無題4

松良天皇が開基された薬師堂の神風串呂 (№90)

🎀串呂哲学研究ノート 第90号

このオンラインブックは、神皇正統家しんのうしょうとうけ極秘伝ごくひでん神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。

串呂クシロ(かんろ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢内宮皇大神社の神風クシロ(串呂)

元伊勢クシロは、皇城守護こうじょうしゅごの結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

神風串呂は、地文ちもん(地名)を研究することで天地神明の存在を認識することのできる神道皇霊学しんとうこうれいがくで、神国日本(瑞穂の国)再建のために皇祖神・天照大御神によって構築されました。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。

ここでは、奈良県吉野郡天川村「大普賢岳」と松良天皇が開基されたと伝承される豊川市御油町「萬松山大通寺薬師堂」との神風串呂をご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助てんゆうしんじょにより日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


🟣松良天皇の崩御を表わす地文「神立町」(茨城県土浦市)


1、青木文献と松良天皇開基の薬師堂

三河吉野朝の研究書『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』(中西久次郎、家田富貴男・1940年)によれば、「寛成親王の皇子松良親王は三州五井美吉原に落ち給う。薬師寺建立の開基成り。成龍と号し給う。成龍は応永二十四年五月、御坊に崩ず」(青木文献・原文は漢文)と出ています。

青木文献(別名千種文献)とは、愛知県豊川市御油町欠間の中西家に伝わる、南朝忠臣千種忠顕の子孫「青木平馬」が応永30年(1423)と31年(1424)に書き残した覚え書のことです。

萬松山ばんしょうざん大通寺だいつうじ薬師堂やくしどうは、松良天皇が落飾剃髪され成龍法皇となられ、入られた薬師堂です。青木文献には、上記の様に、松良親王は「薬師寺建立の開基成り」と記されてあります。

南北朝時代の歴史は、戦乱の時代であっただけに、戦いに敗れた南朝方の歴史資料は少なく、特に三河吉野朝史の資料が少ない中で、「青木文献」は貴重な資料です。

今回は、松良天皇の最晩年のお住まいであった「萬松山大通寺薬師堂」の串呂をご紹介します。国内唯一の地名が3つ串呂します。


2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。


3、大普賢岳と萬松山大通寺薬師堂との神風串呂

三浦芳聖は、奈良県吉野郡天川村「大普賢岳」と松良天皇が開基されたと伝承される「萬松山大通寺薬師堂」(豊川市御油町)とを串線すると、次の様な神風串呂になると述べています。

松良天皇については、松良天皇(正良)(№79)を参照ください。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第六章

御子神」(室戸市)-「大普賢岳」(天川村)-「一色」(西尾市)-「萬松山大通寺薬師堂」(豊川市)-「浦川」(佐久間町)-「黒法師岳」(浜松市)-「田代」(静岡市)-「和田」(身延町)-「大崩」(身延町)-「立野」(大月市)-「和田」(相模原市)-「野辺」(あきる野市)-「南元宿」(さいたま市)-「元町」(さいたま市)-「神立」(土浦市)-「天神」(かすみがうら市)-「不動」(鉾田市)

(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』252頁、現住所に改めた)

【地文のみ掲載】
「御子神」-「大普賢岳」-「一色」-「萬松山大通寺薬師堂」-「浦川」-「黒法師岳」-「田代」-「和田」-「大崩」-「立野」-「和田」-「野辺」-「南元宿」-「元町」-「神立」-「天神」-「不動」

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)

(1)御子神(みこがみ、高知県室戸市佐喜浜町)

室戸市・御子神
高知県室戸市佐喜浜町(地図マピオン)

小室門院元子媛命の日嗣の御子である松良天皇のこと。(13)南元宿(14)元町は、小室門院元子媛命を表わす。リンクの地図は右上の「地理院地図Vector」をクリックすると見られます。

【参照】千葉県南房総市御子神  
【参照】小室門院元子内親王(№70)

