名古屋市御所町の神風串呂3(№144)
💟ご挨拶
このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂(カミカゼクシロ)について記述したものです。
神風串呂(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。
元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂(カミカゼクシロ)のことだったのです。
串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。 地名(地文)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。
ここでは、「名古屋市御所町の神風串呂3」をご紹介し、詳しい解説をしています。
神風串呂(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!
串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺の末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。
神風串呂(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠の戦国時代(120年以上)に無辜の民が味わった塗炭の苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。
1、中部国民道場は三浦皇統家の御所だった
皇国維新運動の拠点として名古屋市御所町に創設された「中部国民道場」は、霊的(串呂哲学上)には、神皇正統・三浦皇統家の御所であったことを昭示する神風串呂をご紹介します。
こうした事を理解する一助として、三浦芳聖の略年譜をご紹介します。
昭和4年(1929)8月24日、出山還俗。
昭和5年(1930)4月~10月、土佐の深山にて仙人の修行、初歩の霊感を得る。帰途、阿波の鳴門にて「速開都比咩」を霊感す。名古屋市御器所町に「大日本会本部」を設立。「神道天祖教」教主「高木那忠」氏来り「神道復古連盟」の顧問に招聘さる。
昭和6年(1931)2月、九州への往路、山陽線加古川鉄橋の上で「瀬織津比賣」を霊感す。帰途2月中旬、兵庫県加東郡滝野町の闘龍灘に「おどのあはぎはら」を霊感し、寒中禊祓いを実施す。滝野町に一泊、翌日千ヶ峰の中腹に日月の滝を発見、ツララ張る。神宮寺焼けてくすぶる。夏、一ヶ月間の参籠禊祓いの行を実施。12月9日、名古屋市御器所八幡宮にて野村鈴と結婚、名古屋市中区出口町2丁目34番地に転居。
昭和7年(1932)5月15日、「五・一五事件」起きる。以後、東海郷軍同志会の結成のため奔走。夏、日月の滝で一ヶ月参籠禊祓いの行を敢行、日月の滝と命名。
昭和8年(1933)春、朝拝時「天照大御神は酒は用いない。」の霊示あり。夏、日月の滝に1ヶ月間の参籠禊祓の行敢行。8月15日、神霊に導かれて15里の道程を徹夜で歩くも疲れず、翌16日、長慶院法皇崩御埋蔵の地「西山」を発見。
昭和9年(1934)1月15日、名古屋市公会堂に第三師管在郷軍人大会開催され、緊急動議を出して昭和維新断行せんと対中華民国親善外交を提唱したるところ憲兵隊に検束拘引され、空振りに終る。
昭和10年(1935)1月1日、中部国民道場創立。(名古屋市中区御所町)
昭和11年(1936)、初頭、相沢中佐事件の公判闘争のため、単身世田谷区代田の山本海軍大将邸を尋ねる。2月26日、「二・二六事件」の決起部隊を支援するため、東海郷軍同志会の会員に指令を発し、上京するため名古屋駅に集合(56名)するも名古屋憲兵隊の騎馬隊に阻止され果たせず。
昭和12年(1937)7月29日付にて「東洋平和の大方策(支那事変処理に関する意見書)」を近衛文麿公に送付。10月1日、 昭和区御所町となる。同月、支那事変に応召(第26師団独立歩兵第11聯隊陸軍後備役伍長)、12月1日付にて陸軍歩兵軍曹に昇進、中国各地を転戦。
昭和13年(1938)3月10日、黄河渡河戦にて奮戦。5月9日腹部盲管銃創を受け内地送還さる。
2、串呂哲学の理解を助ける予備知識
始めての方は、下記の記事を参照してください。
3、三浦芳聖降誕地と中部国民道場との神風串呂
三浦芳聖は、三浦山(長野県)と中部国民道場(名古屋市昭和区御所町2丁目9)とを串線すると、次の様な神風串呂になると述べています。
「三浦」(北牟婁郡紀北町)ー「御麻生薗町」(松阪市)ー「中部国民道場」(名古屋市御所町2丁目9)ー「三浦山」(木曽郡王滝村)
(三浦芳聖著『神風串呂の解明』36頁、1965年1月1日発行)
【地文のみ掲載】
三浦ー御麻生薗町ー中部国民道場・名古屋市御所町ー三浦山
【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています)
(1)三浦(みうら、三重県北牟婁郡紀北町)
