政治と宗教とは同じ根からのもの
結論から言えば、政治と宗教の由来は、共に人間に宿る『罪』にあります。
この『罪』というのは、人間がどうしてもわきまえることが出来ない「倫理の問題」を指し、個人が犯すそれぞれの悪行を言うのではありません。
人間がこの『罪』という倫理不全から逃れられないの端的な証しとして
ここで「人間から戦争をなくせないのは何故なのか?」との一つの疑問によって『罪』を探る端緒とするなら・・
ナチスの台頭が顕著になっていた1932年のこと、アルベルト・アインシュタインは、国際連盟から委嘱されて心理学者のジークムント・フロイトが問い掛けた「戦争を無くす方法」に答えて、彼は人間の内にある破壊衝動や本能を指摘しながらも、「戦争を忌避する文化人を生み出し、および惨禍に対する不安感により戦争はなくせる」と回答します。
アインシュタインは、世界には強力な権限を持つ国際機関が必要ではないかと述べつつも、それは実現できないと結論します。しかし、この論議は18世紀にエマヌエル・カントが「永遠平和のために」で構想していた一部の焼き直しの域を出るものではありませんでした。人間は進歩していなかったのです。
ですが、すでに聖書という古い書が、人間自身の争う原因をえぐり出し、より根源的で決定的な原因を古代から白日の下に曝していたのです。
戦争が起らないことを願う人々にとっては予想外なことに、今日では戦争のボーダーラインが曖昧で、「銃後」というもののない情報戦や経済戦などの見えない身近なところで大国間の押し合いが進むようになってしまいました。情報や技術の漏出など、今や、わたしたちの知らない間に、質を変えた戦争の前哨戦が身近で行われているかも知れない事実は、戦争問題がより深刻化していること示します。この社会では犯罪ばかりでなく大国同士による、国籍を越えて誰であれ人を統治しようとする争いも、国境を易々と乗り越えて身近なコンピュータや手元のスマートフォンの中に戦いの最前線が有り、そこですでに戦争が始まっていると言っても過言ではないのですが、やはり人間とはそこまでしても戦争を止められないものなのでしょうか。
実は、聖書には今から二千年も前に書かれた次のような言葉があります。
『あなたがたの間に戦いや争いはどこから起こるのか。それはあなたがたの体の中で相戦う欲情からではないか。
あなたがたは貪るがなお得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができずに争い戦う。あなたがたは求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ』。(ヤコブの手紙4:1-3)
これこそは時代を超えた普遍的な原因の指摘ではないでしょうか。
現代の世の知恵者らが真相に気付いて何かを語る以前に、神の言葉がそれを古代から指摘してきたのであり、神が人の考えよりも『天が地より高いように』勝ることの証しとなっています。(イザヤ55:9)
だからといって、聖書の言葉に従い人々が争い合う性質を変えられるかと言えば、まったく無理なことで、それは人間の社会にはっきりと答えが見えています。その証拠の第一は、どのような社会でも個人の言動を規制する力を必要としているという事実です。
人と人とが社会を作って共存してゆくためには、誰からともなく起こされる欲望の暴走を抑える必要があります。
何故なら、人間は自分の欲望のために他の人を犠牲にし兼ねない性質を持っているからで、これは利己心からくるものでしょう。
もちろん、欲のすべて悪いのではなく、人には必要な欲も、また善をもたらす欲もあります。しかし、他の人を押し退け犠牲にする欲、つまり「貪欲」に問題があるのです。
この点で、フランス革命前夜の思想家エティエンヌ・モルリイはこのように貪欲について述べています。
「この世における唯一の悪徳は「貪欲」である。他のあらゆる悪徳はどんな名で呼ばれていようとも、すべて貪欲の和声であり、音階であるにすぎない」。(「自然の法典」大岩誠訳p26)
そのため、人と人とが社会を作るところでは、誰かの貪欲の犠牲とならないよう、人々に規制を掛けなくてはなりません。
まず、行ってはならない事を定めて、それを法としまずが、この点で、エデンの禁断の木が『善悪を知る木』とされたのは非常に示唆的と言えましょう。人は貪欲の元となる利己性という『罪』有る限り「法」という人間の定める善悪の規制からけっして逃れられないのです。 ⇒ 「顔に汗してパンを食べ最後は土に帰る」
