長慶院法皇(ちょうけいいんほうおう)
1、概説・生涯の歩み
南朝副統(吉野朝)第98代の天皇。第51世、諱は寛成(ひろなり・ゆたなり)。玉川宮・長慶院法皇、覚理、金剛心院皇夫大士。興国3(1342年)壬午年11月15日の満月の日に降誕したようだ(「芳花鶴水園の聖地」)。
神風串呂上の符号は「月」(愛知県北設楽郡東栄町)で表わされる。
御父・後醍醐天皇第八皇子義良親王(副統後村上天皇)。母、嘉喜門院(関白二条師基猶子)、実は赤松氏三女玉己姫(青木文献)、春子の局(富士古文書)。
三浦芳聖は、『長慶院寛成親王の御母は「二条関白の女」となっていますが、実際は赤松氏範の女であります・・・』と述べています。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』279頁)
【参照】三浦芳聖伝 58、長慶院法皇の母の名は?(№181)
興国3(1342年)壬午年8月13日、愛知県豊川市御油町(五井美吉原、隠沢城全柵「天皇山明燈院」)に於てご降誕。6歳まで隠沢城全柵「天皇山明燈院」に居城。(青木文献)
山口保吉氏は、興国3(壬午)年11月15日降誕と記している。(『芳花鶴水園の聖地』71頁)
三河吉野朝の仙洞御所の住所が「望王里」と名付けられた所から見ると長慶院法皇の降誕日は望(もち)の日すなわち15日が正しいと思います。
正平2年(1347年)明燈院の細川貞海和尚と共に吉野に上り太子の位に就任。(青木文献)
長慶院法皇は、10歳の正平6年(1351年)正月から正平11年(1356年)まで足掛け6年甲斐の隠城(富士谷)で教育を受けています。(五條文書)
正平6年(1351年)正月、甲斐の隠城に、尉衛吉見頼武侍講菅原為通外十士を従えて御潜行。到る正平11年(1356年)まで御駐蹄。
正平11年(1356年)以後、三河御所(御津町御馬長床)に行在。
吉野で皇太子に就任した数年後に、吉野宮から三河御所宮(御津町御馬長床)に来られてお住まいになり、覚理法皇となられ明燈院を望理原に移し錦門御堂(王田殿)にお住まいになられました。
正平22年(1367年)、弥勒元年。
三河ではこの年を弥勒元年と称す。(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』52頁)・・・三河の国で降誕した吉野朝の長慶天皇践祚の年か?
後村上天皇に院政の可能性あり。
正平23年(1368年)3月11日、南朝副統(吉野朝)第97代後村上天皇崩御され、3月23日、寛成皇太子即位(青木文献)(正平23年ー日本史蹟)。
正平23年(1368年)3月23日、興良親王践祚。(三浦芳聖・大著142頁)
正平23年(1368年)長慶院法皇、吉野の朝廷を熈成親王に任せて三河に移り、南朝正統の皇子を守護することに専念せられることになった。後醍醐天皇の皇女の懽子内親王も来国し、三河吉野朝の基礎は確立する事となった。
(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』2頁)
建徳3年(壬子/1372年)正月、長慶院法皇「皇弟熈成親王を立てて、皇太弟となす。後村上天皇第二の皇子なり。」(三輪義熈『長慶天皇紀略』48頁)
三輪義熈著『長慶天皇紀略』の中に、長慶院が、吉野朝と富士谷御所の両拠点を構え、皇弟熈成親王と共闘計画を立てたことが書かれています。
建徳三(壬子)年は西暦1372年です。皇弟熈成親王が皇太弟に就任した時期は、『ウィキペディア』後亀山天皇では、正平23年/応安元年(1368年)で、4年の食い違いはありますが、