(2)大普賢岳(だいふげんだけ、奈良県吉野郡天川村)

大普賢岳
奈良県吉野郡天川村(地図マピオン)

普賢菩薩が辰年・巳年の守り本尊であることから、三浦芳聖は「辰年または巳年の大物」と解釈している。国内唯一の地名。

松良天皇は、正平19年(1364)甲辰年のご降誕ゆえ、この大普賢岳を串呂起点とし、最晩年のお住まいである「萬松山大通寺薬師堂」を鑑る視点での神風串呂です。

【参照】八尺鏡野と正善との神風串呂 
【参照】『大普賢岳- Wikipedia』
【参照】◎普賢菩薩/辰年・巳年の守り本尊

(3)一色町(いっしき町、西尾市)

西尾市一色町
愛知県西尾市(地図マピオン)

一色(いっしき、いしき)は、一色田(荘園で年貢のみ納めればよい田地)に由来する荘園地名ですが、串呂哲学では「彼と之とは同じ」の意味だと云われ、重要串呂線上に入る地文。

(4)萬松山大通寺薬師堂豊川市御油町西沢5

大通寺薬師堂
豊川市御油町西沢5(地図マピオン)

萬松山大通寺薬師堂(ばんしょうざん だいつうじ やくしどう)は、松良天皇が落飾剃髪されて成龍法皇となられ、入られた薬師堂。青木文献には、松良親王は「薬師寺建立の開基なり」と記されてあります。

中西久次郎著『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』(15頁)より、松良天皇に関係した箇所を抜粋します。( )内は、口語の書き下し文です。

寛成親王皇子松良親王三洲五井美吉原落給薬師寺建立開基成成龍号給成龍応永二十四年五月御坊崩
(寛成親王の皇子松良親王は三州五井美吉原に落ち給う。薬師寺建立の開基なり。成龍と号し給う。成龍は応永二十四年五月、御坊に崩ず)

  松良親王 五井御坊塚ニ納ム

青木文献(別名千種文献)とは、豊川市御油町欠間の中西家に伝わる、南朝忠臣千種忠顕の子孫「青木平馬」が応永30年(1423)と31年(1424)に書き残した覚え書のことです。

【参照】松良天皇(正良) 
【参照】大通寺(東三河を歩こう)

(5)浦川(うらかわ、静岡県浜松市天竜区佐久間町)

佐久間町浦川
静岡県浜松市天竜区佐久間町(地図マピオン)

浦川は、川浦に同じ。「三浦」の諺文。川を横にすると「三浦」となる。

(6)黒法師岳(くろぼうしがたけ、静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方)

黒法師岳
静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方(地図マピオン)

松良天皇が落飾され萬松山大通寺薬師堂に入られ、墨染めの衣を纏って成龍法皇となられたことを表わす。国内唯一の地名。

黒法師岳は、静岡県浜松市と川根本町の境界にある山。南アルプス深南部の山の一つ。標高2,068m。

(7)田代(たしろ、静岡県静岡市葵区)
三浦芳聖の母・元子様の実家や良玄法親王が開基された「宮崎山伝正院」の住所が「愛知県岡崎市明見町田代」です。田代は母の城の意味。

(8)和田(わだ、山梨県南巨摩郡身延町)
和田は松良天皇の符号。他の「和田」とで和田二串の確定立証の神風串呂を構成している。

【参照】和田について

(9)大崩(おおくずれ、山梨県南巨摩郡身延町)

身延・大崩
山梨県南巨摩郡身延町(地図マピオン)

大崩は
(1)戦に敗れて、総軍が退却すること。散々な負け戦であること。
(2)土砂などが大きく崩れること。また、そのような場所や、そのような場所に付けた地名。国内二ヶ所の地名。

また、崩は、天皇の死をいうことから、串呂哲学では、大崩は、天皇の崩御を表わす地文でもある。ここでは、萬松山大通寺薬師堂での生活を最後に松良天皇が崩御されたことを表わす。下記を参照ください。

