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御調町公文と、ありし日の三浦芳聖家との神風串呂(№97)

🟡はじめに

このオンラインブックは、神皇正統家しんのうしょうとうけ極秘伝ごくひでん 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢もといせ伝承で皇祖神・天照大御神が各地を巡行じゅんこうしながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

天照大御神が各地を巡行じゅんこうを開始したのは、今から約1700年前の4世紀の初めごろ(崇神36年)のことです。

🔴元伊勢伝承地と巡行ルート

(「幻の邪馬台国・熊襲国」より引用)


元伊勢クシロは、皇城守護こうじょうしゅご結界けっかいのことだといわれて来ましたが、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

神皇正統しんのうしょうとう嫡皇孫ちゃくこうそん三浦芳聖みうらよしまさ」が、生涯の精魂せいこんを込めて解明した神風串呂によって、

「元伊勢クシロ」とは、皇統正史こうとうせいしを我が国の国土に埋め込んだ地文学ちもんがく神風串呂しんぷうかんろであることが判明したのです。

下記は、その皇統正史こうとうせいしの結論とも言うべき超神秘的な神風串呂です。

⭕印の地名(重要地文ちもん)が、ほぼ等間隔に配置されています。

神皇正統・三浦皇統家を昭示する神風串呂
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第一章)

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問(皇霊学)が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

神風串呂は、地文ちもん(地名)を研究することで天地神明の存在を認識することのできる神道皇霊学しんとうこうれいがくで、真日本国再建のために皇祖神・天照大御神によって構築されました。

ここでは、「御調町公文在りし日の三浦芳聖家(道場)との神風串呂」をご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神・天照大御神からの神妙なる息吹を体感体得たいかんたいとくすることができるでしょう!

串呂主宰神かんろしゅさいしん(天照大御神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築した神風串呂に学べば、我が国は天佑神助てんゆうしんじょにより日本民族本来の力を発揮はっき出来るようになります。

🔴皇大神宮内宮(大御神)の嫡皇孫は三浦佐久の子孫(三浦皇統家)である。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に、無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。



1、門人古澤武雄氏と天富命の共通点

古澤武雄氏は、三浦芳聖に産湯をつかわせてくれた一族の「三浦とみ」さんと容貌が瓜二つで、同じ一白水星午年であった為、三浦芳聖から神武天皇に仕えた「天富命(あめのとみのみこと)」の再現と言われていました。

今回、この記事を書くため調べていたら、古澤武雄氏と天富命の共通点が判明しました。

今回は、調査鑑定元として重要串呂起点である、広島県尾道市御調町「公文」と「三浦芳聖晩年の住所・古澤武雄氏の住所」との神風串呂をご紹介します。


2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。


3、御調町公文と三浦皇統家大神宮との神風串呂


三浦芳聖は、調査鑑定元として重要串呂起点である、広島県尾道市御調町「公文」と、愛知県豊川市諏訪2丁目の「ありし日の三浦芳聖家」とを串呂すると次のようになると述べています。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第三章 121頁

公文(尾道市)-御幸町(福山市)-女官(井原市)-⛩湊川神社(神戸市)-大和田(大阪市)-睦合町(津市)-一色(津市)-一色町(西尾市)-一色町(蒲郡市)-古沢武雄家(豊川市)-ありし日の三浦芳聖家(豊川市)-⛩白岩水神社(浜松市)-大和田(掛川市)-⛩焼津神社(焼津市)-⛩安房大神宮(館山市)

(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』121頁、現住所に改めた)

【地文のみ掲載】
「公文」-「御幸町」-「女官」-「⛩湊川神社」-「大和田」-「睦合町」-「一色」-「一色町」-「一色町」-「古沢武雄家」-「ありし日の三浦芳聖家」-「⛩白岩水神社」-「大和田」-「⛩焼津神社」-「⛩安房大神宮」

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)公文(くもん、広島県尾道市御調町)

公(おおやけ)の地文の意味。公(おおやけ)は、国や官にかかわる事を表わす-公営・公私・公式・公認・公務・公立・奉公・官公庁」。

絶対に間違いないぞよと云う確証の地文。広島県尾道市御調町は旧住所は御調郡御調町(みつぎ郡みつぎ町)と読むが、おしらべ郡おしらべ町とも読めるので、ある地点・場所を調査するための重要串呂起点で国内最高の公文。

