見出し画像

小松天皇御陵と香取との神風串呂(№64)

🟡はじめに

このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。 地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

ここでは、「小松天皇御陵(静岡県磐田市神増)と香取(桑名市多度町)とを結ぶ神風串呂」をご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、群雄割拠の戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。




1、桶狭間・負のカルマに打ち取られた今川軍!

香取神社の香取かとりの串呂哲学上の解釈は「蚊取かとり線香」の「蚊取り」で、人間の血を吸う「害虫駆除」という意味です。

三重県桑名市多度町の「香取」と静岡県磐田市神増原台上の「小松天皇御陵」とを結んだ線上に「桶狭間古戦場」(愛知県豊明市栄町)が串呂しています。

 「香取」-「桶狭間古戦場」-「小松天皇御陵」

この串呂は、今川氏が「小松天皇」を京都に拉致して獄死させた負のカルマにより、永禄3年(1560年)、織田信長率いる隠れ南朝の遺臣らによってとむらい合戦が行われ、今川義元が打ち取られたことを示しているものと思われます。(神風串呂史観の標本です。)

今回は、「小松天皇御陵」と「桶狭間古戦場」・「香取」とを結ぶ神風串呂をご紹介します。


2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。


3、小松天皇御陵と多度町香取との神風串呂

三浦芳聖は、「小松天皇御陵」(静岡県磐田市神増)と「香取」(桑名市)とを串呂すると、次の様になると述べています。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第四章第二節

大呂」(京丹後市)-「行永」(舞鶴市)-「甘呂町」(彦根市)-「香取」(桑名市)-「桶狭間古戦場」(豊明市)-「小松天皇御陵」(磐田市)
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』175頁、新住所に改めた)

【地文のみ掲載】
大呂おおろ」-「行永ゆきなが」-「甘呂かんろ町」-「香取」-「桶狭間おけはざま古戦場」-「小松天皇御陵」

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)大呂(おおろ、京都府京丹後市峰山町鱒留大路)

峰山町鱒留大路
京都府京丹後市峰山町鱒留大路(地図マピオン)

大呂は、大きな串呂(重要な串呂)を表わす諺文。

現在「大路」(おおろ)となっているが、大呂は大路の旧地名で、古い地図には「大呂」という地名が存在していた。

現在、行政では大路を使用しているが、大呂も通用している。
大路=大呂、「大呂鉱山」が有名。現在は大成鉱山と改称した。

大呂鉱山跡(磯砂鉱山)

島根県仁多郡奥出雲町大呂
京都府福知山市大呂
鳥取県八頭郡智頭町大呂
島根県出雲市佐田町大呂
滋賀県草津市大路
京都府京丹後市峰山町鱒留大路

磯砂鉱山「金ほうり(放)山」記

(2)行永(ゆきなが、京都府舞鶴市)

舞鶴市行永
京都府舞鶴市(地図マピオン)

行永は、行(ぎょう)を永年実行するの意味。国内唯一の地名
行(ぎょう)を継続することで、効果が表れると解釈します。行=祭祀。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第四章第二節176頁

三浦芳聖の同上著176頁には、この串呂の解説として、『私の祭祀は天下国家の上に如何なる影響があるかをニ線丈したためておきます。』、『私が此の「小松天皇御陵」に於て、特別最高秘法祭祀の行を永年実行していれば、「今川義元」が「香取」された如くに、「弓削」の「香取」が出来ることを示された「大呂」即ち大きな串呂であります。』と出ています。(弓削は国体を変革しようとした弓削道教のような逆賊の諺文)

(3)甘呂町(かんろ町、滋賀県彦根市)

彦根市甘呂町
滋賀県彦根市(地図マピオン)

滋賀県彦根市の甘呂町かんろちょうは、串呂かんろを表わす地名で、例によって国内唯一の地名です。

甘呂町は、「かんろ」と発音する国内最高の地文で、重要串呂起点のひとつです。

甘呂(かんろ)=串呂(かんろ)・・・同音による転化(解読法)