しかし、法があるだけでは人の欲望の暴走、貪欲を止めることが実際にはできません。法を無視することができてしまうからです。
17世紀にトマス・ホッブスは「背後に剣の無い契約など空しい言葉に過ぎない」と言っていますが、人に法を守らせるにはどうしても実力行使を伴わなければならず、法を守らせるために、社会は力を、それも誰であれ捩じ伏せることができるほどの圧倒的に強い制裁力を持たねばなりません。
それが「権力」と呼ばれるものであり、残念なことではありますが、わたしたち人間は、互いの間に「権力」の保護の壁を張り巡らせる必要に迫られているのです。何のためでしょうか。つまり、互いの貪欲から自分を守ることにほかなりません。
この状態を端的に言えば、人間にとって人間は危険な存在であるのです。
もちろん、人は善を行うこともできるのですが、同時に悪もやめることができません。
これこそ、聖書が教えるところの、利己心によって禁を犯したアダムから遺伝した『罪』であり、これは個人の犯す特定の悪行を呼ぶのではなく、人が逃れることが出来ない倫理不全とも言うべき利己性を指しています。 ⇒ 「顔に汗してパンを食べ最後は土に帰る」
この『罪』を除くことは人間自身にはできません。どうしても神からの助けを要するのですが、世界のほとんどの人はその必要も感じず、自分に『罪』を認めることさえしないでしょう。聖書が言うところの『罪』とは、人間に宿って離れない不道徳であり、他者とどう生きるかに於ける欠陥ですが、古来これが『原罪』とも呼ばれてきたものです。
この『罪』は個人が犯す特定の犯罪を指すのではなく、人類が今日まで負って来た悪の根源であり、核兵器のようにどれほど破滅的な武器があろうと、それらに勝って危険なもがこの『罪』のなのです。
人に『罪』がある事を教える聖書は、やはり人にはそれを抑える「権力」が必要であることを認めています。旧約聖書の中でイスラエル民族に与えられた「律法」でさえ、処刑法や軍法も含んでいるのです。他方でユダヤ教とは異なって本来国家教ではないキリスト教でも、支配者について『もしあなたが悪事をするのであれば彼らを恐れなければならない。彼らはいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって悪事を行う者に対して怒りをもって報いるからだ』と、使徒パウロは弟子らには支配者に従い、租税を納めるようを訓戒しています。『罪』ある以上、人は敬虔な信者であっても権力を必要とするのです。(ローマ13:4)
そこでどこの社会でも、どこの国でも「権力」を持たないわけにゆかず、「政権は銃口から生じる」との言葉は一面の真相を含んでいます。
その有無を言わさぬ暴力は、内に向かっては「警察力」と呼ばれ、外に向かっては「軍事力」と呼ばれ、これが政府を成り立たせる根拠であり、これを持たない政府など人の貪欲によって簡単に無きものとされてしまいます。
まさに人間社会にとって権力は必要不可欠なのであり、そのようにさせるのは、まさに人間自身に宿る欲望、わけても他の人を犠牲にしようとする「貪欲」と言えるのです。
ですから、権力が政治の本質であり、政治の目的を端的に言えば「人と人との貪欲の調停」によって社会を維持する事にあります。しかし人間は初めから、このような保護の暴力を互いに必要なものとして創られたわけではありません。
権力という人を制する力が最初に現れたのは、エデンの園にある『永遠の命の木』を守るために置かれた『燃えて回転する剣』と守衛のように置かれた『ふたりのケルブ』であったことでしょう。
もはや、明確に利己性を示して悪魔の道に堕してしまったアダムとエヴァには神の信用がなかったからです。確かに人は、自分に『罪』があろうと遠慮なく『永遠の命』を望むことでしょう。しかし、『罪』という欠陥を抱えた人間が永久に生きるとすれば、神の創造の意図は永遠に果たされないことになってしまいます。つまり、世界から戦争はおろか犯罪さえ一向なくならずに、この争いと悪に満ちる世界がずっと続いてゆくだけのことです。
さて、失楽園の後、アダムから人類が増えてゆくと、人々は都市を造るようになりました。(創世記4:17)
創世記でも特に目を引く都市といえばバベルが挙げられます。あの天に届くほどの塔で知られる都市の始まりです。(創世記11:1-4)