【参照】公文・公文名に関する神風串呂

(2)御幸町(みゆきちょう、広島県福山市)
「御幸」とは、天皇・上皇・法皇・女院の外出を意味する雅語である。

ここでは神武、応神、後嵯峨、後村上、松良、五皇一体の再現・八幡大明神・三浦芳聖が、豊川市萩町を出て、豊川市市田町諏訪林37番地(豊川市諏訪二丁目)の古沢武雄家の一室に転居したことを表わす。

(3)女官(にょかん、岡山県井原市門田町)

女官
岡山県井原市門田町女官(国土地理院地図)

女官(にょかん、にょうかん、じょかん)とは、官職を持ち宮廷に仕える女性のこと。官女(かんじょ)、宮女(きゅうじょ)ともいう。

リンクの地図は右上の「地理院地図Vector」をクリックすると見られます。

この宮廷特有の地文から、豊川市諏訪二丁目の三浦芳聖の晩年の住所(三浦皇統家大神宮)が、串呂哲学上は「御所」であったことを昭示している。

下記の国府三串、天王、天王山、加賀美、大門、的場、⛩石清水八幡宮、三浦芳聖晩年の住所の神風串呂を参照ください。

【参照】⛩石清水八幡宮と三浦芳聖晩年の住所との神風串呂 (№28)
「国府町地区」-「的場」-「天王」-「加賀美」-「大門」-「⛩石清水八幡宮」-「国府町」-「国府町・天王山」-「三浦芳聖晩年の住所」

『ウィキペディア』女官

(4)⛩湊川神社(みなとがわじんじゃ、神戸市中央区多聞通)

祭神は、南朝大忠臣「楠木正成公」を祀る神社で元別格官幣社。地元では「楠公(なんこう)さん」と呼ばれています。

この神風串呂の守護神であると共に、祭神の楠木正成公の子孫のDNAも、婚姻を通じて三浦家に入っていますので、楠木正成公が三浦家の遠祖であることは間違いありません。

 三浦義勝-義利-宗正-宗明-佐久姫
 楠木正成-正行-正光-正親-冬子-佐久姫

【参照】湊川神社に関する神風串呂はこちらをご覧下さい。

【参照】後醍醐天皇の御名を鑑定する神風串呂 (№15)
「御名」-「湊川神社」-「後醍醐天皇塔尾陵」-「三浦」(紀北町)

『ウィキペディア(Wikipedia)』湊川神社

神戸市中央区多聞通に湊川神社が建立されたのは、延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)、湊川の戦い「摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦」で、正成と正季兄弟らが刺し違えて自害した事跡によります。
『ウィキペディア(Wikipedia)』湊川の戦い

(5)大和田(おおわだ、大阪市西淀川区)

西淀川区大和田
大阪市西淀川区大和田(地図マピオン)

神皇正統第98代小松天皇の串呂哲学上での符号。(13)の「大和田」とで「大和田二串」の神風串呂を構成しています。

ここでは、三浦芳聖が小松天皇の嫡皇孫であることを昭示しています。

【参照】大鳥居三串、小松天皇(興良)の神風串呂 (№65)
「太神」-「日向野」-「日岳」-「日之浦」-「天道」-「湊川神社」-「大鳥居」-「大鳥居」-「中村公園の大鳥居」-「小松」-「大和田」(さいたま市)-「小松」-「大竹」

因みに、小松天皇の皇子「松良天皇」の符号は「和田」です。

【参照】和田四串の神風串呂

(6)睦合町(むつみあいちょう、三重県津市大里)  
「睦み合う」(互いになれ親しむ。仲よくし合う)の意味である。

三重県津市大里睦合町(地図マピオン)

(7)一色(いっしき、三重県津市河芸町)

河芸町一色
三重県津市河芸町一色(地図マピオン)

一色(いっしき、いしき)は、串呂哲学では「彼と之とは同じ」の意味だと云われ、重要串呂線上に入る地文。

一色は一式(いっしき)の諺文でもあるので、ワンセットの意味もあるのではないかと考察しています。すなわち、三浦芳聖家と古澤武雄家はワンセットであると解釈します。

それは侍殿防護の神勅「同じく殿(みあらか)の内に侍(さもら)ひて、善く防(ほせ)ぎ護(まも)ることを爲(な)せ」のごとく、古澤武雄氏は三浦芳聖の近衛(ちかもり)としての使命を持っているが故であります。

