三浦芳聖伝 20、土佐の仏岳山で仙人の行を敢行
土佐の仏岳山で仙人の行を敢行
1、仙人・太玄洞紫陽道人に入門
三浦芳聖は、昭和5年(1930年)4月初めから10月迄の7ヶ月間、高知県長岡郡大豊町の深山杖立山と梶ヶ森の中間にある仏岳山の弘法大師が若い時に修行したという岩窟に籠って仙人の行を敢行したのです。
この杖立山は、芳聖の遠祖・尊良親王ゆかりの土地で、京の都から土佐に流された親王を訪ねてきた親王妃が、ここまでくればもう杖は要らないと言って杖を地面に立てた事からこの地名(山岳名)が付いたと伝承されています。
芳聖が、名古屋の高等商業の配属将校をしていた常盤井孝純氏の紹介状を持って仏岳山の「太玄洞紫陽道人」という仙人に入門を願い出ると、仙人は大きな岩を指差して「この岩を逆さまにしてみよ!」と言われました。
これは、入門テストというか、芳聖の力試しで第一の関門だった。咄嗟の事に困った芳聖は、仕方なく逆立ちして見せたところ、仙人は「馬鹿者!」と言って芳聖を杖で引っ叩いて岩窟の中へ消えて行きました。
それでも喰い下がって、芳聖が仙人の棲んでいた岩窟の前で三昼夜正座して入門を請い願うと、仙人は、梶ヶ森の中腹にある滝のある処へ芳聖を連れて行き、「この滝に打たれる事が出来れば入門を許す。」と言われたのです。
その滝は「真名井の滝」という大滝で、命懸けでなければ到底入る事が出来ない滝でありました。芳聖は、なかなか決心が付きませんでしたが、死んだ気になって文字通り必死で滝に飛び込み入門を許されたのです。
2、神仙道の允可を得る
こうして入門を許された芳聖は、太玄洞紫陽道人から神仙道の手ほどきを受け、草根木皮を食して猛烈果敢に修行に励み、7ヶ月後の昭和5年(1930年)10月には百束の検定にパスし、神仙道の允可を得たのです。数えの27才(満齢26歳)でした。
太玄洞紫陽道人は、芳聖に巷の仙人となって衆生を救済する道を命じました。
芳聖は、この時以降、壁の向こうが透けて見えたり、外から机の引き出しの中が見えるなどの、初歩の霊感・霊通・霊力を得たのでした。
仙人行の内容は、水を飲むだけで空気を食べての断食の行。草根木皮を食して不眠不休で精神統一をする行。木の芽を蜂蜜で練って食した話。大祓祝詞の正しい解釈など、差しさわりの無い話は聞いた記憶がありますが、その他のことは極秘でした。
3、空気を食べる秘法公開💖💟💝
空気を食べる秘法について紹介しておきます。要は、唾液と空気を混ぜて飲みこむのです。
まず、口をモグモグ動かして、口の中に唾液がいっぱいになるようにします。次に、その唾液を飲み込むときに、舌ベラをU字型にして、空気と混ぜて吸い込むのです。
この秘法を知っていれば、山で遭難した時とか、食糧危機が来た時でも、しばらくは飢え死にすることはありません。
4、仙人の大祓祝詞の解釈
芳聖は、中臣の大祓の中にある国津罪の中の解釈について、仙人から下記の様に解釈するのが正しいと教えてもらったと聞きました。
己が母犯せる罪について、 実母との相姦(近親相姦)との解釈は誤りで、これは母(親、尊属)の犯した罪は、子供も同罪であると解釈するのが正しい。一種の連座(縁座)制。
同様に、己が子犯せる罪( 実子との相姦)についても、子供の犯した罪は親も同罪であると解釈するのが正しい。一種の連座(縁座)制。
母と子と犯せる罪は、母(親)が主犯で子供が従犯の罪と解釈するのが正しい。
子と母と犯せる罪は、子供が主犯で母(親)が従犯である罪と解釈する。
畜犯せる罪は、 獣姦のことではなく、「畜が犯せる罪」で、犬や猫などの飼育している家畜が他人に迷惑をかけた場合の罪と解釈する。
5、芳聖「仙人修行地」の神風串呂
後年、芳聖が解明した「仙人修行地」の串呂を二本紹介します。
(1)仙人修行地と登玉(とうぎょく)の神風串呂
仏岳山(高・長岡郡大豊町)-八幡(兵・南あわじ市賀集)-串作(愛・一宮市萩原町)-登玉(長・木曽郡上松町)-入定(福・いわき市)
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文47頁)
仏岳山で仙人の修行をして、入定に登玉したことを表わす串呂です。
*登玉=登極=最高の位に就くこと。
*入定=禅定の境地にはいること、ここでは「仙人の行」で、神仙道の允可を得たことを言う。
もう一本の「与位-入定」の串呂は、小浜市の禅寺・霊松山発心寺で、芳聖が見性したことを表わす串呂です。
