聖霊によって生み出されていながら、地に捨てられる脱落聖徒を描き出す暗示となっているのである。
即ち、『一人は連れてゆかれ、一人は残される』という、『独り子』イエスの子らの裁きであり、一方は父祖からの契約に愛着を持ち続けるが、他方の者らは『新しい契約』による相続を軽んじ、聖霊注がれる立場を汚す者と成り下がる。
契約から離れ落ちる者の方に威勢があって、逆に契約に高められる者の前に困難があるのは、キリストによる『新しい契約』についても予期されることであり、偽キリストの繁栄は忠節な者らが受ける迫害とは対照的となることを聖書は予告している。
このように高ぶるものは低められ、卑しめられた者が高められるという聖書に通底する主題を視覚としたのがヤコブの夢であったなら、その「階梯」はその時のは卑しめられても、やがて高められるヤコブに相応しいものであったかも知れない。それぞれの立場が神の前に逆転するということが起こり得るからである。
そこでパウロは、当時の聖なる者である弟子たちに『エサウのようであってはならない』と警告し、『彼は一度の食事と引き換えに長子の権利を売り渡した』と、『諸国民の光』とされるべき『神の王国』となる栄光を認めなかった愚を教えるのであった。
この双子の兄弟が表した事柄は、やはり『肉のイスラエルがすべてイスラエルなのではない』というパウロの指摘にも理解の道を開いている。
なぜなら、出産の順によればエサウの相続が正当であることは明らかであったのに、実際に人類救済の民となる特権を得たのは、それを高く評価する次男のヤコブの方であったのだ。
同様に、共に聖霊を注がれていながら忠節に契約を守らず、世の圧力に屈して慣れ合い、人類の祝福に貢献しない者となるなら、それは『新しい契約』によって裁かれるだけでなく、アブラハムからの相続財産もないがしろにすることに他ならない。
アブラハム夫妻の示した見事は信仰を次の世代へと継いでゆくことは簡単なことではなく、ヤコブに至る三代の間も、このように平坦な道ではなかった。
そうであれば、キリストの結婚に至る道についてもそれは言えるに違いない。つまり、真実の選民イスラエルを出現させる道程であり、そこに至るまでにどんなことが起こるだろうか。
パウロは『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』というマラキの預言を引用し、神がどうしてヤコブを愛してイスラエル民族を選び取られたかをローマ人書簡第九章の中で力説し、二人の孫たちがリベカの胎内にいるときにすら『年上の者は年下の者の奴隷となる』と預言されたことからも、ただ聖霊の注ぎに与ることが、その人を天に召される選びの器とはしないという警告を当時の聖徒で成る弟子たちの集団に注意を促している。
では、キリストの花嫁としてのリベカから何を学ぶことができるのか、そこに悠久の時に渡るどのような神の意図が込められているのだろうか。
それをこの次の記事から見てゆくことにしよう。
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