上記は、吉野朝廷(副統)と富士谷御所(正統)の両方に拠点を置いてやって来たこれまでの方針を踏襲し、富士谷御所にも副統の長慶院が表に立つという方針が加わった事になります。
内伝上皇・・・守永上皇(尊良天皇一宮、後醍醐天皇猶子)
内伝天皇・・・興良天皇(宗良親王王子)、皇后小室門院
副統天皇・・・熈成親王(吉野)、長慶院法皇(富士谷)
正平23年(1368年)3月11日、南朝副統の後村上院が亡くなり、また同年7月21日、新田義貞の三男義宗が戦死し、翌正平24年(1369年)には、楠木正成の三男正儀が三代将軍に立った足利義満に降伏するなど南朝の大受難期であったため、長慶院は、内伝の天皇では求心力に欠けると考えたのではないかと推察しています。
文中2年(1373年)、山名氏春来り犯すに及び、天皇位を熈成親王に譲りて、紀州高野に避け給ふ。(日本史蹟)
文中2年(1373年)春半ば、長慶院法皇、吉野朝の皇位を後亀山天王に譲る。(『後太平記』)
文中2年(1373年)5月26日、内伝の松良天皇践祚。10歳。(三浦芳聖・大著145頁)
文中2年(1373年)8月、賊将山名氏春南山を犯し奉る。長慶天皇難を避けて紀州高野山に幸せさせ給ひ、御飾りを落(おろ)して覚理法皇と称へさせ給ふ。(日本史蹟)
文中3年(1374年)1月21日、長慶院法皇、吉野朝の皇位を熈成親王に譲る。(『長慶天皇紀略』48頁)
文中3年(1374年)11月、長慶院法皇、吉野朝の皇位を熈成親王に譲る。(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』37頁)
内伝の天皇・正良親王(当時11歳)の養父・摂政となり、三種の神器を継承した北陸朝廷の継承者小室門院元子内親王の後添え皇夫となったくらいですから、内伝の天皇に関する極秘事項をよく承知しておられた事と思います。
それは、自ら定めた長慶という院号に内伝の天皇(守永親王)を尊重する意味が込められているのを見れば明らかです。
長慶とは、「長=なが=永(守永)=良(興良・松良)を慶賀する」という意味ですから。
こうした状況の中で、文中2年(1373年)、内伝の天皇・興良親王が、遠州秋葉城(静岡県浜松市天竜区)の戦いに敗れ落城後、逃走中に今川氏の手の者に捕らえられ、京都に連れ去られるという事件が起きたので、
長慶院は、文中3年(1374年)内伝の天皇・正良親王(当時11歳)の養父・摂政となり、太上天皇の尊号を蒙り、小室門院の後添え皇夫となりました。(三浦芳聖・大著142頁、144頁)
文中3年(1374年)1月21日、松良天皇の摂政となり太政天皇の尊号を蒙る。
富士の隠れ城に行在中の小室門院元子内親王の後見(後夫)となり、神皇正統第99代松良天皇の養父となる。(三浦芳聖・大著144頁)
🔴天授元年(1375年)、伊勢神宮参拝。御鏡を拝受して天授と改元。
天授2年(1376年)、愛知県豊川市国府町に王田殿を建立し、小室門院と行在。(青木文献)
天授3年(1377年)、足利氏の崩壊作戦で畠山基国が叛き、吉野から楠正儀も天授三年と同四年再度来援したが、信州勢の援軍のため南軍は十重、二十重の状態となり多勢に無勢終いに天授五年三河吉野朝は崩壊した。
(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』2頁)
天授4年・永和4年(1378年)、落飾法衣を着し諸国行脚に出立。(後太平記)
三河吉野朝崩壊。長慶院法皇、小室門院と富士谷に移る。(藤原石山)(長慶天皇紀略)
天授5年(1379年)8月15日、摂津國浪花港より、海路伊勢に渡幸。9月5日、前帝長慶院、皇太后と陰に富士谷に潜行。(長慶天皇紀略)
天授5年(1379年)9月10日、「国賊退治」の院宣下る!
