三浦芳聖伝 26、中部国民道場創立(№141)
💟中部国民道場創立
1、皇国維新運動の拠点
三浦芳聖は、昭和10年(1935年)1月1日、頭山満翁を顧問に仰ぎ、名古屋市昭和区御所町に「中部国民道場」を創立し、皇国維新運動の拠点を作った。
当時、東京に、剣道は北心一刀流の免許皆伝、直真影流の達人で禅の方は京都市嵯峨の天龍寺管長「関精拙老師」より大悟徹底の允可を得た文武両道の達人「大森一声」氏(戦後芳聖の命名で曹玄と改名)が、昭和9年(1934年)「直心道場」を興設して、東京の各大学へ通学する優秀な学生を全国からすぐって集め、沢山の門人を養成すると共に、全国各地に道場網を設けて、直心道場を本拠として秩序整然たる純正維新運動を行なっていた。
芳聖は、この大森一声氏の直心道場と密接な連絡を取り、猛烈果敢な維新運動を展開して、昭和10年(1935年)1月11日名古屋市昭和区御所町2丁目9に「中部国民道場」を創立し、「直心道場」に倣って中部地方各地から優秀な人材を集めて、学校へ通学する門人、会社へ通勤する門人など、いつも起居を共にして修養練磨する門下生が10名はいた。
後は通学の門人で、夜間の芳聖の講義には、名古屋市内10ヶ所の警察署の特高が約2名ずつ計約20名、それに憲兵隊の特高が5名位聴きに来て、門下生より警官や憲兵の方が多い時もあった。「三十にして立つ」、中部国民道場の創立は、芳聖が数えの32才の時のことだ。
芳聖は、この中部国民道場を拠点として、皇国維新運動を展開し、又門人の養成に尽力した。講義中は、正座で何人といえど安座を許さず、それは厳しい気合の入ったものであった。勿論禁酒禁煙で、文字通りの道場だったのだ。
門下生の修行内容は、精神修養が主で、講義、座禅、書道(筆禅)、居合いなどもあったようだ。当時を偲ぶよい資料になると思うので、道場の趣旨、場規、修行心得を次に示そう。
2、中部国民道場趣旨、場規、修行心得
3、顧問・頭山満翁
この中部国民道場を創立するに当って芳聖は、頭山満翁に顧問になって貰った。頭山満翁は国家主義者の重鎮で、後ろ盾になって貰えば何かと都合がよかったし、芳聖が「万国を併せて王たるも・・・」のご教訓を頂いたご縁を大切にしていたからだろう。
頭山満翁は、昭和19年(1944年)10月に帰幽するまで、3回この中部国民道場へ来られた。芳聖は、その都度、敬意を表して門人と一緒に名古屋駅までお迎えに出たが、頭山満翁は、一本先の列車で来られ、熱田神宮に参拝してから来られたので、お迎えに出た芳聖の留守中に先に到着していた。頭山満翁は、芳聖が南朝正統の皇孫である事に敬意を払ったのだと思う。
頭山満翁が中部国民道場に来られた時に、芳聖が記念に何か揮毫して下さいと頼むと、頭山満翁は、全紙に「忠節」と大書した。この書は、米軍による名古屋空襲の時、かろうじて持ち出すことが出来たので今も残っている。
この「忠節」をめぐって、解釈は両面あり「誰が誰に忠節を尽くすのか」という肝心の所は、何処にも書いてないから、正に禅問答だ。頭山満翁は、芳聖に昭和天王に忠節をという意味で書いた事と思う。串呂主宰神(日本神界)が頭山満翁を評価しない所以である。
何時であったかは忘れたが、この中部国民道場とは別のある会合の宴席で、宴会の進行係になったのを幸い芳聖が、一番最初に頭山満翁に「先生、何か余興をお願いします。」とお願いした所、頭山満翁は、畏まって無言で頷き、黒田節の節で「皇御国(すめらみくに)のもののふは、如何なる事を勤むべき、この身に持てる真心を君と親とに尽くすまで」と、朗々と歌われた。
芳聖はこの時、頭山翁の芳聖に対する見方及び態度を試した訳だが、何も事情を知らない仲間は、芳聖の度胸のよいのに驚いていた。第三者の知らない水面下で、芳聖と頭山満翁との間で火花が散っていた。
この歌も「忠節」の掛け軸と同じで、頭山満翁の歌詞の「君に尽くす」は、「昭和天王に尽くす」だと思う。串呂主宰神(日本神界)が頭山満翁を評価しない所以である。
4、名古屋市昭和区御所町
名古屋市昭和区御所町は、豊臣秀吉の母が秀吉を生んだと言い伝えられる「御所屋敷」に由来するとのことですが、
昭和6年(1931年)4月1日、中区御器所町の一部により成立し、昭和12年(1937年)10月1日、 昭和区に編入され、昭和47年(1972年)8月1日、昭和区御器所二丁目・御器所三丁目・恵方町にそれぞれ編入され消滅しました。
この御所町の歴史を見ると、まるで三浦芳聖の為に出来、用が済んだら消滅したように思われ、串呂主宰神のご配慮のほどが偲ばれます。
三浦芳聖は、昭和5年(1930年)10月、名古屋市中区御器所町字中屋敷12番地に住んでいました。すると、この御器所町の一部が、昭和6年(1931年)4月1日、中区御所町と改称されました。
芳聖は、昭和6年(1931年)12月9日、野村鈴と結婚した頃、この名古屋市中区御所町のすぐ東南方の中区出口町2丁目34番地に住んでいました。
芳聖が昭和10年(1935年)1月1日、中区御所町に道場兼住宅を新築後、昭和12年(1937年)10月1日、 昭和区御所町となりました。
沿革(『ウィキペディア』御所町 (名古屋市)より)
1931年(昭和6年)4月1日 中区御器所町の一部により、同区御所町が成立。
1937年(昭和12年)10月1日 昭和区に編入され、同区御所町となる。
1942年(昭和17年)8月25日 昭和区御器所町・島退町の各一部を編入する。また、一部が御器所町に編入される。
1943年(昭和18年)2月15日 昭和区御器所町の一部を編入する。
1972年(昭和47年)8月1日 昭和区御器所二丁目・御器所三丁目・恵方町にそれぞれ編入され消滅。
5、中部国民道場の神風串呂
中部国民道場の代表的な神風串呂を紹介します。芳聖が、名古屋市昭和区御所町に道場を創立したのは、串呂主宰神の計画通りであったと思います。
「三浦芳聖の母・元子の墓」(兵・神戸市須磨区白川高座)ー「太神山」(滋・大津市)ー「御在所山」(三・三重郡菰野町菰野)ー「中部国民道場」(名古屋市昭和区御所町2丁目9)ー「聖岳」(静・葵区田代)
(三浦芳聖著『神風串呂』第177号78頁、1970年)
「金崎宮」(福・敦賀市金ヶ崎町)ー「矢合町」(愛・稲沢市)ー「中部国民道場」(名古屋市昭和区御所町2丁目9)ー「三浦芳聖降誕地」(愛・岡崎市牧平町大門)
(三浦芳聖著『神風串呂の解明』7頁、1965年2月1日発行)
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🟠情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。
ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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