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不等式の物理学:一般相対論におけるエネルギー条件
熱力学第2法則のように、物理学には不等式が本質的な役割を果たしている自然法則があります。不等式は、深遠な理解を表現するための重要な道具となっています。一方、等式ばかりでは、個々の現象を詳細に記述できても、それらの背景にある全体像や普遍的な性質を見落としてしまうことがあります。いわば、「木を見て森を見ず」の状態に陥る可能性があるのです。
たとえば、多体系の古典力学では、ニュートン方程式という「等式」を用いることで、個々の現象を決定論的に記述できます。しかし、このように1つ1つの現象を等式で理解するだけでは、熱力学第2法則のように、多数の現象を統合して得られる大きな世界観は現れません。個別の現象を超えて普遍性を持つ法則、つまり不等式が初めて示す物理の世界があるのです。
曲がった時空を記述する一般相対論でも、実は不等式が物理の本質を捉える鍵となります。ただし、「基礎方程式であるアインシュタイン方程式は等式ですよね?」と思う人もいるかもしれません。
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アインシュタイン方程式は、左辺に時空の曲率を表すテンソル、右辺に物質のエネルギーや運動量を表すテンソルを等しくする「等式」です。しかし、興味深いことに、この等式そのものが物理の本質ではないとも言えるのです。
アインシュタイン方程式は数学的には非常に柔軟で、どのような時空でもその解を作り出すことが可能です。例えば、任意の計量テンソルを方程式の左辺に代入し、それに対応する物質分布を右辺に割り当てれば、それは立派な解となります。タイムマシンのような奇妙な時空も含めて、計量テンソルを自由に設定することができ、その結果として物質分布の形が決まります。しかし、これらの解の多くは物理的には意味を持ちません。
その理由のひとつは、物質のエネルギー密度に下限があることです。古典的な物理学では、エネルギー密度は負の値を取ることができません。一方、量子力学的には零点振動の影響で負のエネルギー密度が現れることがありますが、その値には厳しい制約があります。例えば、平坦な時空では全エネルギーが非負である必要があります。このような条件を物質の「エネルギー条件」と呼び、不等式の形で表されます。つまり、たとえアインシュタイン方程式の解を構築できたとしても、負のエネルギー密度が極端に大きい時空は物理的には実現できないのです。
この状況は、正負両方の電荷を許容する電磁気学のマクスウェル方程式とは異なります。エネルギーの非負性は、物理的に重要な意味を持ちます。エネルギーは時間と密接に関係しているため、エネルギーの非負性は「時間が一方向に流れる理由」、つまり時間の矢の問題とも深く結びついています。
学部レベルの熱力学でも、エントロピーの増大則(熱力学第2法則)を通じて時間の矢を理解しようとする試みが行われます。しかし、エントロピーが増加する理由の背景には、物質のエネルギーが正の値を取れるが負の値を取れないという制約が関係している可能性があります。これは研究最前線でも議論されています。
さらに、量子力学では量子もつれ(エンタングルメント)の性質も時間の矢と関係しています。例えば、量子もつれは局所的な操作によって壊れていく「単調性」を持っていますが、これは局所的な量子もつれが相互作用を通じてより広域的なもつれへと成長するためです。この単調性が時間の矢を指定していると言えます。また、量子的に絡み合った2つの部分系のうち、片方だけに時間反転を行うと、生成される密度行列は負の固有値を持つようになり、もはや正当な量子状態を記述していません。このように、量子もつれは時間の矢とも密接に結びついているのです。
さらに最近の研究では、量子情報理論における相対エントロピーの非負性が、アインシュタイン方程式の右辺に現れる物質エネルギーの非負性と関連していることが分かってきました。「情報」という概念が、「物質」のエネルギーに制約を与えているのです。
このように見ていくと、アインシュタイン方程式の本質は、その「=」という等式よりも、右辺の物質分布が満たすべき「≥」という不等式に宿っていることがわかります。この不等式こそが、古典的な一般相対論でも「時間の矢」を生み出しているのです。例えば、2つのブラックホールが衝突して1つの大きなブラックホールを形成する場合、そのブラックホールの表面積の振る舞いにおいても、このエネルギー条件に基づく不等式が重要な役割を果たしています。
新しく形成されたブラックホールの面積が、衝突した2つのブラックホールの面積の合計よりも大きいことを証明する際にも、このエネルギー条件の不等式が本質的な役割を果たします。また、ブラックホールの面積は、その熱的なエントロピーに比例していることが知られています。このため、古典的な一般相対論の枠組みでは、ブラックホールのエントロピーは常に増加します。
ただし、量子効果を考慮すると状況が少し変わります。ホーキング輻射によってブラックホールは蒸発し、その面積は小さくなります。しかしこの場合でも、ホーキング輻射による輻射のエントロピーとブラックホール自体の熱力学的エントロピーの合計は、時間とともに単調増加します。このことは、熱力学第2法則が量子レベルでも有効であることを示唆しています。
このように、電磁気学のマクスウェル方程式と、一般相対論のアインシュタイン方程式を比較すると、それぞれの方程式が物理学において果たす役割の違いが明確になります。マクスウェル方程式は「等式の物理学」として捉えることができるのに対し、アインシュタイン方程式は「不等式の物理学」に基づいています。この区別を理解することは、物理学の本質をより深く知る上で非常に重要なのです。
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