三浦芳聖伝 3、恵まれた幼年時代(串呂哲学研究ノート№115)
恵まれた幼年時代
1、村一番の幸福な日々
三浦芳聖の幼年時代は、降誕日の明治37年(1904)9月17日から、父親が病気で急死した大正2年(1913)6月30日までの、およそ8年10ヶ月間である。三浦芳聖の著書からの引用を織り交ぜて記述します。
この期間の三浦芳聖の生活は、祖父母、両親、兄、弟、妹の家族に恵まれ、額田郡豊富村(岡崎市牧平町)の大自然の中で、経済的に何一つ不自由のない恵まれた毎日でした。
その中で特筆すべき事項としては、一番に母親の「元子」から尊良精神を叩きこまれて成長したことを挙げることが出来ます。
2、尊良精神を叩きこまれる
尊良精神とは、『太平記』巻18の6「金崎城落つる事ならびに一宮御自害その外官軍切腹の事」に詳述されている「金崎城の落城に当たり、尊良親王が新田義顕ほかの忠臣らと共に従容として見事なご自害をとげられた事績に因み、「いつでも笑って死ねる精神」を指すようだ。
この事績については、「北陸朝廷の存在を昭示する神風串呂 (№20)」の「3、尊良上皇以下、官軍将兵の壮烈なる最期」や、「東山天皇(尊良) (№23)」の「4、金ケ崎城で古今無双の壮烈なるご自害」で詳述したので参照して下さい。
母「元子」の五ヶ年半にわたる熱祷祈願によって、芳聖が、遠祖・尊良親王降誕600年目の記念日に降誕したことは「三浦芳聖伝 2、尊良親王の再現(№114)」で述べましたが、この熱祷祈願は、それ自体が素晴らしい胎教であったと思います。
芳聖は、数えの3才の時から、母「元子」から、必ず一日に一度は「そなたは苟も後醍醐天皇第一皇子尊良親王様の御生まれ替わりであります。尊良親王様という方は、『太平記』にあるように、延元2年3月6日、越前敦賀の金ヶ崎城において、宮様でありながら従容として壮烈無比の最期を遂げられ・・・」と、この尊良精神を叩き込まれて成長しました。
また、年に一度は、母「元子」の里「宮崎村明見」に連れて行かれ、宮崎山伝正院の尊良親王を陰祀せる太子堂前でもこの尊良精神を叩き込まれました。
三つ子の魂百迄ということわざの通り、この「尊良精神」が、三浦芳聖の生涯を貫く誇り高き精神と強烈なるエネルギーの源泉となったことは言うまでもありません。
六百年前の御先祖の降誕日に、一日の狂いも無く生まれてきたという事実は、幼い芳聖の脳裏に計り知れぬ大きな影響を与えたと思います。
3、牧平町マカガイツに転居
三浦家は、明治42年(1909)4月、芳聖が数えで6歳の時に、牧平町マカガイツに新居を建て、今で言えば「ホームセンター」のような販売業を始めました。三浦芳聖の著書から引用します。
芳聖の父「三浦市次郎」は、明治7年(1874)生まれで、東京法学院(中央大学の前身)で学んだあと、数えの31歳で三浦家の家督を相続するや、神皇正統家の将来のために、経済的基盤を確立しようとして、この販売業をはじめたものと思われます。
牧平町マカガイツは、大正2年(1913)7月までの芳聖6歳から10歳までの約4年3ヶ月間の居住地でした。
4、外祖父・河合和助翁の薫陶
芳聖の外祖父・河合和助翁は、明治43年(1910)の秋、牧平大門にある豊富神社のお祭りの日に三浦家に呼ばれてきた時、満6才の芳聖を近くに呼び寄せ、
「聖人は死を安んず、賢人は死を分とす、常人は死を畏る」という教訓を芳聖が記憶するまで繰り返し反復させた上で、『太平記』巻18の6「金ヶ崎の城落つる事」の條を語り、
「我が河合家のご先祖様の尊良親王様は、戦乱の金ヶ崎城で死期に臨んで従容としてご自害遊ばされた聖人だ。あなたはこのご先祖様の生まれ変わりだから、いつでも笑って腹が切れるような立派な人物になりなさい!」と薫陶されたそうだ。
河合和助翁は、20代で額田郡宮崎村の村長に就任、その後、額田郡会議長・愛知県会議員等を歴任し終生公職にあった方で、地域社会から尊敬されていた外祖父からの薫陶は、芳聖の脳裏に、母親から叩き込まれた「尊良精神」をより深く印象付けるものとなったと思います。
5、豊富小学校時代のエピソード
芳聖は、明治44年(1911)4月、豊富小学校に入学しました。
三浦家は、大宝天皇が享徳3年(1454)に牧平大門に居住してから450年以上続いた旧家で、いわば庄屋のような存在(実は神皇正統家)であったので、三河の山奥ではありながら大変格式を重んずる家柄でありました。
そこで三浦家の子供たちは、豊富小学校時代、始業式や祝日などの「式典の日」には、必ず袴を着用することになっていました。
ところが、当時、袴を着用して登校する児童は少数で、目立つのできまりが悪いし、友達にからかわれるので、家を出るときには着用して出るが、登校途中に脱いで風呂敷に包んで隠してしまったそうだ。
芳聖は、大変賢い優秀な知能の持ち主だったので、母の里河合家に行っては、女学生であった母の従姉妹にあたる方にせがんで勉強を教えてもらい、牧平時代(小学3年)に、小学校で勉強する内容をすべて習得してしまっていた。
母「元子」から尊良精神を叩き込まれて養育されたので、牧平時代の芳聖は大変腕白で「元気のかたまり」みたいな子供だったようで、牧平町の大自然の中を毎日毎日、散々いたずらして回るので、度々謝罪するのに困った母「元子」は、あらかじめ書いた詫び状を何枚か懐にしのばせていて、被害者宅にその詫び状を渡しながら謝って回ったという。
芳聖の母「元子」は、大変気性のきつい女性だったようだ。それは5ヶ年半観音様に熱祷祈願を籠めて、6百年前のご先祖様の誕生日に、みごとに芳聖を出産したという、この一事を以ってしても、普通凡庸の気性の方ではない事が窺い知れると思います。
従って、子供の躾も真に厳しいものであったようで、例えば、芳聖が「人参は嫌いだ」と言ったところ、来る日も来る日も三度三度、普通に食べられるようになるまで人参のおかずが続いたそうだ。これはほんの一例であるが、芳聖たち三浦家の子供は、こうした母「元子」の徹底した厳しい躾で育てられました。
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串呂哲学研究会 鈴木超世志
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