元々は中国起源の語であり、『礼記』曲礼下篇に「天子の死は崩(ほう)と曰(い)ひ、諸侯は薨(こう)と曰ひ、大夫(たいふ)は卒(そつ)と曰ひ、士は不禄(ふろく)と曰ひ、庶人は死と曰ふ」とある。
『ウィキペディア』崩御

千葉県安房郡鋸南町大崩
静岡県静岡市駿河区石部大崩海岸
宮崎県延岡市北方町上鹿川大崩山
富山県南砺市大崩島

(10)立野(たちの、山梨県大月市梁川町)
大崩に同じ。萬松山大通寺薬師堂での生活を最後に松良天皇が崩御されたことを表わす。野は、野辺送り(遺骸を埋葬地または火葬場まで運び送ること)から来ている。立つは「旅立つ」から来ている。

この他に逝去を表わす地文に「入野」「舟入」「野辺」などがある。

(11)和田(わだ、相模原市緑区佐野川)
和田は松良天皇の符号。他の「和田」とで和田二串の確定立証の神風串呂を構成している。

(12)野辺(のべ、東京都あきる野市)
大崩に同じ。萬松山大通寺薬師堂での生活を最後に松良天皇が崩御されたことを表わす。野辺送り(遺骸を埋葬地または火葬場まで運び送ること)から来ている。

この他に逝去を表わす地文に「入野」「立野」「舟入」などがある。

(13)南元宿(みなみもとじゅく、埼玉県さいたま市桜区)
南朝の元子姫(小室門院)の御所・行在所を表わす。

(14)元町(もとちょう、埼玉県さいたま市浦和区)
小室門院元子内親王を表わす。

(15)神立町(かんだつまち、茨城県土浦市)
大崩に同じ。萬松山大通寺薬師堂での生活を最後に松良天皇が崩御されたことを表わす。立つは「旅立つ」から来ている。国内唯一の地名。

(16)天神(てんじん、茨城県かすみがうら市宍倉)

東京都天神
茨城県かすみがうら市宍倉(国土地理院地図)

天皇を表わす。天神地祇(てんじんちぎ)の天神で、天津神(あまつかみ・天孫)をあらわす地文。リンクの地図は右上の「地理院地図Vector」をクリックすると見られます。

『ウィキペディア(Wikipedia)』天津神・国津神 

(17)不動(ふどう、茨城県鉾田市造谷)

不動
茨城県鉾田市造谷(国土地理院地図)

松良天皇が、萬松山大通寺薬師堂での生活を最後に他の場所に移動しないことを表わす。終焉の地の意味に解する。

松良天皇は、富士谷の御所でご降誕され、三河の御所、富士谷の御所、新潟県長岡市寺泊、静岡県浜松市天竜区の京丸、豊川市萩町、豊川市御油町など、各地を移動されたので、最終の地である萬松山大通寺薬師堂を「不動」と昭示されたものと思います。

福島県二本松市不動
宮城県石巻市不動町

4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

「御子神」-「大普賢岳」-「一色」-「卍萬松山大通寺薬師堂」-「浦川」-「黒法師岳」-「田代」-「和田」-「大崩」-「立野」-「和田」-「野辺」-「南元宿」-「元町」-「神立」-「天神」-「不動」

この串呂は、松良天皇が、萬松山大通寺薬師堂での生活を最後に、崩御されたことを昭示しています。「大崩」「立野」「野辺」「神立」と崩御を表わす地文が四ヶ所もあります。和田二串の確定立証の神風串呂です。

実は、松良天皇は、ご命日とされている、応永24年(1417年)5月24日を最後に、萬松山大通寺薬師堂から行方不明になられまして、どこでお亡くなりになったのか分からなかったのです。(三浦芳聖)

神武、応神、後嵯峨、後村上、松良、五皇一体の再現・八幡大明神としてこの世に派遣された三浦芳聖は、松良天皇の生涯の歩みを明確にするため、松良天皇の人生の追体験をさせられたようです。