他の二箇所の「一色」とで一色三串の絶対確証の神風串呂を構成している。

(8)一色町(いっしき、西尾市)同上。
他の二箇所の「一色」とで一色三串の絶対確証の神風串呂を構成している。

一色町には大宝山崇用庵ありて吉野朝の天皇の香華院と皇子玉川宮を諏訪神社として祭るところなり。ここに大宝橋、諏訪橋の存在も吉野朝の遺名なり。(山口保吉「芳花鶴水園の聖地」125頁)

皇子玉川宮は、松良天皇のこと。吉野朝の天皇は、大宝天皇か?
 三河一色大提灯まつり(諏訪神社)

🟡大宝山 円拍院 崇用寺
🟡
大宝山 崇用寺
🟡『諏訪神社 (西尾市)- Wikipedia

西尾市一色町(地図マピオン)

(9)一色町(いっしき、蒲郡市)同上。
他の二箇所の「一色」とで一色三串の絶対確証の神風串呂を構成している。

蒲郡市一色町(地図マピオン)

(10)三浦芳聖晩年の住所(愛知県豊川市諏訪二丁目)

三浦家
愛知県豊川市諏訪二丁目(地図マピオン)

三浦芳聖は、昭和25年(1950年)8月13日より昭和46年(1971年)3月30日に帰幽するまでの約20年半、豊川市市田町諏訪林37番地(豊川市諏訪2丁目)に居住し、神風串呂講究所を開設して、神風串呂を解明し公表した。三浦芳聖終焉の地でもある。

【参照】詳細はこちらを参照ください。

(11)古沢武雄家(ふるさわたけおけ、愛知県豊川市諏訪二丁目)
古沢武雄家は、豊川市諏訪二丁目の三浦芳聖家の西隣接地にあった。

古沢武雄氏(通称、禎康・よしやす、大正7年一白水星戊午年生れ)の容貌が、三浦芳聖の降誕時に産湯をつかわせてくれた一族の「三浦とみ」さん(明治15年一白水星壬午年生まれ)に瓜二つであったので、三浦芳聖から天富命(あめのとみのみこと)の再現と言われ、串呂も解明されている。

今回、この記事を書くために調べていたら、天富命と古沢武雄氏の共通点が判明した。それは「住宅のお世話をしたこと」です。

天富命(あめのとみのみこと)は、太玉命の孫。神武東征において橿原宮を造営し、阿波国に続いて房総の開拓をした。『ウィキペディア』天富命

古沢武雄氏は、神武、応神、後嵯峨、後村上、松良、五皇一体の再現・八幡大明神としてこの世に派遣された三浦芳聖の「住宅」のお世話をするという使命を果たしたばかりでなく、三浦芳聖家の隣接地にあって、一家を挙げて三浦芳聖の神業を支えた大忠臣でした。

下記は、古澤武雄氏は⛩安房大神宮の天富命の再現であるという神風串呂です。

三浦芳聖著『神風串呂』第177号 5頁

⛩武雄神社」(佐賀県武雄市武雄町武雄)-「古沢」(和歌山県伊都郡九度山町)-「⛩皇大神宮内宮」-「⛩安房大神宮

三浦芳聖は、昭和20年1月3日の名古屋空襲で、当時住んでいた名古屋市昭和区御所町の中部国民道場兼自宅が全焼となり、愛知県宝飯郡一宮町萩村上近久(豊川市萩町上近久)に疎開していた。

戦後、御祖大神(みおやのおおかみ)の御神諭に従い、三浦芳聖が南朝正統家の嫡孫であると発表した為、官憲の弾圧を危惧する村人達の圧力で、萩村に住んで居れなくなり困っていた所、門人古澤武雄氏の厚意で、昭和25年8月13日、豊川市市田町諏訪林37番地の古澤家の一室に転居できました。

この住所は、三浦芳聖にとって最高の串呂地点であり、串呂主宰神の設計によるものとはいえ、この地に快く三浦芳聖を迎え入れた古沢武雄氏の功績は、筆舌に尽くしがたい大殊勲で、誰にでもできる事ではありません。