【参照】串呂哲学の解読法

甘呂町内には、甘呂神社、甘呂(露)城跡があります。

京都市中京区甘露町
滋賀県彦根市甘呂町

(4)香取(かとり、三重県桑名市多度町)

多度町香取
三重県桑名市多度町(地図マピオン)

香取は、出雲の国譲り神話で活躍された経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を祭る「香取神社」(千葉県香取市香取)の香取で、まつろわざる者を平定する意味。

ここでは、マイナスのカルマにより今川軍が織田軍に敗北し、今川義元が毛利良勝(新助)に討ち取られた。義元の死から9年後の永禄12(1569)年、大名としての今川家は滅亡した。

よし(なが)は、興良親王の良に通ずる。尊良、正良、美良。

『ウィキペディア』今川義元 

「蚊取り線香」の「蚊取り」は、「人間の血を吸う害虫を撃退する」を意味する。同音による「香取」の韻文。蚊取り=香取。

【中級編】多度町香取は、数(回数)をくすると香取の効果は大きい。

*多度町には、小松天皇に関係深い「大鳥居三串 -🔴-🔴-🔴- 」の串呂の「大鳥居」が存在する。

*国内香取一覧
鳥取県鳥取市香取
千葉県香取市香取(⛩香取神宮)
千葉県市川市香取
三重県桑名市多度町香取
千葉県香取郡

【参照】🟡伊勢香取

多度町香取は古くから栄えた港町であり、水陸物流の要衝でもありました。香取市とよばれる六斎市(4と9の日)は、中世に始まり、江戸期を通して賑わいました。

香取という地名は関東の香取神社・鹿島神社がこの地に立ち寄ったことに由来するとか。揖斐川水運の港町・香取港は桑名郡だけでなく美濃国南部を含めた近郷の物資集散地として重要視され発展。江戸期には桑名ー大垣間を結ぶ定期航路の寄港地、「津島の渡し」の渡河地として人々の往来も多く、旅籠も多く並んだといいます。

そんな香取を各地の商人は見逃さず、多くの商人が移住して商業町が形成されます。もっとも、大都市桑名のサテライト港的な要因もあり、家数は137軒、人口は677人とそれほど大きな町ではなかったようです。

やがて、香取港は揖斐川、木曽川、長良川の三川改修によってその役割を終え、新田開発によって、次第にその姿を消してしまいます。

現在、多度川の堤防に沿った細長い町筋に残る、伝統的な商家にその一片を見ることができます。水害に備え、土蔵は主屋より高い堤防の中断付近に置かれ、建物自体も道から少し高上げしている模様は、京都福知山の由良川と京街道沿いの町並みに似ています。共に水害と闘い続けた商人町でした。

一路一会 古い町並みと集落・東海 三重

(5)桶狭間古戦場(おけはざまこせんじょう、愛知県豊明市栄町南舘)

永禄3年(1560)、今川義元率いる今川軍と織田信長率いる三河武士(隠れ南朝)との戦いが行われた古戦場。

国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地

三河と遠江地方を一大拠点にしていた南朝方は、駿河地方を拠点にしていた今川氏に対して、「宿敵・不倶戴天の敵」とも云うべき怨念を抱いていたことは疑いのない事実であります。

加茂喜三氏は、『富士〝隠れ南朝〟史』(富士地方史料調査会、1987年)、第九章「桶狭間の奇襲」の中で、「信長の背後に〝隠れ南朝〟がいた」・「桶狭間の変は〝隠れ南朝〟の怨念」などの節を立て、桶狭間の合戦が、今川氏に対する隠れ南朝遺臣による復讐戦であったことを考証しています。

日本の戦国時代の永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。2万5千人(異説あり)といわれる大軍を率いて尾張東部に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲または奇襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。日本三大奇襲に数えられる、日本の歴史的に有名な戦いである。
戦後、東海道に君臨していた今川氏が没落する一方で、勝利した織田氏は美濃・伊勢侵攻から畿内の制圧へと急激に台頭するきっかけとなり、戦国時代の重要な転機となった。 別名「桶狭間村・田楽狭間の戦い」。
『ウィキペディア』桶狭間の戦い