三浦山は三浦氏(三浦皇統家、三浦天皇)を表わします。
この紀北町の「三浦」は、三野瀬の三浦といいますが、三浦皇統家や三浦芳聖に関連した串呂上の重要地文です。
三浦山とで「三浦」二串の確定立証の神風串呂を構成しています。
串呂哲学の世界では、「後醍醐天皇の御名は三浦(紀北町)である即ち、後醍醐天皇の嫡皇孫は三浦と称している」という設定になっていまして、後醍醐天皇以降の神皇正統の天皇の重要串呂上に「三浦」という地文が出て参ります。
【参照】三浦についての詳細は「三浦について」を参照ください。
【参照】後醍醐天皇の御名を鑑定する神風串呂 (№15)
「御名」-「⛩湊川神社」-「後醍醐天皇御陵」-「三浦」(紀北町)
【参照】真庭市正吉と紀北町三浦の神風串呂(№83)
「正吉」-「神代」-「加賀美」-「神明寺」-「大門」-「三浦」(紀北町)
(2)御麻生薗町(みおぞのちょう、三重県松阪市)
ア、皇室を表わす。竹の園生、御園、御薗に同じ。ここでは、中部国民道場長の三浦芳聖が神皇正統嫡皇孫である事を表わす。
イ、麻生(あそう)は、神生(かみうみ)を表わす。三浦芳聖は名古屋市御所町で二男一女を儲けました。
(3)中部国民道場跡(名古屋市昭和区御所町2丁目9)
昭和10年(1935年)1月1日、建築された三浦芳聖の道場兼住宅。昭和20年(1945年)1月3日の米軍機による爆撃で全焼しました。
この御所町時代の歴史を見ると、名古屋市御所町は、まるで三浦芳聖の為に出来、用が済んだら消滅したように思われ、串呂主宰神のご配慮のほどが偲ばれます。これも「神風串呂史観」を立証するよい資料だと思います。
(4)三浦山(みうらやま、長野県木曽郡王滝村)
三浦山は三浦氏を表わします。紀北町の三浦とで「三浦」二串の確定立証の神風串呂です。
この王滝村の三浦山は、大門三串で神皇正統第百代・大宝天皇(美良)が、三浦と名乗ったことを昭示する串呂上の三浦山です。
三浦山(長野県木曽郡王滝村)は、中央アルプス御嶽山西南方に位置する標高2393mの山岳信仰の山として有名。西南方に「三浦貯水池」「三浦ダム」などがある。
この山が「みうらやま」と呼ばれるのは、鎌倉時代末期、三浦太夫を首領とした三浦一族が相模国から逃れ、安住の地を求め飛騨から鞍掛峠を越えて、三浦山の麓三浦平(標高約1300M)に落ち着いたところから命名されたといわれています。
そもそも「三浦山」という名前は、鎌倉時代に飛騨から移住してきた三浦氏がこの地に定住したことに由来するそうです。
たくさんある姓の中からなぜ大宝天皇が「三浦」という姓を選んで名乗ったのかという問題については、直接的には「皇后三浦佐久姫の姓を名乗ったから」といえますが、この件に関する天地神明の経綸は深遠なものがあり、また別のところで考察することに致します。
【参照】三浦山についての詳細は「三浦について」を参照ください。
【参照】正統天皇が天の岩戸篭もりし三浦と名乗った!(№3)
「蔵王山」-「大門」-「三浦山」-「大日岳」
上記の「三浦山」は、神皇正統・第百代大宝天皇が「三浦藤太夫」と名乗って民間に隠れたことを表わします。
4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察
「三浦」(紀北町)ー「御麻生薗」ー「中部国民道場・名古屋市御所町」ー「三浦山」
皇国維新運動の拠点として名古屋市御所町に創設された「中部国民道場」が、霊的(串呂哲学上)には、神皇正統・三浦皇統家の御所であったことを昭示する神風串呂です。
三浦芳聖に対する串呂主宰神のご配慮が偲ばれると共に、神風串呂史観を証しする適切なる教材です。
三浦芳聖は、この「中部国民道場」を皇国維新運動の拠点にして、昭和10年(1935年)1月1日から昭和20年(1945年)1月3日まで、日本国と日本民族のために、誠心誠意、粉骨砕身、寝食を忘れて活躍しました。
米軍による空爆で「中部国民道場」が全焼となったので、芳聖は、遠祖・松良天皇の先蹤に倣って、豊川市萩町の山中に疎開しましたが、聖戦貫徹の為、東奔西走、席の暖まる暇の無いほど国家・民族の為に奮戦しました。
🔴神風串呂を学びましょう!
💟串呂文庫
🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)
🟡バックナンバー(総合)
🟠情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。
ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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串呂哲学研究ノートは、読者の皆様方の財政的ご支援により活動が維持されています。理解しやすい記事作成のために諸般の費用が掛かります。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。読者の皆様方のご支援に感謝しています!