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観測における状態ベクトルや波動関数の収縮は、観測者にとっての単なる情報取得による変化なのだろうか?

(2024/11/7 本稿は、誤っていることに気づいたため、修正版を公表した)

堀田さんは、「波動関数や状態ベクトルの収縮は、測定によって得られた系の情報に基づいた、物理量の確率分布の単なる更新に過ぎません。その意味で、観測によって古典的なサイコロの目の確率分布が更新されて、特定の目に分布が収縮をするのと本質的な違いはないのです。」というのだが、私には疑問に感じるので、少し書いておきたい。

x方向のスピン$${\sigma_x}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。その状態のy方向のスピン$${\sigma_y}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。その状態のx方向のスピン$${\sigma_x}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。その状態のy方向のスピン$${\sigma_y}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。その状態のx方向のスピン$${\sigma_x}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。その状態のy方向のスピン$${\sigma_y}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。これは永遠に繰り返される。無限ループである。

この永遠の繰り返しを、果たして、「観測者にとっての単なる情報取得による変化」と呼ぶのが本当に妥当なんだろうか? 堀田さんの説明としては、情報を得て状態がよりわかってくるが、同時に擾乱も生じるので、だんだん情報が蓄積されて状態が良くわかってくるわけではなく、繰り返しが生じるだけでも、「観測によって古典的なサイコロの目の確率分布が更新されて、特定の目に分布が収縮をするのと本質的な違いはない」ということだと思うのだけど、日常用語の情報を得るというのとは、まったくかけ離れているように私には思われる。

ちなみに、この疑問は、物理の話(物理学に関する疑問)ではなく、国語の問題(疑問)です。何度も書いているように、私の主な関心は、哲学です。物理学ではありません。哲学の中でも、日本で哲学といえばイメージされる大陸哲学ではなく、分析哲学です。分析哲学は、言語哲学とも呼ばれ、

分析哲学、いわば、言語こそが先立つものであり、言語の理解なくして哲学の問題は解決されえないとする哲学。言語的哲学 (英: linguistic philosophy) とも呼ぶ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%93%B2%E5%AD%A6

というものです。そのため、私は量子力学の国語に関心があるわけです。国語の問題として、「波動関数や状態ベクトルの収縮は、測定によって得られた系の情報に基づいた、物理量の確率分布の単なる更新に過ぎません。その意味で、観測によって古典的なサイコロの目の確率分布が更新されて、特定の目に分布が収縮をするのと本質的な違いはないのです。」はおかしいと思うのです。

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