種々の実在の定義
私がこれまで読んできたさまざまな論文や書籍や記事の実在の定義を、独自の実在の定義(私のオリジナル定義)として整理しておきたい。
クオリア実在
クオリア実在は、生物に実際にクオリアを生じさせているという意味での実在である。最も実在していることが疑いない実在といえるだろう。ただし、クオリアを生じているといっても、幻覚は除く必要がある。
可能クオリア実在
クオリア実在には、月の影に隠れた星が実在しないことになるという課題がある。可能クオリア実在は、月の影に隠れた星も実在することにするために、現実世界とは少し異なる可能世界を考え、その可能世界のおいて生物にクオリアを生じるのであれば、実在するという趣旨の実在である。月の位置が少し異なる可能世界を考えれば、月の影に隠れた星も可能クオリア実在する。
科学的実在
科学的実在は、科学的実在論における意味の実在である。科学的実在論とは、
Wikipediaによると
である。クオリア実在(実験装置はクオリア実在していおり実験装置の表示等もクオリア実在している)と科学理論から存在すると考えられるものが科学的実在だといえよう。
EPR実在 = 決定論的・局所相互作用・科学的実在
EPR実在は、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンが1935年に提示した論文で実在の意味するところと考えていたであろう趣旨の実在である。それは、物理量であり、値を持っていて、その値を必要に応じてどこまでも精緻に把握することができて、そうすれば将来の値も正確に予言することができて、その値の変化が瞬時に離れた位置の物理量の値に影響を与えることはないものという趣旨の実在である。このように記載すると、とても変な感じがするが、これが科学者の最も一般的な実在の認識である。
実在するのであればその値を測定でき、測定できなければあやふやなものなので実在するとはいえない(実在といえるためにはあやふやであってはいけない)と考えれば、EPR実在はおかしな考えではなく、とても科学的な実在の定義である。
もちろん目に見えなくても、実験装置で測定できれば物理量はEPR実在すると考えられるので、EPR実在は科学的実在の一種である。すなわち、「AはEPR実在する」が真であれば「Aは科学的実在する」は真である。
ちなみに、物理学者は、EPR実在を実在だとする考えを、素朴実在論と呼ぶことがある。例えば、清水さんは以下のように書いている。
一方で、一般人や哲学者にとってはEPR実在は実在かどうか危うい科学的実在であり、素朴実在論とは、Wikipediaでは以下のように説明されている。
一般人や哲学者にとっての素朴実在は、本稿の整理ではクオリア実在に近いだろう。物理量は、目に見えないので、素朴には決して実在していない。このように、物理学者と一般人・哲学者では、「素朴実在」という用語の意味が全く異なっている。ERP実在は、量子力学を知っている身からすれば素朴な考えなので、「素朴実在」と呼びたくなるし、古典的な物理学も理解していない一般人、哲学者からみれば、ERP実在は抽象的で難しい科学的実在である。
確率論的・局所相互作用・科学的実在
確率論的・局所相互作用・科学的実在は、科学的実在しているが、EPR実在していない実在の一種である。量子力学の波動関数、状態(ヒルベルト空間の元)、密度行列などが確率論的・局所相互作用・科学的実在するものの例である。以下で、ERP実在との違いをもう少し説明しよう。
EPR実在のポイントは、下記の2点である。
①実在するもの(物理量)の値は必要に応じてどこまでも精緻に測定することができて、そうすれば将来の値も正確に予言することができる
②実在するもの(物理量)の値の変化が瞬時に離れた位置の実在するもの(物理量)の値に影響を与えることはない
上記のうち、①が成り立たない場合が、確率論的・局所相互作用・科学的実在である。確率論的・局所相互作用・科学的実在する物理量の値は、いくら現状の状況を精緻に測定していっても、例外的なケースを除いて将来的な値は確率論的にしか予測できない。将来の値は、その確率分布が予想できるだけである。
多くの科学者は、確率論的・局所相互作用・科学的実在は実在の一種ではないと考えている。例えば堀田さんは次のように書いている。
谷村さんは、次のように書いている。
実在ではなく、実体という表現が使われているが、実在するものが実体であろうと思われることから、実在するものではないという趣旨だと思われる。
一方で、一般人・哲学者には、確率的な要素があるとどうして実在といえないのか、あまりよくわからないのではないか(そんなに納得できないのではないか)と私には思われる。サイコロの面のどれが出るかは予測できなくても、サイコロが実在するのは明確だし、6つの面が実在することも明確である。「どの面が出るか予想できないからサイコロの面は実在しないのです」とか言われたら、頭がおかしいとしか思えないだろう。一方で、谷村さんは、
と普通に(当然に)理解できように記載している。
一般人・哲学者とって実在するのは温度計であり(温度計を構成するガラスやアルコールであり)、温度の値ではない。一方で、物理学者にとって実在するのは、温度の値そのものである。このような違いがあるといえるだろう。
物理学者は、確率論的・局所相互作用・科学的実在は実在の一種ではないと考えていると前述したが、実在の一種だとしている物理学者もいて、例えば、「波動関数のわかりやすい説明」からの孫引きであるが、ノーベル賞を受賞している湯川さんは、時代の違いもあると思われるが、
と記載しているようだ。「奇妙な」とは言いつつ、「実在物」ということは物質波は実在しているということである。
決定論的・遠隔相互作用・科学的実在
決定論的・遠隔相互作用・科学的実在は、ERP実在の前述したポイント①と②のうち、②が成り立たない実在である。決定論的であるが、瞬時に相互作用の結果が遠隔地に及んでも良いとした場合の科学的実在である。あまり成功した理論はないが、物理学者にとって決定論的・遠隔相互作用・科学的実在は実在の一種と考えることに問題がないようであり、非局所的な隠れた変数理論として研究が行われている。
実在論的実在
実在論的実在は、名辞・言葉があれば、それに対応するものが実在するという趣旨での実在である。多分、一般人にも科学者に理解できない実在ではないかと思われる。私も説明ができないので、wikipediaの説明を引用しておくだけにしよう。
個人的見解
「〇〇は実在するか?」という問いは、実在の定義次第であり、ほとんど無意味な問いである。本稿に書いたように様々な実在の定義がある。
「〇〇は実在ではなく△△である」という説明も同じく本質的に無意味であるが、「〇〇は実在するか?」という無意味な問いで時間を浪費するのを避ける効果があるのであれば、有意義な面もあるだろう。
量子力学の波動関数は実在するのか知りたく感じたり、実在するか否かの自説を語りたいと思う人には、私は「普遍論争」について少し読んでみることをお勧めしたい。ほとんどの人は、実在するか否かを考えることがいかに無意味であるかを感じることができるだろう。「普遍」の実在性を考えるのと「波動関数」の実在性を考えるのはまったく異なると感じる方は、何が違うのか整理して、ぜひ私に教えてもらえると嬉しい。逆に、普遍論争を有意義な議論であると感じる方には、ぜひ「波動関数」の実在性についても考えて、自論を紹介してもらいたい。
最後に、普遍論争は無意味だったわけではなく、社会の進歩のとても重要な過程であったという意見(「中世スコラ哲学の普遍論争の現代的意味」の「哲学者たちは矛盾を解決する方法を模索し、唯名論的な立場から普遍概念と現実を切り離すことで、知識や実在の問題をより現実に即した形で考察しようと試みました。この流れは、17世紀から18世紀の近代哲学や科学革命に繋がっていきます。」という記載など参照)もあること(従って、「波動関数」の実在性を問うことも極めて重要な社会的意味(良いとは限らない)を持つだろうこと)に触れて、本稿を終わりのしたい。