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新十四日派教理の理解度を試す
当派について47の質問の質問を巻末に付録とする書籍
キリスト教初心者から読んで理解を深めるための一書
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新十四日派は、多様な宗教またキリスト教界の諸宗派とも異なるところに存在意義があります。
最も異なるところは
神は、善行者を是認して救い、悪行者を退け、天国と地獄に裁いて振り分けるという教えが諸教会の根本にあり、信者は一度救われるとそれは覆ることがないと教えている点です。この教えを受け入れている人々は、それらが聖書に書かれて証拠立てられていると、聖句をあげつらうことでしょう。
ですが、これはキリストに表された神の意図とは逆の教えになっています。
キリストが現れたとき、イエスは宗教的優越感を持つ宗教指導者らから強い反対を受けましたが、その原因は、自らを神に是認された善人と思い込み、律法の善行に富んでいるとの評判の良さに慢心し、同じようにできない同胞や、罪人らを蔑んでいたところにあります。
彼らが追い求めたのは、自分が『義』とされることであり、その利己性は同胞の下層民との異なりによるもので、他の人々を踏み台として卑しめるところを必要とする差別の上に成り立つものでしたから、これは下層民をその信仰によって受け入れるイエスとの対立を生まないわけもありませんでした。
どうして、このような事が起こったのかといえば、聖書そのものの目的が、いわゆる「善人を救う」という目的を持たないためです。
神の御前に在って、人は皆が例外なく『アダムの罪人』であり、それはどれほどの善行をもってしても相殺されるものではありません。これがキリスト教の最重要な根本の教えです。
人類に倫理的な問題があることは、世相を見れば余りにも明らかです。人類は戦争や犯罪はおろか、隣人とさえ問題なく過ごすことも難しいのです。
そのために、神はキリストの犠牲を備え、『罪の赦し』のための代価とされました。(ローマ5:18)
その犠牲は「アダムの子孫」である、人類全体に及ぶべきものであって、洗礼を受けたクリスチャンだけを救うとすれば、それは神やキリストを狭量であると誹謗するに等しいものです。
そして、やはりキリストが現れたユダヤでは、自分の正義に自信を持つ宗教家らはイエスを処刑させてしまい、その酬いとしてひと世代の内にローマ帝国によってエルサレムと神殿を失い、モーセの律法に従う崇拝を行えない状態とされ、以後二千年の歴史が刻まれて来た事実があります。
ここに示されたキリストの大原則はけっして忘れるべきでなく、それはキリスト教というものの根幹に関わるものです。
しかし、キリスト教界は「善人の天国行き」と「悪人の地獄行き」というどこにでもあるような凡庸な宗教に堕落してゆきました。
どうしてこうなったと言えば、「イスラエル」という選民思想の目的を誤解しているところにあります。
つまり、神がある民を選んだのが人類救出のための手段であったことを忘れてしまい、その民『神のイスラエル』に向けて書かれた聖書の言葉を、だれでも信者に語ったものであると誤解し、その民に属する祝福の数々を自分たちに勝手に当てはめて悦に入ったのです。
結果として周囲の人々を卑しめたパリサイ派と同じ精神態度を懐いて、「信仰を持たない人は地獄に落ちる」など、宗教団体の人集めに都合の良い教理がまかり通ることになり、そうして信者に優越感と排他的正義感を植え付けているのです。これはキリストの示した精神とは真逆のものであり、神がどのような方であるかも誤り伝える教えです。
ですから、宗派や教理の正当性を唱えることは無益であり、「真理」とは神の御許にのみ在ることを認める必要があり、それはキリスト教界が忘れてきたことでしょう。
そこで真にキリストに帰依する今日の人々に残されていることは、ひたすら神の意図を汲み、その精神に沿うよう自分の内面をその信仰に従って整えるばかりです。自分たちこそが正当であるなどと思えば、それが間違いであり、裁きは末の日に臨むのであれば、もとより自己正当化に真理などありません。
歴史的に見れば、「キリスト教」の名を持ちながらローマ国教とされたところで教会は世俗化し、大衆の異教が流れ込んでしまい、その後も欧州古来の異教の習慣が混ぜ込まれ、そうして不純な『酵母がパン全体を発酵させ』たように、世界最大の宗教へと膨らんだのが一般的に見る「キリスト教」となったのです。これを誰が否定できるでしょうか。
キリストの唱えたこの世のものではない『神の王国』は、俗世を治めるローマ帝国の存在によってその真意が歪められ、いつの間にか「信者の天国行き」という他の宗教とさして変わらないご利益信仰に変えられ、キリストの自己犠牲の精神は、信者の幸福の奴隷とされ、それが社会常識として染み付いた欧米では、客観的研究の成果はともかく、信仰ではキリスト教本来の教えに帰ることは至難の業となっております。
そこで当派は、キリスト教が大衆化される以前、使徒時代の最後に教えを受けた第二世紀の小アジアのキリスト教を標榜し、現代までのキリスト教研究の成果を学び、総合して「古くて新しいキリスト教」への革新を唱えるものです。
それは明解で理性的であり、古代の迷信的蒙昧を引きずった欧米のキリスト教とは教えの土台から異なるものとなりました。
他では説かれることのない希少な理解が根幹を成すため、一般的なキリスト教の常識のようなものは通用しません。
重要な要点の概要には「人間の罪」について、「聖霊の意義」、「終末の裁き」そして「聖書理解の抑制」の四つがあります。
それら当派の基礎の教え、旧来のキリスト教との異なりについては、以下の「案内書」の書物にまとめ、その巻末に47の質問集を設けてあります。
信仰の外部からの読者にも益を得ていただくよう、キリスト教そのものがどのようなものかを含めて解説し、その上で「一般的キリスト教」との違いを教理だけでなく、その精神の異なりも含んでおります。
この精神こそが教理に勝るものであり、教理の理解がそのまま『信仰』となるのであれば、それは人の理解力を神は裁かれることになりますが、キリスト教の本質はそのようなところにはありません。
むしろ、その人の内面が、聖書の言葉によって浮き彫りにされるのであり、同じ聖書を読んでいても、同じ理解を得ていてすら神の前に同じように見做されるとは言えません。神の裁きが、知識の問題であれば、それは何と簡単なことでしょう。
問題は、一人一人が「他者とどのように関わって生きてゆこうとするか」が問われているのであり、キリストが『神と人を愛せ』と言われるのは、この本質を突いているのです。これが最重要の問題であり、キリスト教はここから右にも左にも逸れてはならないのです。
当派は基本的に無戒律を標榜するものの、その信仰が生き方にどのように影響するのかも明らかにした上で、聖書全体が焦点を合わせる『終わりの日』、つまり生きるすべての人に関わることになるキリスト再臨の時期への情報も加えて一冊にまとめました。
その巻末には、当派教理と精神に関する47の質問を付録としましたので、頭書の「案内書」を入手いただき、共感、賛同くださる皆様の理解度を確認いただけます。
なお、基礎からの知識を望まれる方には「聖書とキリスト教を知る」の
二巻本から学習なさってください
どの書籍も電子書籍と紙媒体とがあります
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創世記からキリスト初臨まで
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キリストの再臨から千年王国まで
以下、質問集
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質問1. キリスト教で教理を理解する事に優るものは何ですか?
また、なぜそう答えますか?
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