大東亜戦争中の或る時、大政翼賛会愛知県支部の錬成部長であった三浦芳聖が、愛知県西尾市平原町の最厳寺(さいげんじ)で、宿泊錬成中、夜中に悪夢を見て目が覚めると「背中に刃物でえぐられたような傷(現象化した霊障)」が出来ていて、膿が出て治癒するのにかなりの期間を要としたと述べています。

また戦後になって、三浦芳聖が愛知県高浜支部に出張中、地元の老婦人Kさんが、家に伝えられた古文書を持参して「何が書いてあるか見てほしい」という依頼があったので見ると、

その古文書には、「南朝の皇子を殺害したる功により士分に取立てられた」という内容が書かれてあり、松良天皇は、愛知県西尾市平原町の最厳寺に出張中、高浜市におびき出されて、衣浦湾に於て殺害されたことが判明したのです。地元の老婦人Kさんの出現により殺害者の「家名と家紋」まで判明しています。

三浦芳聖は、その後、霊示と神風串呂で解明し、「松良天皇は、平原の最厳寺に行かれて此処で捕らえられ、三河高浜で暗殺され衣浦湾に投ぜられたのであります。」と述べています。(同上著250頁)

三浦芳聖は、この事を表わしている地名が「福井県大飯郡高浜町和田」だと述べています。この地名を解読すると、下記のようになります。

大飯郡=大きく、反する(反逆・弑逆)。
高浜町(場所)。
和田(松良天皇の符号)


🟡串呂を表わす地名  滋賀県彦根市「甘呂町」、串呂=甘呂=甘露の神諭

三浦芳聖著「弥勒登極(登玉)の神風串呂」(昭和43年9月8日発行)

💟串呂クシロ(かんろ)とは

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢もといせ伝承で皇祖神・天照大御神が各地を巡行じゅんこうしながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢伝承地と巡行ルート(「幻の邪馬台国・熊襲国」より引用)

元伊勢クシロは、皇城守護こうじょうしゅご結界けっかいのことだといわれて来ましたが、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

神皇正統しんのうしょうとう嫡皇孫ちゃくこうそん三浦芳聖みうらよしまさ」が、生涯の精魂せいこんを込めて解明した神風串呂によって、「元伊勢クシロ」とは、皇統正史こうとうせいしを我が国の国土に埋め込んだ地文学・神風串呂であることが判明したのです。

神皇正統・三浦皇統家を昭示する神風串呂
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第一章)

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問(皇霊学)が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

神風串呂は、地文ちもん(地名)を研究することで天地神明の存在を認識することのできる神道皇霊学しんとうこうれいがくで、真日本国再建のために皇祖神・天照大御神によって構築されました。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神・天照大御神からの神妙なる息吹を体感体得たいかんたいとくすることができるでしょう!

串呂主宰神かんろしゅさいしん(天照大御神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助てんゆうしんじょにより日本民族本来の力を発揮はっき出来るようになります。

🔴皇大神宮内宮(大御神)の嫡皇孫は三浦佐久の子孫(三浦皇統家)である。

(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第七章)

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に、無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


🎀元伊勢伝承とは

元伊勢伝承の皇祖神・天照大御神の各地巡行は、神風クシロ構築の旅であり、各地の産土神うぶすなしん地霊ちれい)に神風クシロ構築計画への協力を呼び掛ける遊説ゆうぜいでありました。元伊勢クシロは神風クシロです。天照大御神が、伊勢地方にお鎮まりになったのは、串呂の超重要起点(基点・根拠地)をここに置くためだったのです!


🟢串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。


🔴神風串呂を学びましょう!


🟢後醍醐天皇の皇位を継承したのは誰かについて、歴史資料を示し、さらに串呂で証明した串呂哲学の概説書かつ神風串呂の入門書!


💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
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💟開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道
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🟡情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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次号(№91)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会 
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串呂哲学研究ノート(鈴木超世志)
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