三浦芳聖伝 9、東京の学生時代(№123)
東京の学生時代
1、明治法科大学本科に入学
京都での5年間にわたる学生生活を無事に終えた芳聖は、大正12年(1923年)3月、明治法科大学に入学するため上京した。
大正12年(1923年)4月、東京都千代田区神田駿河台にある明治法科大学に入学した芳聖は、東京都文京区本郷にあった恵比寿館に下宿して通学していた。
芳聖は、その頃、28才までに文学博士と法学博士の二つの博士号を取得することを目標に学問に励んでいた。大学では憲法学を専攻した。
芳聖の生活費は京都の専門学校時代に出版した受験参考書『三浦の英語訳学解析法』の印税で賄われていた。
大正12年(1923年)9月1日(土)、この日、芳聖は、経費を節約する為、恵比寿館から墨田区本所の陸軍省被服廠跡地近くにある、あまり費用の掛からない下宿先に引越しをした。
その日は蒸し暑い日で妙な風が吹いており、引越しの道中、芳聖がかぶっていたカンカン帽が風のため墨田川へ落ちた。
そして、やっと本所の下宿先まで荷物を運び終え、引越しを手伝ってくれた仲間と氷水を取って食べている時に大地震が発生した。よりによって引越しの日に地震が起きたのだ。
この関東南部を襲った大地震は、午前11時58分発生、マグニチュード7・9、焼失戸数44万7千百28戸、死者9万9千331人、罹災人口340万余人という日本史上未曾有の大惨事であった。
2、被服廠跡で仮死するも蘇生
当時は殆どの家庭が炭火で煮炊きをしていて、丁度お昼前で食事の用意をしている時間帯でしたので、火事が発生して大惨事になった。
皆が避難していたので、芳聖たちも近くの空き地であった陸軍省被服廠跡へ逃げて行った。すると途中で、相生署のお巡りさんが、抜刀して「被服廠跡へ行け!被服廠跡へ行け!」と叫ぶように交通整理をしていた。
この被服廠跡は広い空き地だったので、その中央くらいにいた芳聖は、ここなら大丈夫と思ったが、皆が次々と荷物を一杯持って逃げて来たので、人と荷物で一杯となり、そのうち荷物に火がついて周囲は火の海となった。
芳聖は、熱風にあおられ煙に巻かれ、そのうち息が苦しくなって窒息しそうになったので、その場に伏せたところ、続々と避難してきた人々の下敷きになって、足を踏まれ頭を踏まれ背を踏まれ、遂に人事不省に陥り仮死した。
9月6日、死体処理に来た係りの人達が、山のようになっていた死体の外側から順次焼却して行った時に、一人だけ芳聖の体に蛆がわいていなかったので、不思議に思って焼くのを後回しにしてくれたお蔭で、芳聖は奇跡的に蘇生して九死に一生を得た。
5日間の仮死状態から奇跡的に蘇生した芳聖は、始めのうち、殆ど目が見えず、全身の皮膚の皮が一枚むけた。目の玉の皮までむけたが、どこも悪い所はなく、翌年の壮丁検査では甲種合格になった。
3、人生観・使命観が一変
この奇跡としか言いようのない蘇生体験によって芳聖の人生観・使命観が一変した。
それまで芳聖は28才までに文学博士と法学博士の二つの博士号を取って学問を以て身を立てようと考えていたが、この蘇生体験によって芳聖の人生観・使命観はそうした世俗的なものから霊性的なものへと大転換した。
当時僧籍にあった芳聖は、自分は「一切衆生済度の為にこの世に生まれて来た菩薩に違いない!」という自覚を得たという。
以後芳聖は、それまで持っていた普通の人生目標を放擲して、新たな大使命を自覚して進んで行くことになる。この時、それが何かは、はっきりと分らなかったが、大きな天与の使命を持ってこの世に生まれて来たことを肌で感じ取ることが出来た。
芳聖をこの世に派遣した串呂主宰神の計画は、芳聖に学問で身を立てることなど望んでいなかった。芳聖を関東大震災に遭遇せしめたのは、蘇生体験によって芳聖の人生観・使命観が一変するのが狙いだったのだ。
4、渥美勝先生に邂逅
明治法科大学で学んでいた芳聖は、震災後のある日、恐らく大正12年(1923年)の秋頃だと思う、不忍の池のある上野公園を散策中、「渥美勝」という一人の聖者に出会った。
表には「神政維新」裏には「国の子桃太郎」と書いた幟旗(のぼりばた)を立て、飴色になった紋付の羽織に、色のあせた小倉の袴をはき、髪を茫々に伸ばした50前後の男が、上野公園韻松亭の廻りの石の上に立ち、行き交う人々を相手に大道演説をしていた。
たまたまそこを通りかかった芳聖が立ち止まってその話を聞いていると、その聖者は「我らこの命を以て何をなすべきか!」と桃太郎のおとぎ話を使って、「日本的生命観」について解りやすく演説していた。
人々は、立ち止まっては去り、又別の人が立ち止まっては去って行ったが、芳聖は、2時間余りこの聖者の話に引き込まれて熱心に聞き入った。又この聖者も芳聖一人に教えを垂れるように説いていた。
5、渥美勝とは
『ウィキペディア』渥美勝から引用する。
渥美勝は、上記にあるように、滋賀県彦根市の生まれで若い時は政治家を志し、東京の一高を出て京都帝国大学独法科の2年まで進んだ。家庭の事情で帰郷し中学校教師をしていたある日、無邪気な児童が歌う「桃太郎」の唱歌に廓然と悟り、日本の古典思想の研究に没頭した。
そこに日本民族の生命観、日本民族の世界史的使命を発見し、その思想を人々に伝えるため上京し、「土工」「人力車夫」「下足番」「映画館の売り子」など現代のアルバイト的な仕事をして最低限の生活費を稼ぎながら、昼間は辻々に立って大道演説をし、夜はお寺やお宮の縁先や墓地などで休むなど住む家さえないという、常人の真似の出来ぬ誠に変った人生を送った。
渥美勝の生涯は普通人からは到底理解されるものではなかったが、その思想・生命観は当時の国家主義者達にはよく知られていた。
【参照】渥美勝についての詳細は下記をご覧下さい。
6、日本的生命観に目覚める
渥美勝の日本的生命観というのは、「古事記」や「日本書紀」に出ている日本の国生み神話や神武天皇の建国宣言に基く、古代日本民族に伝承される生命観を、今日の日本人に分かりやすく説いたもので、日本民族の生命観や建国の理想を世界的にどう展開するかというものだ。
これまで、いわば外来思想と言える「仏教」を主に学んできた芳聖は、渥美勝の大道演説を聞いて、その場で日本的生命観に目覚め、日本の古典を学ぶことの重要性に開眼せしめられた。
芳聖が渥美に出会ったのは、渥美が同志数人と共に大正10年10月から大正12年9月までの約2年間、九州の高千穂で修行をし、大震災の報を聞いて高千穂から東京に帰り、精力的に活動を再開した直後のことである。
そうした渥美勝に、関東大震災で人生観・使命観を一変した芳聖が折りよく出会うというシンクロは、串呂主宰神の計画通りで、渥美勝の説いた「日本的生命観」は、その後の芳聖の思想形成に重要な役割を果たした。
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この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
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神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
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神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
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串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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