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観測における状態ベクトルや波動関数の収縮は、観測者にとっての単なる情報取得による変化なのだろうか?(修正版)

堀田さんは、

波動関数や状態ベクトルの収縮は、測定によって得られた系の情報に基づいた、物理量の確率分布の単なる更新に過ぎません。その意味で、観測によって古典的なサイコロの目の確率分布が更新されて、特定の目に分布が収縮をするのと本質的な違いはないのです。

擾乱の存在のために、量子力学における測定による変化は、単なる情報取得による変化とは考えられないのか?

というのだが、私には疑問に感じるので、少し書いておきたい。

x方向のスピン$${\sigma_x}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。その状態のy方向のスピン$${\sigma_y}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。その状態のx方向のスピン$${\sigma_x}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。その状態のy方向のスピン$${\sigma_y}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。その状態のx方向のスピン$${\sigma_x}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。その状態のy方向のスピン$${\sigma_y}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。これは永遠に繰り返される。無限ループである。

この永遠の繰り返しを、果たして、「観測者にとっての単なる情報取得による変化」と呼び、「古典的なサイコロの目の確率分布が更新されて、特定の目に分布が収縮をするのと本質的な違いはない」と説明するのが本当に妥当なんだろうか? 私には極めて疑問に思われる。

当初上記の記事を読んだ際は、堀田さんの説明としては、情報を得て状態がよりわかってくるが、同時に擾乱も生じるので、だんだん情報が蓄積されて状態が良くわかってくるわけではなく、繰り返しが生じるという説明のように思ったのであるが、これは私の誤解で、上記のスピンの例においては、擾乱ではなく射影がその理由であると堀田さんも考えているように思われる。その理由は、

粒子がSG装置の中にいるときに収縮するのではありません。 ですから測らない他の物理量への擾乱が起きるタイミングと、粒子の波動関数が収縮するタイミングは、異なります。ですから物理過程としての擾乱の存在が、波動関数や状態ベクトルの収縮に対して特別な意味を持つわけではありません。

擾乱の存在のために、量子力学における測定による変化は、単なる情報取得による変化とは考えられないのか?

と書かれているためである(擾乱と収縮を別の概念としているためである。)。z軸方向のスピンを測定しようとすると、EMANさんが

初期位置がブロッホ球上のどこにあっても回転の角速度は変わらない.ブロッホ球のz軸を中心にして一定の角速度で回転を始める

スピンのラーモア歳差運動

x軸に沿って上向きだった状態が,徐々に下向きとして観測される可能性が増え始め,ついには逆転するようなことになる

スピンのラーモア歳差運動

と説明しているように、z軸方向を中心にラーモア歳差運動が起こる。このことを堀田さんは、

x成分やy成分の擾乱を起こします

擾乱の存在のために、量子力学における測定による変化は、単なる情報取得による変化とは考えられないのか?

と記載している(「歳差運動」を「擾乱」と呼ぶのは言葉のニュアンスとしておかしいということを別稿で書いたけれど、その点については本稿ではふれないことにしたい。)。これにより測定値に古典的でないことが起こっているのであれば、磁場をかけている時間によって結果は変わってくるはずである。しかし上記の無限ループは磁場の付加時間による違いはないので、擾乱によって無限ループが生じているわけではなく、射影によって特定の状態になるために無限ループが生じると考えられる。

射影という量子力学固有と思われることが理由にもかかわらず、「古典的なサイコロの目の確率分布が更新されて、特定の目に分布が収縮をするのと本質的な違いはない」と考えられるのは、

有名な2準位スピン系でのJ.S. ベルの隠れた変数理論に対応する古典確率理論は、量子力学と全く同様の擾乱を起こしています。この理論は、拙書『入門現代の量子力学』の付録Gでも紹介しています。
(略)
このベルの隠れた変数理論でさえも、数学の一般確率理論を使うと、状態ベクトルやエルミート行列を使って表示ができます。見かけは量子力学と全く同じになりますし、その測定での確率分布の計算も、射影行列を使った「ボルン則」で可能です。また状態ベクトルで表記したときには、シュレディンガーの猫状態のように、状態の線形重ね合わせが現れます。そして測定によってその状態ベクトルは収縮をするのです。

擾乱の存在のために、量子力学における測定による変化は、単なる情報取得による変化とは考えられないのか?