その舞台をなった『シナルの地』とは今日のメソポタミア南部であり、二本の大河チグリスとユーフラテスが潤す平原に、灌漑農業を始めて定住し始めた人々は、いくつもの街を建てました。創世記に言及される都市は、今日発掘されてよく知られてもいる通りです。
出土するレリーフには、シュメール文明期の当時の生活の様子が描かれていて、この地の麦の収穫量の豊かさから、人々は分業体制を築き上げて、様々な職業が生み出す品物によって生活水準が低くなかったことを窺わせています。実際、当時の工芸品には、現代でも珍重されるほどに美しく優れたものが発見され、人々は都市生活を謳歌し、天文学や数学や科学を現代に近いまでに発展させていたことも驚きを誘うほどであり、時間の60進法や円を360度とした知恵の先見性には驚嘆すべきものがあります。
しかし、そのレリーフの描写の中には、長い槍と盾で武装した軍隊も描かれており、ロバの引く戦車も現れます。つまりこの文明の発祥期から、人間は戦うことを避けられなかったのであり、建てられた街々も周囲に城壁を巡らせた「城市」であったのです。
創世記も、この時期に現れた強力な支配者を挙げ、その名を「ニムロデ」としています。この人物はメソポタミア南部から北部にかけて幾つもの街々を建設したと伝えていますが、この人物は農耕する者ではなくて猟師でありました。そのため『「神の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」という慣用句があった』と創世記は伝えています。これは、権力者ニムロデがただ動物を狩る猟師であったことを意味しないでしょう。
後のギリシアの軍人歴史家クセノフォンが「狩猟に有るもので戦争にないものを探すのは難しい」と言明しているように、ニムロデは「人も狩る狩人」であり、農耕で栄えた人々を襲い、支配下に置いては外敵に対処できる城市を建設して支配の拡大していったのでしょう。創世記も記すようにまさしく最初の権力者であったのです。(創世記10:8-12)
ともあれ、人間は文明の原初から権力を必要とし、それなくして社会が平穏な生活を送ることも無かったことを今に知らせていると言えます。
こうした暴力の保護の壁を互いの間に必要とさせたもの、それはアダムが人間本来の倫理性を失ったからに違いなく、創造の神が意図したものではありません。
この点からしても、政治というものを成り立たせた権力は、人間が自ら負った『罪』への応急的な対処法であると言えます。それも必要不可欠な対処法であり、今後も人間に『罪』がある限り、社会は法と権力の規制から逃れることができないに違いなく、警察力と軍事力を無くすわけにゆきません。
人間から犯罪を絶やすことができないように、国同士から争いも無くすことができない道理がここにあり、それは先に見たヤコブの手紙の言葉『あなたがたは貪るがなお得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができずに争い戦う』は、今後も人間自身で解決できるものとはならないに違いありません。人自身に『罪』という不倫理性があるからであり、武器や軍隊が戦争の原因ではなく、人間は自分自身の中に戦争の原因である動機を抱え込んでいるのであって、表面的な平和主義はそもそも論理が破綻していることになるでしょう。
ですが、人が『罪』を負うようになったことは、人同士に問題をもたらしただけではありませんでした。
倫理というものが、他者とどのように生きてゆくかを弁えることであり、『罪』が倫理性を壊してしまったのでありますから、人は神との間にも問題を抱えることになる以外ありません。
これは次の聖書の言葉から例証されています。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
ただ、あなたがたの不義があなたがたと神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔を覆わせたために、声をお聞きにならないのだ』。(イザヤ59:1-2)
そのため、人と人の間に権力を必要とするようになったように、神と人との間にも隔たりが生じ、エデンのアダムと神との関係は失われています。
神という「上なるもの」との断絶が生じた人間は、自分の存在の由来や目的や価値が分からなくなり、そこで「上なるもの」への問い掛けや、いずれ死すべき自分という存在の価値が何かを知ろうとします。
そこで人間は「上なるもの」との調停をも求めることになり、それは「宗教」と呼ばれる物事を招くほかなくなります。