天授5年(1379年)9月20日、後醍醐天皇皇女・宣政門院懽子内親王が玉川宮で長慶天皇の身代わりとして自刃され長慶門院と尊称した。
(和歌山県九度山町明野宮の伝説・藤原石山)。
懽子(かんし・よしこ)内親王。
天授5年(1379年)9月、
愛知県豊川市八幡町の「西明寺」に伝えられた寛成親王(長慶院法皇)の位牌が「金剛心院皇夫大士」となっていることから、実質的には小室門院元子内親王が三種の神器を継承した日嗣の御子(天皇)だったようだ。
天授6年(1380年)1月6日、青木和田尉盛勝戦死。和田城(三河国)落城。(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』)
天授6年(1380年)5月9日、楠正儀三河赤坂落合城の合戦で戦死、法名「明徳院光全大士」51才。(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』)
弘和元年/永徳元年(1381年)10月に宗良親王の私撰和歌集を准勅撰集とした(『新葉和歌集』)。また同年、『源氏物語』の注釈書である『仙源抄』を著している。(『ウィキペディア』長慶天皇)
弘和3年(1383年)10月27日付の綸旨が在位を確認できる最後の史料と目され、この後程なく弟の東宮(後亀山天皇)に譲位したと考えられている。(『ウィキペディア』長慶天皇)
元中2年(1385年)9月10日宸筆御願文あり。紀伊の天野行宮に於て丹生明神に戦勝を祈願。「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めた。
譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があり、元中2年/至徳2年(1385年)9月「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めたが[注釈 7]、翌元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消している。(『ウィキペディア』長慶天皇)
元中8(1391年)年頃には後征西将軍宮・良成親王でさえ、上皇の所在がわからなかったという。(五条家文書)
応永16年(1409年)年秋、崩御(67歳)、河野左衛門尉法皇を兵庫県播州西山(兵庫県加西市青野町)に葬る。
松良天皇三州五井一本木納遺品為陵。(三浦家系譜)
御陵は、御尊体三州五井一本木万福寺跡(愛知県豊川市八幡町上宿の船山古墳)。(青木文献)
船山菩提陵(ふなやま ぼだいりょう)は、応永18年(1411年)小松天皇37回忌・長慶院法皇3回忌に松良天皇が制定した菩提陵で、松良天皇の隠棲地「萬松山大通寺の薬師堂」から見渡せる位置にあります。俗称「天皇山」「船山」。
この菩提陵は、船山古墳という古代古墳跡を利用して建立されたものであり、この船山古墳の後円の部分が上宿(うえじゅく)神社=天皇神社で、小松天皇と長慶院法皇の二基の墓石が残っています。
地元では春秋二季「天皇神社」の幟旗を掲げて祭礼を行う慣例になっていましたが現在はしていないようだ。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』143頁)。
天皇山(船山御陵)を囲繞して修験宗十三ヶ寺ありしを証する古帳簿を保有す。(山口保吉『三河吉野朝の研究』34頁/山口究宗堂/1940年)
【参照】船山古墳(愛知県豊川市八幡町上宿33)。
上宿(うえじゅく)は、神宿(かみじゅく)の諺文。地元では、この古墳(丘陵)は平安朝時代に三河守であった大江氏が姫の遊場に築造したものと伝説しています。(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』143頁)。
大正15年(1926年)10月21日に皇統に加列される。
宮内庁の制定した御陵は、京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町の嵯峨東陵(慶寿院跡)。
2、系譜
【三浦皇統家 系図】
後醍醐天皇
-尊良天皇-興国天皇-小室門院¬
-宗良親王――――――小松天皇-松良天皇-大宝天皇-----三浦芳聖
-義良親王――――――寛成親王-綾子皇后-大宝天皇
富士古文(『長慶天皇紀略』など)
長慶院法皇(寛成親王)
-勝良親王 早世 母小室門院藤原玉乃江、藤原前関白経家之三女也
-尊良親王 上野宮 母玉子局藤原前関白師基之五女也
-梅子内親王 梅宮、後亀山天皇皇太子小倉宮廣成親王室
母皇后小室門院
-正良親王 立後亀山天皇之皇太子、南北両朝講和後落飾、
号尊聖法親王、諡教尊大僧正 母同上
-元良親王 称川上大和守秀信
母、桜姫、新田相模守義宗之女也
-松三親王 称宮下山城守正信 母、同上
-竹三親王 称宮下河内守良信、母、同上
-梅三親王 称小佐野和泉守景信、母、同上
-玉子内親王 落飾、号禅心尼、母、小室門院