(12)⛩白岩水神社(しらいわすいじんじゃ、浜松市北区引佐町白岩)
「うなぎ井戸」と呼ばれる石灰岩の岩盤でできた井戸があり、太古より「霊水」が湧き出て、清流をなしている。

白岩水は、一白水星をあらわす諺文で、大忠臣、古澤武雄氏が、大正7年の一白水星戊午年生れであることを表わしています。恐らく、天富命も一白水星の午年生れであったと思います。

【参照】佐賀県武雄市武雄の武雄神社の東北に「白岩運動公園」がある

(13)大和田(おおわだ、静岡県掛川市)
神皇正統第98代小松天皇の串呂哲学上での符号。(5)の大和田とで「大和田二串」の確定立証の神風串呂を構成している。

静岡県掛川市 大和田(地図マピオン)

(14)⛩焼津神社(やいづじんじゃ、静岡県焼津市焼津) 焼津神社HP 
主祭神は、日本武尊。この串呂を守護している神社。境内に日本武尊の銅像がある。境内社の焼津御霊神社近くに神武天皇の銅像がある。この神武天皇像(下記)は三浦芳聖の容貌によく似ている。

神武天皇
神武天皇の銅像

静岡県焼津市焼津、JR焼津駅の南西約1kmにある神社。式内社で、旧社格は県社。戦後、神社本庁別表神社に加えられた。旧称入江大明神(いりえだいみょうじん)。ウィキペディア・焼津神社

焼津神社
静岡県焼津市焼津(地図マピオン)

(15)安房大神宮(あわだいじんぐう、千葉県館山市大神宮)

安房大神宮
千葉県館山市大神宮(地図マピオン)

皇室ゆかりの元官幣大社。天太玉命(アメノフトダマノミコト)、天富命(アメノトミノミコト)を始めとする神武天皇のご東征時代、即ち日本建国の為にご活躍された神々をお祭りする由緒ある神社です。

神社のHPには安房神社となっていますが、千葉県館山市大神宮の地名が語っているように、この神社の通称は「大神宮」であります。この串呂の守護神であり、古澤武雄氏が天富命の再現である事を表わす。

【参照】『ウィキペディア』安房神社

二所の宗廟から牧平大門を鑑る!藤太夫島 と佐久島(№4)
「龍子」―「⛩石清水八幡宮」―「三浦芳聖降誕地」―「佐久」―「藤太夫島」―「⛩安房大神宮

4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

「公文」-「御幸町」-「女官」-「湊川神社」-「大和田」-「睦合町」-「一色」-「一色町」-「一色町」-「古沢武雄家」-「三浦芳聖晩年の住所」-「白岩水神社」-「大和田」-「焼津神社」-「安房大神宮」

この串呂は、三浦芳聖の晩年の住所(三浦皇統家大神宮)と隣接の古澤武雄氏の住所を、広島県尾道市御調町公文から調査鑑定するという視点での串呂で、安房大神宮、焼津神社、白岩水神社、湊川神社を串線し、一色三串、大和田二串で、御幸町、女官などの宮廷になじみ深い地文があり、三浦芳聖と古澤武雄氏が睦合って仲良く暮らすことが昭示されています。

安房大神宮は天之富之命、焼津神社は、境内社の焼津御霊神社に神武天皇の銅像あり、白岩水神社は一白水星、湊川神社は忠臣大楠公、公文は絶対確証を表わす。

古澤武雄氏は神武天皇にあっては天之富之命、応神天皇にあっては武内宿禰、後醍醐天皇にあっては大楠公のごとき大忠臣である。

この無二心忠誠の古澤武雄氏(一白水星戊午年)に導かれ、豊川市諏訪2丁目に、神皇正統嫡皇孫・五皇一体の再現・八幡大明神・三浦芳聖の御幸があり、そこで師と弟子が睦み合って暮らす事が定められていた。

🔴天照大御神の子育て-御子 三浦芳聖 の教導録 一覧


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🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№96)
皇大神宮内宮と綾子姫命御陵の神風串呂
🟢次号(№98)
高遠町弥勒とありし日の三浦芳聖家との神風串呂

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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串呂哲学研究ノート(鈴木超世志)
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