白河結城文書・白鹿二年行貞奉執達状(得江文書)
(1)白河文書1
延元元年(1336年)11月12日付けの「尊氏直義以下逆徒追討の事」という表題で「結城上野入道館」(結城宗弘)あてに味方に馳せ参ずるように督促した綸旨で「左中将」(新田義貞)の名前で通達されている。
高氏直義以下逆徒追討の事
先度被下綸旨了去月十日所有臨幸越前国鶴賀津也
相催一族不廻時刻馳参可令誅伐彼輩於恩賞者可依請者
天気如此悉之以状
延元々年十一月十二日
左中将在判
結城上野入道館
本文を書き下し文・口語文にすると、それぞれ次のようになります。
高氏・直義以下逆徒追討の事
さきごろ綸旨を下された。先月十日、越前国の敦賀港(金ヶ崎城)に臨幸中である。一族を相催し時間をかけず(すぐに)馳せ参じ、かの輩(尊氏直義以下逆徒)を誅伐しなさい。恩賞は望みどおり与える。天皇のお気持ちはこのようである。このようにしなさい。以上、通達する。
この越前国鶴賀津(金ケ崎城)から綸旨が発せられた、延元元年(1336)11月12日の時の天皇は東山(尊良)天皇です。従って、この綸旨は、東山(尊良)天皇が出された綸旨ということになります。
(2)白河文書2
延元2年(1337)2月9日には、同じく「結城上野入道館」あてに味方に馳せ参ずるように督促した綸旨が、「右衛門督」の名前で通達されています。
度々被下綸旨了急相催一族可馳参者天気如此悉之
延元二年二月九日
右衛門督在判
結城上野入道館
本文を書き下し文・口語文にすると、それぞれ次のようになります。
「度々綸旨を下されおわんぬ。急ぎ一族を相い催し馳せ参ずべし。天気かくのごとし。これをつくせ。」
「重ねて綸旨を下された。急いで一族を相催し馳せ参ずるべきである。天皇のお気持ちはこのようである。以上。 」
延元2年(1337)2月9日、この時の天皇は、興国天皇(守永)です。
(3)白鹿二年行貞奉執達状(得江文書)
「白鹿二年行貞奉執達状」(得江文書)は、前田旧候爵家が所蔵していた古文書で、白鹿2年(1346)卯月20日付けで得江九郎頼員あてに出された「軍忠書」で、中院右中将の名前で通達されています。現在この文書は、尊経閣文庫に保存されているほか、東京大学史料編纂所に写真が有ります。
白鹿2年(1346)4月20日付けという事は、南朝・興国7年(北朝・貞和二年)で、興国天皇(守永)は、その頃、霊山城(福島県伊達市と相馬市との境)、宇津峯城(福島県郡山市と須賀川市の境)等に入っておられます。
従って、この文書も、延元2年(1337)2月9日の綸旨(白河文書2)同様、興国天皇(守永)が発行された文書という事になります。
この得江文書の重要性は、南朝に興国の年号があるにもかかわらず、白鹿の私年号が用いられている点にあります。(白鹿2年=興国7年=貞和2年)
そして、この白鹿の私年号は、この「白鹿二年行貞奉執達状」の他には京都竜安寺西源院本『太平記』巻第二十五の注記「京方貞和元年乙酉、南方号白鹿元年、同京方貞和二年丙戌南方移正平」に見える以外発見されていないというのです。
白鹿の私年号での綸旨や御教書はたくさん発行されたと思いますが、奇跡的にこの二通が残っているという事です。
【参照】『南朝正統皇位継承論』には、次のように記されてあります。
日本史の盲点を開く『結城文書』
『結城文書』は、白河結城氏の家伝文書で『白河文書』ともいわれているが、時代の変遷に伴う同氏分裂や種々な社会的事情により諸方に分散され、現在後裔の結城錦一氏、結城神社、松平旧伯爵家、伊藤旧伯爵家その他に伝わって居り、既に原本を失い写しだけのものもある。
本古文書によって結城宗広等同氏一族の南朝事跡を明かにすることが出来るのみならず、南朝の元老北畠親房が常陸に在陣中結城親朝に送った数十通に及ぶ文書は、親房の思想事績を極めて明瞭に示す重要な史料である。
結城文書
尊氏直義以下逆徒追討の事
先度被下綸旨了去月十日所有臨幸越前国鶴賀津也相
催一族不廻時刻馳参可令誅伐彼輩於恩賞者可依請
者天気如此悉之以状
延元元年十一月十二日
左中将在判
結城上野入道館
この文書に「所有臨幸越前国鶴賀津也」及び「天気如此悉之以状」とあるは、綸旨の形式であって『太平記』に見える叡山の受禅の儀は、史実と見なければならない。
南北朝時代の謎を解く『得江文書』
『得江文書』は、前田旧侯爵家に所蔵せられる古文書である。白鹿二年卯月廿日の中院右中将某の御教書があり、越前の得江頼員に宛て朝敵対治のため急ぎ御方に参向すべき旨を伝えたものである。文書の形状は、極めて小型でいはゆる髪綸旨に類するものである。なほ特異なることは、白鹿の年号である。白鹿の年号は、本文書と京都竜安寺西源院本『太平記』第二十五の注記に見える以外に絶えて見ないところである。
白鹿元年は北朝貞和元年で南朝の正平元年に当る。得江氏は、北陸の人であるから北陸の宮方が用いたものである。当時吉野の朝廷に興国、正平の年号があるに拘わらず、白鹿の年号が北陸の官軍に用いられた事は、北陸に朝廷が存在し、この地方の宮方の奉じた王子が天皇の資格を具えていた証拠である。(『南朝正統皇位継承論』102~103頁)
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