南朝正統皇位継承論1-後醍醐天皇の御譲位
後醍醐天皇の御譲位
三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』に依りますと、後醍醐天皇は延元元年10月9日、比叡山に於て一宮「尊良親王」に御譲位になったと述べています。(三浦家の系図には、尊良親王の第一皇子・守永親王に御譲位になったと記録されていました。)
後醍醐天皇
この件に関し、藤原石山氏は、上記『南朝正統皇位継承論(長慶天皇の伝説と木地屋民)』21頁の「後醍醐天皇の御譲位」にて、「田中義成著『南北朝時代史』第43章 後醍醐天皇尊氏と御和睦」の記事を掲げて、後醍醐天皇は比叡山に於て「尊良親王の第一皇子・守永親王」に譲位されたと考察しています。
(1)南北朝時代史(田中義成)
田中義成
『南北朝時代史』には、比叡山に於て譲位があった根拠として下記のように述べ、後醍醐天皇の譲位はあったと思われると結論されています。
【参照】田中 義成著『南北朝時代史』第43章 後醍醐天皇尊氏と御和睦
(ア)太平記に所謂叡山にて内々御譲位の説は、其の実を得たりと推定すべし。(太平記にある叡山での御譲位説は実際にあったと思われる。)
(イ)白鹿の年号は、或は同親王を擁せるものの建つる所歟、而してかく特に年号を建つるは、蓋し恒良親王以来北陸朝廷といふ考が継続せるにはあらざる歟、是亦かの太平記に記する所の御譲位説を確かむる一資料なるべし。
(白鹿の年号は宗良親王を擁立せる者が建てたものか、白鹿の年号を建てたのは北陸朝廷という考えが継続していたからではないのか、この事は太平記に記録されている後醍醐天皇の御譲位説を確定する一資料であろう。)
参考の為に下記に資料を掲げます。
太平記の記事・・・(『太平記巻』17の8)
春宮に天子の位を譲て、同じく北国へ下し奉べし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕に替はらず此の君を取り立て進(まいら)すべし。
九日は事騒しき受禅の儀、還幸の装いに日暮(くれ)ぬ。
白川文書(結城文書)・・・白川文書(結城文書)
所有行幸越前国鶴賀津也(越前の国鶴賀の津に行幸あるところなり)、「天気如此悉之以状」(天気かくの如し、これを悉せ、もって状す)
神皇正統記・・・行末の事を思召し云々「十月十日の比にや、主上都に出させ給、いとあさましかりしことなれど、又行すゑをおぼしめす道ありしにこそ。東宮は北国に行啓あり。」
得江文書・・・(得江文書)
前田旧候爵家が所蔵していた古文書で、白鹿2年(1346年)卯月20日付けで得江九郎頼員あてに出された「軍忠書」で、中院右中将の名前で通達されています。
現在この文書は「白鹿二年行貞奉執達状」と呼ばれ、尊経閣文庫に保存されているほか、東京大学史料編纂所にも写真が有ります。
(2)長慶天皇の伝説と木地屋民(藤原石山)
藤原石山氏は、『南朝正統皇位継承論(長慶天皇の伝説と木地屋民)』24頁で次のように述べ、後醍醐天皇は比叡山に於て「尊良親王の第一皇子・守永親王」に譲位されたと考察しています。
(ア)後醍醐天皇が叡山に於て御譲位になられた春宮は、尊良親王の王子守永親王である。
(イ)恒良親王は『南朝事跡考』に〝廃坊〟とあり、又『古本本朝皇胤紹運録』に〝前坊〟とあり、『得江文書』に依る白鹿の年号は、恒良親王が足利氏に捉われた後のことで、北陸の宮方の奉じたのは宗良親王であろうと田中義成氏は述べているが、宗良親王には晩年まで、多くの和歌を遺し、又親王自からの記録もあるが、即位したと見る資料は見ない。故に後醍醐天皇が叡山に於て譲位された春宮は、守永親王を正当と見なければならない。
(ウ)『太平記巻』巻17の12の記事を挙げている。
春宮に位を譲り奉りて万乗の政を任せ進らすべし、義貞股肱の臣として王業再び本に複する大功を致せと仰せ下され、三種の神器を春宮に渡し進ぜられし上は縦へ先帝の綸旨とて、尊氏の強いて申すことあらば休むなく書かれしものにて用ふるに足らん。(『太平記』巻17の12)
