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💟文書使用と崇神王権-大王町と崇神天皇陵との神風串呂(2)

🎀串呂哲学研究ノート 第467号

はじめに

今号は、当ブログ第466号「三代で終焉した崇神王権!」に引き続いて、「大王町と崇神天皇陵との神風串呂」の(2)です。

👑崇神天皇=扶余王依羅説ふよおういりせつを調査研究するに当り、伊勢の⛩️内宮から天理市の⛩️行燈山(あんどんやま)古墳に串呂してみたら、⛩️大依羅(おおよさみ)神社、依羅(おおよさみ)小学校、⛩️青龍神社の崇神岩(境内社崇神)を串線していることが判明し、夢でも見ているのではないかと思いました。

⛩青龍神社(兵庫県明石市藤江)境内社「崇神」

🎀この串呂を西方に延長したところ、岡山県備前市のJR伊里駅(いりえき)、伊里川(いりがわ)を串線していたので、崇神天皇=扶余王依羅説は間違いないと確信したのでした!

崇神天皇陵(行燈山古墳)と⛩伊勢神宮 内宮の神風串呂(google.map)

崇神天皇陵(奈良県天理市柳本町行燈山)

東側の後円部先端から撮影された行燈山古墳(日本・史跡ナビ)

⭕これは、神風串呂解明史上、特筆すべき画期的な「新発見!」であり、古代史研究に対する大きな貢献であると自負しています!🌺🎌🍀💯💖

🟡串呂起点 大王町(三重県志摩市)

大王(おおきみ)=古代天皇を表わす地文。
国内唯一の地名と思われる。
三重県の大王町です。(三串 -🔴-🔴-🔴-に相当する )


🌷初めての方は、まず下記をご覧下さい。

🌺🌺🌺🌺🌺 🌷🌷🌷🌷🌷

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講 師 鈴木超世志 (串呂哲学研究会代表)
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会 場・京都エミナースホテル 2階
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🔴文書使用と崇神王権

🌷さて、3世紀の末から4世紀前半に活躍した大王 崇神の御代に、文書使用があったか無かったか?という質問に対して、あなたはどうお答えになりますか!

🌷歴史学の常識からは、倭国に文字が本格的に導入されたのは、4世紀後半から5世紀にかけてのことで、中国から漢字が伝わったとされています。

🟡念のため『 Wikipedia』で調べて見ました。

日本語における文字の使用は、一般に5世紀から6世紀頃の漢字の本格的輸入とともに始まり、漢字を日本語の音を表記するために利用した万葉仮名が作られた、とされている。一方、藤堂明保は控え目に見ても3世紀から5世紀には日中両国で漢字が日本に入っていたことは確かであると唱えており、森浩一も北九州の弥生時代の銅鏡には大抵漢字で文章が表されており、倭人が銘文の内容を理解できたとすれば、漢字受容の歴史が大きく変わってくるとしている。また、『後漢書』や『倭人伝』における日中の外交記述からも、遅くとも2、3世紀には支配者層における文字の使用を想定する方が自然であるとの意見もある。(『日本における漢字- Wikipedia』)

🌷たしかに本格的に文字が導入されたのは、5世紀から6世紀頃だったとしても、上記の記事にも「2、3世紀には支配者層における文字の使用を想定する方が自然である」とあるように、私は、大王 崇神の御代に王権を営む上で、文字の使用があったと考える方がより真実に近いと思うのです。

このような視点から我が国の文字に関する歴史について調べて見ました。

1、倭奴国王の印綬
中国の史書『後漢書』に光武帝こうぶていが倭奴国王に印綬を与えたことが記載されています。(光武帝の在位は、紀元前6年 - 57年)

2、親魏倭王の金印
次には、『魏志倭人伝』に魏の国王が、倭王(女王 卑弥呼)に「親魏倭王」の金印を贈ったという記録が残っています。(西暦238年もしくは239年)

では、これらの印綬や金印を下賜された時、現場にいた倭国の大使らは、文字が読めなかったのでしょうか。

国家を代表して国家間の交際を行う大使が文字が読めなかったら、相手国からも国内の人々からも馬鹿にされますよね。読めなかったら、大使は務まりません。

卑弥呼が「親魏倭王」の称号と金印を授かったことを考えると、倭国の指導者たちは、文字を理解していたと思われます。

魏からの詔書やその他の公式文書を理解し、使者を送り出すためには、文字の知識が不可欠であったと考えられるからです。そのため、倭国の指導者たちは文字を読めたと考える方が真実に近いのではないでしょうか。

3、崇神王権の戸口ここう調査
文書使用という視点で、崇神天皇について改めて調べて見ました。すると下記の記載がありました。

「崇神天皇12年9月、戸口を調査し、課役を科した。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇はつくにしらすすめらみことと称えられた。」(『崇神天皇- Wikipedia』)

戸口ここう調査とは、現在の住民票(戸籍)の作成作業です。住所、名前、性別、年齢、容貌(人相、体格、健康状態)などを記録したと思われます。

文書の使用無くして戸口調査が出来るでしょうか。王権を営む上で、文書の使用があったとする方が、より真実に近いと思われれますね。

【参照】文書あって統治あり
古代史を考える場合、文書をもっているかどうかは国力をみる上で重要な要素であると思う。文書の存在をもって国レベルの組織化が可能である。文書あって統治ありである。文書がない直接対面で行政が行われるレベルの集団は国とは言えない。いくらある組織が国と名乗っていても、文書のない組織は国ではなく、村である。
騎馬民族征服王朝説修正序説」(岡崎康民、41頁)

🔴今号は、この崇神王権に於て「文書の使用があったかどうか」を神風串呂で調査・研究して見ようというわけであります!

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