-山口親王 早世、母、玉子局
-菊叟法親王 幼名菊王丸、母、若桜姫、
和田太郎左衛門尉忠盛之女也
3、西山聖地について
三浦皇統系に伝承される、長慶院法皇の終焉の地とされる「播州西山」については、下記を参照ください。
4、長慶院法皇の神風串呂
長慶院法皇の神風串呂は、こちらをご覧下さい。
5、青木文献
(長慶天皇に関する部分のみ抜き書き)
青木文献(別名千種文献)とは、愛知県豊川市御油町欠間の中西家に伝わる、南朝忠臣千種忠顕の子孫「青木平馬」が、応永30年(1423年)と31年(1424年)に書き残した覚え書のことです。(三河吉野朝の研究書『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』中西久次郎、家田富貴男・1940年)
長慶天皇
諱寛成後村上帝第一子也未詳出所正平二十三年三月後村上帝崩御天皇即位
於行宮
薙髪法名覚理号長慶院法皇崩王田殿天授五年九月二十日法名金剛心院皇夫
大士
寛成親王妃
檜御前 王田淵馬込川南ニ崩御
寛成親王ノ御馬 弓引之松ニ納ム
寛成親王金剛心院皇夫大士
天授五年九月二十日崩御
青木和田尉盛勝三河国王田淵王田天神御祀
赤松氏三女玉己寛成王子母五井美吉原隠沢城口全柵天皇山明燈院明頓院二寺有明燈院於玉己女寛成王子生給康永壬午元年八月十三日隠沢於御年六歳迄居城明燈院細川貞海和尚共吉野上太子位就給数年後吉野宮下三州御所宮在位覚理法皇成望理原於明燈院移錦門御堂住給東西四百五十間南北五百三十間王地南檜殿北長勝寺西高前寺東馬込殿成
長慶院法皇崩御 青木和田尉盛勝王田天神祀 御尊毛納王田天神
御尊体五井一本木納萬福寺
寛成親王妃檜御前檜殿崩御藤原氏四女檜姫
馬込女竹本与四郎二女也寛成親王御子
義良国仁成良時仁
義良国仁王北畠共落陸奥成良王細川共落四国時仁王新田共落加賀
寛成親王皇子松良親王三洲五井美吉原落給薬師寺建立開基成成龍号給成龍応永二十四年五月御坊崩
寛成親王息女綾姫宮路左太夫遠洲光明寺村落給
6、長慶院命名の由来
三河国の長慶院と長慶寺
卍山長慶院は宝飯郡国府町大字国府字印辺にありし御堂にして。後醍醐天皇を斎き祀れる豊川天王社と。後村上天皇を斎き祀る兎頭大明神並に香華院観心寺の貫線上に創建遊ばさる。文中二年五月八日御生母崩し給ひ御不例に依りて。御弟宮熈成親王に御譲位の上只管両天皇並に御母為菩提。宗風線呂の浄地を撰んで御供養寺を建立遊ばされ長慶院と号し給ふ。依て長慶院法皇と尊称し奉る。
(「芳花鶴水園の聖地」43頁~44頁/山口保吉/山口究宗堂/1943年)
御堂山観心寺(蒲郡市)ー⛩兎頭大明神(蒲郡市相良町)ー卍山長慶院(国府町印辺)ー⛩豊川天王社(豊川市千歳通り)
当国内に長慶寺五ヶ寺あり。杉山には布金山長慶寺あり。金沢には吉祥山長慶寺あり。当古には富当山長慶寺あり。岩倉には吉谷山長慶寺あり。六木には六木山長慶寺ありて。宗風線路を正しうして其の真相を物語るところなり。三河国に鎮座し給うが故に斯くも多くの長慶寺が存するのである。これ天地に連なる圣にして孚の義なり十分の考証を要するところなり。
(「芳花鶴水園の聖地」44頁/山口保吉/山口究宗堂/1943年)
布金山長慶寺(豊橋市杉山町字孝仁)
吉祥山長慶寺(豊川市金沢町藤弦)
富当山長慶寺(豊川市当古町東新井)
吉谷山長慶寺(豊田市岩倉町吉ヶ入)
六木山長慶寺(豊田市松平志賀町横)
吉谷山長慶寺(豊田市)-⛩兎頭大明神(蒲郡市)-布金山長慶寺(豊橋市)
布金山長慶寺(豊橋市)-御津府御所-卍山長慶院(国府町)-船山御陵-上賀茂神社(萩町)-萩原(岐阜県瑞浪市稲津町)-萩原町(岐阜県下呂市)-萩原(富山市)-法羅陀山長慶寺(富山市)-打呂(石川県珠洲市宝立町)-宝立山(石川県珠洲市)
(「芳花鶴水園の聖地」山口保吉/山口究宗堂/1943年)
7、古本本朝皇胤紹運録
上記の「古本本朝皇胤紹運録」では、義良親王について「南方偽朝に於て君主と称し後村上天皇と号す」と、吉野朝は南朝の正統の朝廷ではなく、陽動作戦上の見せかけの偽朝(副統・前衛・代理)であると看破している。
寛成親王については「南方に於て自立、長慶院と号す」と皇位に付いていた事を認めているが、熈成王については、「熈成王、吉野より降りて後、太上天皇の尊号を蒙(こう)むる」と、親王でもなく、皇位に付いていた事を認めていない。
以上のことから、元中9年/明徳3年(1392年)の「明徳の和約」に於て、武家方(足利義満)は、吉野朝(熈成王)が南朝正統の天皇でない事を承知の上で、世間を騙すための大芝居を演じた事が分かるのである。
(三浦芳聖、藤原石山)
吉野朝が偽朝で北朝が正統なら「講和する」必要はないのであり、偽朝であるの吉野朝を世間には正統の朝廷と見せかけて南北講和という大芝居を演じたのである。
元中9年(1392年)の明徳の和約が進められていた時期、南朝正統家の大黒柱であった「長慶院法皇」は、味方をしてくれる武士を募るため、御鏡を奉持して全国を遊説していた。
現在と違って連絡がうまく行かず、生死のほども不明であったため、その間隙をついて、後亀山院とその取巻きが講和を強行したと思われる。