(エ)新田義貞は、金ヶ崎の落城に先立ち、脇屋義助と共に杣山へ移った。忠誠無二心の新田氏が尊良、恒良の両親王を残して他に落ちる道理がなく、これは正統の守永親王を奉じて落ちのびた証拠である。
(3)徹底的に日本歴史の誤謬を糺す
三浦芳聖は『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(神風串呂講究所/1970年)第一章1頁「尊良親王が皇位を継承し給いし経緯」で次のように述べ後醍醐天皇は尊良親王に譲位されたと結論しています。(以下要約)
(ア)三浦系図に延元元年10月9日比叡山に於て、「後醍醐天皇」より御直々に「大統宮守永親王」に御譲位ありと書かれてあった。
(イ)九星気学と干支学及び年齢差、母親(西園寺公顕女)の身分、名前の「永」等から、守永親王は後醍醐天皇の猶子(第七皇子)となり、秘蔵中の秘蔵子として養育されていた。(六白金星戊辰年で中心、後醍醐天皇60歳の時に守永親王20歳)
後醍醐 1288年生れ 一白水星戊子年(九星学=一白→六白→九紫と循環)
守 永 1328年生れ 六白金星戊辰年(干支学=子→辰→申と循環)
護 良 1308年生れ 八白土星戊申年(九星学=四緑・五黄・六白が中心)
(ウ)戦後、後醍醐天皇の神霊から「足利氏の謀反による非常の場合であったので、将来守永親王に譲る事と云う条件付きで尊良親王に譲位した」という霊示があったので神風串呂で尊良親王が登極された事を解明した。
(4)尊良親王登極を昭示する神風串呂
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第一章29頁、クリックで拡大します。)
(ア)尊良親王が皇位継承者である事を昭示する神風串呂(№18)
「竹生」-「上野」-「与位」-「高長」-「高御位山」-「高甲良山」-「八尺鏡野」
(イ)北陸朝廷の存在を昭示する神風串呂 (№20)
「⛩金ヶ崎神宮」-「政所町」-「御在所山」-「国府町・天王山忠魂碑」-「御薗町」-「上野」-「一色」-「⛩皇大神宮内宮」
(ウ)元伊勢内宮と金崎神宮との神風串呂 (№21)
「上村上」-「天王」-「三浦」-「⛩元伊勢内宮」-「大君」-「⛩金崎神宮」
(エ)尊良天皇皇后「清子姫」を 昭示する神風串呂(№22)
「⛩金崎神宮」-「清子」-「天子ヶ岳」-「毘沙門」-「尊房」
(オ)石清水八幡宮と金ヶ崎神宮の神風串呂(№36)
「高城山」-「高松」-「⛩石清水八幡宮」-「⛩賀茂御祖河合神社」-「⛩金崎神宮」-「⛩藤島神社」
(カ)後醍醐天皇御陵と金崎神宮との神風串呂 (№37)
「親の谷」-「後醍醐天皇御陵」-「霊仙寺」-「⛩白鬚神社」-「⛩金崎神宮」
(キ)尊良天皇御陵と与位との神風串呂(№38)
「獅子」―「与位」―「寺野」―「後嵯峨天皇・亀山天皇御陵」―「聖護院」―「尊良天皇御陵」―「卍寺野薬師堂」―「佐久」
(ク)坂出市天皇と白山市三浦との神風串呂(№39)
「由良岬」-「御在所山」-「天皇・卍天皇寺」-「龍子」-「高長」-「寺野」-「大門」-「大丹生」-「大丹生町」-「大聖寺」-「小松市」-「三浦町」-「神代」
串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)
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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
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神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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