💟第22話 西山国師の秘訣集を読破-超世の大願偏えに大日本国に興る
🟡西山国師の著書を読破
1926年12月1日、日曜院の住職に就任した芳聖は、翌昭和2年(1927年)1月、京都府長岡京市粟生の西山浄土宗総本山光明寺の経蔵に籠って、西山浄土宗の開祖「証空善慧坊西山国師」(西暦1177年~1247年)の著書を次々と読破して行きました。
数え年の23歳のときのことです。
光明寺の経蔵の著書を読むことが出来るのは、住職以上の資格が必要でした。住職に就任した翌月に経蔵に籠った事は、芳聖が住職という職業に如何に真剣に取り組んでいたかの表われであります。
💝住職に就任した芳聖は、ただただ西山浄土宗の奥義を究めたかったのです。
証空善慧坊西山国師は、浄土宗の開祖 法然上人の高弟で、特に学問に優れ、多くの書物を書き残し、日本の仏教史上、偉大な足跡を残した方です。
🟡観経秘決集の結文で大悟
芳聖が、西山国師の著書を読んでいくと、最晩年に書き表わした『観経秘決集』の巻二〇「娑婆を弥陀本国に造る」の結文(結論部分)に下記のようなご文章を発見し、廓然として大悟したというのです。
超世の大願とは、『仏説無量寿経』の第十八願のことを言います。一言で言い表しますと「どこまでも衆生を救わねばおられない菩薩の誓願」とでも申しましょうか。
西山国師は、「我が国を、その超世の大願が最高に興隆する弥陀本国にする」ことこそ浄土教の神髄であると述べておられるのです。
この『観経秘決集』は、西山浄土宗の最高峰の奥義書の一つで、芳聖は、その結論部分に西山国師が、このように書き残しておられたのを発見したのです。
その後、『観経秘決集』は、昭和2年(1927年)11月25日に仏書刊行会から出版され、WEB上で見ることが出来ますので、参考の為掲載します。
【参照】大日本仏教全書. 第54巻 観経秘決集(証空撰)453・454頁
🟡超世の大願偏えに大日本国に興る
芳聖の著書から関連部分を引用します。
下記の文章を書くに当たって芳聖は、昭和20年(1945年)1月の名古屋空襲で罹災していますので、ノートやメモなどの資料なしで、記憶を頼りに書いたようです。
その為、原文と一致しない箇所には(国)を補い、漢文の箇所には書き下し文を補い、歴史的仮名遣いは新仮名遣いに変換しました。
🟡此の国を以て弥陀本国となす
芳聖は楠林山安楽寺で、数えの10才の時から仏典や漢籍を学んでいたので漢文は斜めに読めたようです。
その上、東京で渥美勝先生に邂逅し日本的生命観に開眼せしめられていたので、この西山国師の思想がよく理解できたのです。
芳聖は、「弥陀本国=八紘一宇の家族国家日本=皇国」で、この世を弥陀本国すなわち王道楽土の理想郷にする菩薩行に邁進する事こそ、日本民族の生きる道だと悟ったのです。この理想が、芳聖の生涯を貫く思想・信念でした!
これは、浄土思想と日本的生命観の見事な融合です!
結文の最後には「永く浄土に居る者。人中の最勝人と為す。応に知るべし。」とあります。
💖芳聖は、たまたま住職になったのではないのです。将来、『観経秘決集』を読む為に、大御神の教導計画に基づいて、浄土宗西山深草派の安楽寺に導かれ、数えの10歳の時から漢籍を学んだのです。