(6)小松天皇御陵(こまつてんのうごりょう、静岡県磐田市神増)

神増原4
静岡県磐田市神増(地図マピオン)

「小松天皇御陵」(静岡県磐田市神増原台上)は今からおよそ六百年前に築造された瓢箪型をした山陵です。

加茂喜三氏は「小松天皇御陵」について下記のように述べています。   
静岡県浜松市浜北区の小松から天竜川を挟んで対岸に神増原という台地がある。現在は静岡県磐田市神増に編入されているが、ここに小松天皇の御用邸があり、小松からは東に約6キロの地点で左程苦労することもなく徒歩で渡河できた。それで敵の来襲に備えた緊急避難の地としたわけだが、小松天皇はしばしばここに行啓し、樵夫や農夫に身をやつした遺臣を謁見したり作戦を練ったりした。小松天皇が秋葉城の戦いで敗れ、今川氏に捕らえられて京都に送られたのち、足利氏の手で拷問に付されて牢死したという知らせを聞いた遠江や三河、駿河の臣下らが松良天皇の勅許を仰いで、縁故の地である神増原御用邸の内に御陵を築き遺品などを納めて葬った。これが現在の静岡県磐田市神増原台上の御陵である。(加茂喜三著『富士〝隠れ南朝〟史』富士地方史料調査会、1987年308頁要約)

三浦芳聖の著書には、「小松天皇(興良)は、秋葉城の戦いで敗れ、逃走中に今川氏の手の者に捕らえられ、京都で獄死したため、崩御埋葬の地は不明である」と書かれている。この神増原台上の御陵は遺品を納めて築造した菩提陵である。

🟣小松天皇 

4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

「大呂」-「行永」-「甘呂町」-「香取」-「桶狭間古戦場」-「小松天皇御陵」

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』175頁には、『静岡県磐田郡豊岡村神増原の「小松天皇御陵」と、三重県桑名郡多度町の「香取」を串呂致しますと、線上ピシンと「今川義元」が「織田信長」「豊臣秀吉」に急襲せられて「香取」せられた愛知県愛知郡豊明町の「桶狭間古戦場」を串呂しています。(後略)』と出ています。

「小松天皇」は、「文中2年(1373年)今川氏の為に秋葉城にとらわれ給いて、京都の牢内で獄死(1375年)」されたと伝えられています。

この串呂は今川氏が「小松天皇」を京都に拉致して獄死させた霊的法則(負のカルマ)により、永禄3年(1560年)織田軍(隠れ南朝の遺臣ら)によってとむらい合戦が行われ、今川義元が打ち取られた事を示しているものと思われます。(神風串呂史観の標本です。)

この神風串呂を構築するために犠牲となられました「織田」「今川」両軍の将兵達のご冥福を心からお祈り申し上げます!


🔴神風串呂を学びましょう!

串呂哲学研究会では、今日では入手不可能な三浦芳聖師の著書を復刻するのに多くの時間と労力を掛け、採算を全く考慮せず、串呂図、表紙画像、系図、中扉などのCG画像作成のために多くの費用を掛けて参りました。

これは、我が日本国と日本民族の将来を案ずればこそであります。皇祖神・天照大御神が、私達日本民族のために、苦心惨憺、長期間を掛けて構築して下さった神風串呂を学びましょう!


🟢後醍醐天皇の皇位を継承したのは誰かについて、歴史資料を示し、さらに串呂で証明した串呂哲学の概説書かつ神風串呂の入門書!


💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志)


🔴バックナンバー(総合)

🟡情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№63)
皇大神宮内宮と船山御陵の神風串呂
🟢次号(№65)
大鳥居三串、小松天皇(興良)の神風串呂

*******************
🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会 
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
*******************

いいなと思ったら応援しよう!

串呂哲学研究ノート(鈴木超世志)
串呂哲学研究ノートは、読者の皆様方の財政的ご支援により活動が維持されています。理解しやすい記事作成のために諸般の費用が掛かります。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。読者の皆様方のご支援に感謝しています!