だからであろうと思われる。すなわち、擾乱も射影も古典確率理論で起こりえるので、量子論の射影は「古典的なサイコロの目の確率分布が更新されて、特定の目に分布が収縮をするのと本質的な違いはない」ということのように思われる。

上記の引用の『入門現代の量子力学』の付録Gでは、擾乱の言葉も収縮の言葉もでてこないので、定かではないが、擾乱は、

なんらかのミクロな機構のために、溶媒中のコロイド粒子が起こすブラウン運動のように装置中では棒磁石のがふらふらと揺らぐ。一つ一つの棒磁石の$${\vec{d}}$$は時間とともに向きを変える。多数の棒磁石に対してある方向周辺を向いている棒磁石が何個見いだされるかという確率を用いて、この$${\vec{d}}$$の揺らぎは定量化される。ここで$${\vec{d}}$$がz軸と成す角度を$${\lambda}$$としょう。装置に入射するスピンの$${\vec{d}}$$のz成分$${d_z}$$が正、つまり$${0 \le \lambda \lt \frac{\pi}{2}}$$である棒磁石の集団の場合には、棒磁石が装置中にいる間に、ある平衡分布$${p_+(\lambda)}$$に落ち着くとする。図G.1には$${p_+(\lambda)}$$の確率分布を濃淡で表した。また$${d_z}$$が負である、つまり$${\frac{\pi}{2} \lt \lambda \le \pi}$$である棒磁石の集団の場合には、平衡分布$${p_-(\lambda)}$$に落ち着くとしよう。

堀田昌寛「入門現代の量子力学」講談社、2022年

の記載が該当するのではないかと思われる(量子論の擾乱(歳差運動)と異なりブラウン運動のようにふらふらする変化なので、擾乱のニュアンスに合致している。)。収縮は、

この棒磁石には我々がまだ知らない新しい力の法則が働いていて、それが$${\mu_z}$$の符号だけで決まる二つの細いビームに収斂させていると仮定しよう。

堀田昌寛「入門現代の量子力学」講談社、2022年

の記載が相当しているものと思われる。

このように考えると、「古典的なサイコロの目の確率分布が更新されて、特定の目に分布が収縮をするのと本質的な違いはない」の趣旨は、「古典的なサイコロにおいても、その目の確率分布がブラウン運動的な変化を起こし1.2とか1.3とか中間的な値も潜在的にはとりえて最終的には1から6までに収縮するようなサイコロがありえるので、波動関数の収縮は、古典的なサイコロの目の確率分布が更新されて、特定の目に分布が収縮をするのと本質的な違いはない」ということであろうと思われる。これを「古典的なサイコロの目の確率分布が更新されて、特定の目に分布が収縮をするのと本質的な違いはない」と省略して記載することが適切かどうかについては、私は大きな疑問を感じる。

ちなみに、この疑問は、物理の話(物理学に関する疑問)ではなく、国語の問題(疑問)である。物理学の記載として疑問があると考えているわけではない。何度も書いているように、私の主な関心は、哲学であり、物理学ではない。哲学の中でも、日本で哲学といえばイメージされる大陸哲学ではなく、分析哲学である。分析哲学は、言語哲学とも呼ばれ、

分析哲学、いわば、言語こそが先立つものであり、言語の理解なくして哲学の問題は解決されえないとする哲学。言語的哲学 (英: linguistic philosophy) とも呼ぶ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%93%B2%E5%AD%A6

というものだ。そのため、私は量子力学の国語に関心があるわけである。一般確率論の文脈では問題がないとしても(その文脈では私は評価できないが)、国語の問題として、「波動関数や状態ベクトルの収縮は、測定によって得られた系の情報に基づいた、物理量の確率分布の単なる更新に過ぎません。その意味で、観測によって古典的なサイコロの目の確率分布が更新されて、特定の目に分布が収縮をするのと本質的な違いはないのです。」はおかしいと思うのである。

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