三浦芳聖伝 30、決死の黄河渡河戦で奮戦(串呂哲学研究ノート№150)
決死の黄河渡河戦で奮戦
1、34歳の芳聖に召集令状
三浦芳聖が、昭和12年(1937年)7月29日付で意見書(東洋平和の大方策)を近衛首相に提出してから約3ヶ月後の同年10月、数えで34歳の芳聖に召集令状が参りました。芳聖が「意見書」で心配していた通り、支那大陸での戦線が拡大して行ったのです。
芳聖は「まさかこの年で召集令状とは!」と驚きながら応召し、健康診断で軍医の前に立つと、医務室の入り口に大きなマスクで顔を隠した男がやって来て、軍医に目配せしたかと思うと、軍医は何も検診することなく、芳聖の背中をパシッと叩き「合格!」と言ったのであります。
この召集令は、相沢中佐事件や226事件の公判闘争など、昭和維新運動に邁進していた皇道派の芳聖を、特別危険な戦地へ追いやって亡き者にしようとする軍部統制派の陰謀が見え見えでした。
時の権力者に不都合な者を危険な戦地へ追いやる軍部統制派の陰謀は、この芳聖のケースに限らず、かなり多数あったと思います。悲しいかな!救い難く恐ろしい軍国日本の現実でした。
2、独立歩兵第11連隊に応召
数えで34歳の芳聖が、陸軍後備役伍長として応召した部隊は、満州国熱河省承徳に設けられた、第26師団に所属する独立歩兵第11連隊でした。
芳聖は、この時、各方面からたくさんお守りを貰いましたが、それらを全部焼き捨て、日の丸の旗に「建御雷神」「日本武尊」と自ら書いてお守りとしました。
熱河省承徳市は現在の中華人民共和国、河北省東北部にあり、北京から西北方約250キロの地点に位置し、当時は満州国の熱河省都でした。
ここに中華民国の軍隊が侵入してきたので戦闘になりました。
芳聖は、分隊長として、敵と2里以上離れた事がない接近した前線で、大変危険な任務に就き、日夜戦いに明け暮れ、南口、居庸関、八達嶺、張家口、天鎮、陽光、聚楽保、大同、豊鎮、平地泉、媛遠、包頭、五原と転戦し、
昭和12年(1937年)10月末日、大同に引き返し、暫らくここに駐留・警備する事になり、12月1日付にて、陸軍歩兵軍曹に昇進、同時に中隊指揮班付「功績係」となりました。(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文55頁)
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