この点で、聖書ではエデンを後にしたアダムの子らであるカインとアベルから神に崇拝を捧げ、はじめて神との間に捧げ物をする執り成しを要するよう描かれています。それはアダムとエヴァには求められなかった事柄です。
これが宗教の始まりであり、後のアブラハムらの族長たちも崇拝を捧げ、更に後のモーセの律法では神への祭祀の掟を含み、厳格な崇拝の方式が定められたところに、神と人の間を関わり方である「崇拝」が必要になったことを教えています。
アダムが神の恩寵を失ったように、人は『罪』のゆえに神との間も隔てられ、人は自分の能力で神に近付くことが出来ず、科学も神を立証することはありませんから、その間には宗教を挟む以外にありません。アダムのように神と自由に会話する関係性は今ではまったく過ぎ去っていて、犠牲の供物を介して「祈り」という方法で自分の意志を神に伝えようと努めるほかなくなりました。聖書教でのその犠牲とは、神に近付くには『罪』の相殺が必要なことを模式しています。
こうして人類は、神との隔たりの中に在って、様々な宗教を作り出し、自らの神を編み出して、それぞれに「上なるもの」との関わりを模索してきたので、多様な崇拝が存在してきたものです。そこに食い違う「真理」が説かれるのも、本当には神の介在が無いことを示していることでしょう。神の探求というよりは、自分の価値を何とか見出そうとし、人の益を図った教えが乱立するために、実は「ご利益」のために何が真理かが争われるのであり、はじめから神は無縁ですし、それは「真理」が云々ということでもなく、やはり「欲の張り合い」になっているのでしょう。
つまり、「宗教」というものも「政治」に共通するところがあり、これは明白な事ですが、どちらも人間の『罪』によって生じた強欲を調整する応急処置といえます。政治は人と人との関係の調整であり、宗教は人と神との関係の執り成しとなっているのです。
ですが、その実態と言えば、元々が『罪』に発する他者との関係性の破壊的性質を克服できるものではありませんから、どちらも分裂的で争いの元とならざるを得ません。人間の最も荒々しく、最も醜い部分がそこに強調されて出ていると言っても言い過ぎではないでしょう。
ですが本来からすれば政治と宗教の双方とも、人に『罪』が無かったら、そもそも必要なものではありません。どちらも無いに越したことはないバラバラに自説に固執する排他的で不完全な「必要悪」というほかありません。
それでも人の『罪』が現存する証拠に、今日まで政治と宗教を人間社会は必須のものとしてきました。歴史の上で政治と宗教の無い社会というものは存在せず、無神論を標榜する主義の社会でさえ、その無神論も宗教となっています。元来、神が存在するか否かを科学が答えることは不可能だからであり、無神論も純然たる科学からは逸脱した「人間の主観の産物」、立派に宗教となっています。
⇒ 「死すべき人間にとっての神」
また、政治と宗教は「まったく正しいものが無い」という事でも共通しています。どちらも利害や欲の絡む個人の主観による決定の産物であって、数学や科学のような「正解」というものがありません。人間の倫理性、道徳性が不完全で当てにならないものであることが個人の判断に反映されずには済まないので、政治と宗教は人々の願望や思惑に左右され、そこではどうしても人間らしい愚かさ、醜さが表れてきたことは歴史が証明する通りです。
それにも関わらず、多くの人々は政治や宗教の主張で強い正義感を抱くところで激しい争いを招くことが避けられません。
政治と宗教そのものが、本来人間自身の手に負えるようなものでなく、そもそも、人間自身に巣食う不倫理性をどうにかしなくてはならないのですが、それを解決はおろか改善さえできません。
しかし聖書によれば、神との関係が回復される時が訪れる事を知らせているのです。その時を描写する預言はこう語ります。
『彼らが呼ばない前にわたしは答え、彼らがなお語っているときにわたしは聞く』。(イザヤ65:24)
このようにエデンのアダムのように、祈りさえ要らないような神と人との関係はいまだ回復されてはいませんし、人類世界は相変わらず『罪』の内に混迷してはいるのですが、実は、既に二千年も前に、神と人との間に『完全な犠牲』が捧げられているので、人は神との関係の回復を期待できる状態にはあるのです。(ヘブライ10:12-13)
