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三浦芳聖伝 1、大台風の中での降誕(串呂哲学研究ノート№113)

🟡初めに

串呂哲学研究会 鈴木超世志

これは日本神界の悠久荘厳かつ遠大なる神計りに基づいて、この世に降誕した日本人、三浦芳聖の伝記である。

三浦芳聖は、神武、応神、後嵯峨、後村上、松良、五皇一体の再現・八幡大明神として神皇正統家に降誕したことを、神風串呂(串呂哲学)を解明することで証明しました。

串呂哲学の創始者の伝記に相応しく、三浦芳聖が解明した神風串呂を織り交ぜて書き記す事とします。

三浦芳聖
還暦頃の三浦芳聖

🔴大台風の中での降誕

1、岡崎市牧平町大門に降誕

三浦芳聖は皇紀2564年、即ち明治37年、西暦1904年9月17日(陰暦8月8日)午前6時、愛知県額田郡豊富村大字牧平字大門(現在岡崎市牧平町大門)26番戸の旧家「三浦家」の三男として降誕しました。

牧平大門
岡崎市牧平町大門(地図マピオン)

父は三浦市次郎・母は三浦もと(通称元子)、幼名は幸喜知こうきち、僧籍名「慶定けいじょう」、戦後の修行時「芳遷ほうせん」。

*三浦芳聖の著書によると、幸喜知と幸喜智の二説があります。降誕地の戸籍を見ないと判別できませんね。😭😥

降誕日前日の9月16日から翌朝にかけて、地元牧平の古老でさえ体験したことの無いという大台風だったので、約450年前に建てられた母屋では、いつ倒れるか分からないので、家族全員米倉こめぐらに避難するという、そのいう状況の中で三浦芳聖は降誕しました。

母(元子)は、16日夜半に陣痛が始まり、大台風が吹き荒れる中での出産で、明け方(午前6時)に三浦芳聖が降誕すると、吹き荒れていた大台風がぴたりと止み、東から太陽が昇って来たというのであります。

氏神さまの白髭大明神(現在は豊富神社)の三抱えもある御神木に一流の「吹流し」が掛かっていたり、脇殿の八幡宮のお扉が開いていたりしたので、誰いうとなく「八幡様がお生まれになった」と一族の方々が語り合ったということです。

(このエピソードは、三浦芳聖に産湯をつかわせてくれた一族の「三浦とみさん」から聞いたものと推察します。)

三浦芳聖降誕地の「愛知県額田郡豊富村大字牧平字大門」は、平成18年(2006年)1月1日 岡崎市へ編入し、同市牧平町大門となりました。詳細は下記を参照ください。

この三浦芳聖降誕時の神風串呂が解明されていますので紹介します。

「神明」-「日出町」-「御前崎」-「卍恵照山日曜院」-「卍楠林山安楽寺庫裏」-「蒲郡北部小学校」-「幼年時代の居住地・牧平町マカガイツ」-「三浦芳聖降誕地」-「出来山」-「産場」-「五軒小屋」-「昼神」-「吹嵐」-「神宮寺」-「川浦」-「豊川」-「日出谷」-「極楽山」-「日出町」

この神風串呂は、三浦芳聖の「降誕地牧平町大門」-「幼年時代、約4年3ヶ月間の居住地・牧平町マカガイツ」-「卒業した小学校」-「4ヵ年半の間、仏道を修めた卍楠林山安楽寺庫裏」-「2年8ヶ月間、住職を勤めた卍恵照山日曜院」の5箇所の居住地を串線する「居住地」五串、「日出」三串の超絶対確証・超実証の神風串呂です。

牧平町大門(愛知県岡崎市)についての詳細は下記を参照下さい。

2、「とみさん」と門人「古沢武雄氏」

三浦家では、代々の産婆役は一族の三浦安五郎氏の妻と決まっていて、三浦芳聖の降誕時には、宝飯郡(豊川市)御津町下佐脇の堀川家から嫁に来たばかりの「とみさん」という方が形ばかりの産婆役をした。

(兄の延治さんの時は、まだ「とみさん」が嫁に来てなかったので、臨時に三浦芳郎家のお祖母さんが産婆役をつとめた。)

この「とみさん」(明治15年一白水星壬午年生まれ)は、昭和25年8月、三浦芳聖を豊川市市田町諏訪林37番地に導いた門人「古沢武雄氏」(通称、禎康・よしやす、大正7年一白水星戊午年生れ)と、男女の違いはあるものの、容貌がともに馬顔で瓜二つであったという。

神武天皇の時は、天富命(あめのとみのみこと)・・・三浦とみさん

神武東征において橿原宮を造営し、阿波国に続いて房総の開拓をした。

応神天皇の時は、武内宿禰(たけのうちすくね)・・・古沢武雄氏

仲哀天皇の崩御を聞いて反乱を起こした麛坂皇子・忍熊皇子兄弟に対し、武内宿禰は皇子(のちの応神天皇)を抱いて南海に出て紀伊水門に至る。そして武振熊(和珥臣遠祖)とともに数万の軍を率い、山背、菟道(宇治)を経て、逢坂(京都府・滋賀県境の逢坂山)にて忍熊皇子軍を破った。

三浦とみさんと古澤武雄氏は、神武、応神、後嵯峨、後村上、松良、五皇一体の再現・八幡大明神「三浦芳聖」が、この世に出現するに当たり、そのお世話係としてこの世に派遣されたというのである。

3、古澤武雄氏の神風串呂

下記は、古澤武雄氏は⛩安房大神宮の天富命であるという神風串呂です。

⛩武雄神社」(佐賀県武雄市武雄町武雄)-「古沢」(和歌山県伊都郡九度山町)-「⛩皇大神宮内宮」-「⛩安房大神宮

『神風串呂』第177号5頁 1970年9月15日

三浦芳聖の門人、古沢武雄氏は、三浦芳聖の降誕時に産湯をつかわせてくれた一族の「三浦とみ」さん(明治15年一白水星壬午年生まれ)に瓜二つであったので、三浦芳聖から天富命(あめのとみのみこと)の再現と言われ、上記の串呂が解明されている。

古沢武雄氏と天富命(あめのとみのみこと)の共通点は、住居のお世話をしたことです。

天富命(あめのとみのみこと)は、境内摂社「下の宮」の祭神である。

安房大神宮
千葉県館山市大神宮(地図マピオン)

4、三浦芳聖降誕地と高千穂神社との神風串呂

三浦芳聖は、神皇正統の皇位継承があったかどうかを鑑定する重要串呂起点である「天子ヶ岳」(静岡県富士宮市)と「三浦芳聖降誕地」(愛知県岡崎市牧平町大門)とを串線すると次の様な神風串呂になると述べています。

『神風串呂』第177号23頁 1970年9月15日

【参照】三浦芳聖降誕地と高千穂神社との神風串呂


🟣バックナンバー総合

🔴情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№112)
🟢次号(№114)

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串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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