(2)仙人修行地と新井薬師(下宿)の神風串呂
杖立山(高知県長岡郡大豊町)-仏岳山(長岡郡大豊町)-一色町(三重県津市久居)-御園(愛知県東栄町)-清子(山梨県身延町)-新井薬師隣接「高橋家」(東京都中野区新井の下宿)
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第一章57頁)
身延町の清子は、尊良親王妃・御匣殿 (西園寺公顕女)藤原清子を表わす地名です。
「太平記」では、御匣殿が危難に遭遇しながら元弘の乱の失敗で土佐に流された尊良親王を訪ねて来たことになっています。
(『太平記』巻18の7「春宮還御の事付一宮御息所事」)
当時、芳聖は、東京都中野区の新井薬師に隣接した「高橋家」の二階を間借りしていて、ここに荷物を置いたまま、仙人修行地に向かいました。
前号で既報の如く、芳聖は昭和5年(1930年)の3月以降、たびたび刺客に襲われました。
この「仙人修行地」-「身延町」-「高橋家」の串呂を踏んで神仙道の允可を得、霊感を身につけたことで、身延(延命)することが出来たのです。
【参照】怨霊となった南朝忠臣
このように神仙道の允可を得る串呂が用意されていたという事は、三浦芳聖が「一心が天に通ずる聖人になる」ために、この地で仙人になる行を敢行することが予定されていたと考えるべきだと思います。(神風串呂史観)
6、帰途、阿波の鳴門を霊感
昭和5年(1930年)10月、土佐の深山「仏岳山」を出山しての帰途、船で阿波の鳴門を通過した時、芳聖は、荒潮の潮の八百路の八潮路の潮の八百会にます、速開都比咩を霊感し、ひとりでに、
という歌が出来た。これは、渥美勝の歌「荒潮の潮の八百路の八潮路の潮の八百会に立てる此国」の本歌取りである。
7、大日本会本部を立上げる
こうして「一心が天に通ずる聖人」になろうと仙人の行を終えた芳聖は、「巷の仙人」として昭和5年(1930年)秋、名古屋市中区(現在は昭和区)御器所町字中屋敷12番地に居を定め、神道の祭祀に打ち込む傍ら「大日本会本部」の看板を掛け、再び同志を糾合し皇国維新運動に邁進した。
不思議な事に、芳聖が土佐の山から帰った直後のある日、何の予告もなく名古屋市東区布池町の「神道天祖教の教主・高木那忠」(明治元年六白金星戊辰年生れ)という方が、2、3人の門人を連れて訪ねて来て、
「今度、神政復古連盟を組織致しました。ついては御神命によりまして、貴方にこの神政復古連盟の顧問になって頂きたい」と芳聖を顧問に招聘した。
この時、27才の芳聖は「年の若い私が36才も年上の方の顧問など・・・」といくら断っても、「ご神命ですから」と言って聞かず、否応なしに顧問に就任させられた。
高木那忠氏は、後日またやって来て「ついては秋季大祭を行いますから是非御光臨を願いたい。」というので、芳聖が出かけて行くと、神代服姿の信者が、「天之御中主の尊、天之御中主の尊・・・」と唱えながら担ぐ輿に乗せられ、滋賀県近江八幡市長命寺町の天之御中主尊神社に連れて行かれた。
芳聖は、この時初めて「⛩天之御中主尊神社」が存在する事を知った。
8、⛩天之御中主尊神社の神風串呂
「八尺鏡野」と「正善」との神風串呂 (№44)
「八尺鏡野」-「大普賢岳」-「大神」-「助命」-「⛩天之御中主尊神社」-「正善」
石清水八幡宮と御香宮との神風串呂 (№102)
「由良」(洲本市)-「⛩石清水八幡宮」-「⛩御香宮」-「⛩天之御中主尊神社」-「太平寺」-「燕岳」-「霊仙寺」-「薬師岳」-「平林」-「薬師峠」-「薬師山」
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🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)
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🟠情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。
ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
🟡前号(№133)
🟢次号(№135)
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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