それがイエス・キリストの犠牲であり、それが捧げられて以来、人々に適用される時が待たれているのですが、その時が訪れるのがキリストの唱えた『神の王国』による人々の『罪の赦し』が与えられる時期となると聖書は告げています。これが「千年期」と呼ばれる期間であり、その間に人類には「贖罪」[しょくざい]が行われ、『アダムの罪』からの解放が行われることを聖書は示唆しています。
この『神の王国』は『天の王国』とも呼ばれますが、イエスの語るところに耳を傾ければ、それは広く信じられる「天国」などではあり得ません。
『罪』に塗れたこの世の悪を終わらせてキリストによる新たな支配を始めさせ、人々を徐々に神に立ち返らせて罪の赦し、つまり「贖罪」を行って人類をエデンの状態、創造されたままの姿への希望、つまり『滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由に入る望みが残されている』のです。(ローマ8:20-21)
キリストの治める『神の王国』の支配によって、この世の不完全な政府は過去のものとなり、やはりこの世の不完全な宗教も過ぎ去って、人の『罪』に対する適正な対処が実現され、その王国は最終的に『あらゆる権威も権力をも終わらせてしまい』『最後の敵として「死」も無に帰します』。(コリント第一15:24)
まさしく、聖書教は一貫してこのこと、つまり人の『罪』の問題を解決することを主題としているのであり、個人のご利益を云々するものではありません。確かにこの世は人に苛酷で、『弱き者』は数知れず苦境にある事実は嘆かわしいばかりですが、神は『傲慢な者に敵し』『苦しむ者に逃れ場を与える』と言われます。人を創造した神は『この世』に苦しむ人々を気遣っている姿を旧約聖書でも新約聖書でも示して来られています。(ヤコブ4:6/イザヤ14:32)
しかし、イエス・キリストが人類救済の決定的な犠牲を捧げたように、これを信じる人々も、自分の益を求めて利己的に神との関係を望んだりせず、『彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためである』との言葉の通りに、キリストの見事な「公共善への大志」に生き、利他的であることこそが、いずれキリスト教徒と言われる証しとなるでしょう。
キリスト教を自分の成功や、信者の天国行きを願う宗教にしているなら、その「ご利益信仰」は無益です。利己的であることに於いて、キリストの精神に逆行しているからです。(コリント第二5:15)
他方、真実の統治と崇拝はキリストの王国によって実現するのであり、それによって人類は『罪』の内に足踏みすることなく、創造本来の栄光ある姿へと日毎に変えられてゆく希望を得るのです。
イエスがその宣教の主題を『神の王国』として、様々に機会にその働きと希望とを語ったことは福音書に明らかなことで、『罪』を負ったすべての人は、その王国を待ち望むことができるのです。
それは『罪』の世界の暗闇に差し込む一すじの光のようであり、それによってこそ人は虚しい生涯から逃れる希望が残されているのです。
それこそがキリスト教の真意であって、貪欲や利己心を去り、他者を愛することこそがその精神であり、『罪』の対極にあるものが『愛』であって、『愛』は最終的に『罪』に勝利することになるのです。
創造の神の愛とは誰かが幸福ではあっても誰かが不幸であることを望まないものであり、この心の意向を共にできる人は幸いでしょう。信者さえ天国にゆければよいというものではないのです。
他方で、この世には神の摂理のようなものなど働いていない現状があり、人間は生まれながらに、『罪』の支配するこの世で喘ぎ苦しんできました。
それでも、アダム以来の『この世』が終わるとき、『神の王国』が地を治めて、人々の贖罪を行う千年が過ぎた後について、聖書は人の実現できない事柄への希望を語っています。
『それから終わりとなる。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を無に帰せしめ、王国を父なる神にお渡しになる』。
これは、神と人との間に『罪』の障碍が除かれたことを指しているのであり、こうして人類は神とも人とも倫理の問題を負わない状態に入れられ、ついに『 命の木に対する権利を与えられる』者となることができるでしょう。(コリント第一15:24/黙示録22:14)
使徒パウロの次の言葉は、これら人間の状況を大局的に言い表しています。
『被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。』(ローマ8:20-21)