【参照】『ウィキペディア』本朝皇胤紹運録
8、神の鏡はただここにます
長慶院法皇が、宝鏡を奉戴していた事を昭示する御製の詳しい解説付きのサイト「1分で読む日本の名歌(20) 長慶天皇 ~ 星うたふ聲にもしるし」が有りましたのでご紹介します。
関連個所のみ引用させて頂きました。
9、三河吉野朝とは
インターネットで「三河吉野町」について検索していたら、下記の記事が出ていたので転載させて頂きました。
豊川市の「市勢要覧 昭和28年版」からの引用だそうで、よくまとまっています。
10、月と長慶院法皇
山口保吉著『 芳花鶴水園の聖地』71頁に、興国3(壬午)年11月15日の満月の日に降誕の故を以って長慶院法皇を「月」で表わす。また、同頁に午年生まれの守り本尊が月天子(勢至菩薩)であることから、長慶院法皇を「月」で表わす。と出ています。
青木文献(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』)では、興国3(壬午)年8月13日生まれと記録されていますが、長慶天皇の仙洞御所が「望王里原」(望理原/現在の豊川市森町付近)にあったことから、15日が正しいのではないかと思います。
望=満月=15日。
生まれた月は11月か8月か、どちらかは分かりません。
「月」は、全国で2ヶ所しかない地名で、神風串呂では、愛知県北設楽郡東栄町「月」は、南朝副統の天皇であった長慶院法皇を表わす地文です。
長慶天皇は、小室門院元子内親王(後醍醐天皇の曽孫で三種の神器を内伝に継承した実質的女性天皇・南朝正統99代小松天皇皇后)の後添え皇夫ですので、女性天皇=太陽、後添え皇夫=月という原理です。
🟢神風串呂では、下記の様に明瞭です。
西山聖地(長慶院法皇崩御埋葬地/兵庫県加西市青野町)-御在所山(三重県)-月(東栄町)
青野町の青は「主+月」です。
(西山の主は月であることを表わす地文)
神風串呂では、神皇正統の天皇は天津日嗣ゆえ「大日」「大日山」「日向」などで表わされ、皇子は「星」で表わされる。睦仁親王を表わす地名は、岡山県 井原市「美星町明治」です。
月という地名は、現在2ヶ所確認しています。
🟢静岡県浜松市天竜区「月」
山口保吉 著
『三河吉野朝の研究』 山口究宗堂 昭和15年
『芳花鶴水園の聖地』 山口究宗堂 昭和18年
中西久次郎・家田富貴男 共著
『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』
💟串呂(かんろ)とは
神風串呂(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。
元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂(カミカゼクシロ)のことだったのです。
串呂は、内伝極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。
地名(地文)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。
神風串呂(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!
串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺の末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。
神風串呂(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠の戦国時代(120年以上)に無辜の民が味わった塗炭の苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。
🎀元伊勢伝承とは
元伊勢伝承の皇祖神・天照大御神の各地巡行は、神風クシロ構築の旅であり、各地の産土神(地霊)に神風クシロ構築計画への協力を呼び掛ける遊説でありました。元伊勢クシロは神風クシロです。天照大御神が、伊勢地方にお鎮まりになったのは、串呂の超重要起点(基点・根拠地)をここに置くためだったのです!
🟢串呂哲学の理解を助ける予備知識
始めての方は、下記の記事を参照してください。
💟皆様方の御支援に感謝しています!
🔴神風串呂を学びましょう!
💟串呂文庫
🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)
🟡バックナンバー(総合)
🟠情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。
ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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