南朝正統皇位継承論13-富士谷の伝説4(明徳の和約)
富士谷の伝説4(明徳の和約)
1、正良親王、吉野朝の皇太子に就任
元中5(1388年)年に足利義満自ら率いる大軍が、南朝の秘密基地である富士谷をに急襲。富士谷秘密基地は壊滅状況に陥った。
元中7年(1390年)、正良親王が吉野朝の皇太子に就任した。(『長慶天皇紀略』73頁)。正良親王は、内伝の天皇「松良天皇」のことです。
正良親王(松良天皇)は、長慶天皇の皇太子として、三河吉野朝の玉川御所の春興院にお住まいであった事は既に考察済みです。
【参照】南朝正統皇位継承論8(№196)1、三河玉川御所
三輪義凞『長慶天皇紀略』には、元中7年(1390年)4月25日、正良親王は、吉野で後亀山天皇の皇太子に就任したと記されています。院は長慶院法皇、天皇は後亀山院です。
上記の正良親王が吉野朝の後亀山天皇の皇太子に就任した件について、私の見解を述べてみます。
長慶院法皇は、南朝に「吉野朝」と「内伝の北陸朝廷」の二つの流れが有る事について、速やかにこれを一本化しなければならないとお考えになられ、その為には、正統の三種の神器を継承している「内伝の天皇」が吉野朝の天皇に就任する事でそれが実現できるとお考えになられた。
ところが、長慶院法皇が吉野朝の皇位を熈成親王(後亀山天皇)に譲位した文中2(1373)年頃、正良親王(松良天皇)は、正平19年(1364年)生まれでまだ10才でしたので、いったん熈成親王(後亀山天皇)に譲位して置いて、その次は正良親王が即位すれば実現できるとお考えになられ、
この方針を実行に移すには、後亀山天皇と長慶院法皇の流れが一代置きに皇位に就くことで実現できるとお考えになられたと推察致します。
2、皇太子正良親王、ご講和に応ぜず
長慶院法皇の遠謀深慮に依って吉野朝の皇太子に就任した正良親王は、元中9(1392)年のご講和(明徳の和約)に応じず、後亀山天皇と共に京都に赴くことに反対したため皇太子を廃されています。
ご講和反対の理由は、幼少の頃より養父・長慶院法皇の薫陶を受けて後醍醐天皇の聖旨を遵守されたからだと思いますが、この正良親王の英断により、神皇正統家は、足利義満の謀略に騙されずに済みました。
また、恐らく、この明徳の和約が進行中の元中9(1392)年頃、長慶院法皇は聖旨を伝えるために御鏡を奉持して全国を巡回しておられ、富士谷御所を留守にしておられたものと推察します。
五条家文書に、元中8(1391)年頃、後征西将軍宮・良成親王でさえ、長慶院法皇の所在が分からないという記録があるようです。
下記に引用した『小倉宮伝記』には、正良親王に替わって後亀山天皇の皇子「広成親王」が諱を実仁親王と改めて皇太子に就任し、後亀山天皇と共に京都に登られたと記されています。
広成親王が、三河吉野朝の玉川宮で松良親王の身代わりの皇子だった事は
「南朝正統皇位継承論8(№196)三河吉野朝の伝説4」の「1、三河玉川御所」で考察済みです。
3、騙されたご講和だった
今日では、明徳の和約について、講和条件になっていた「譲国の儀」(父子の礼をもって譲位する)も実施されず、皇位の両統迭立もなく、国衙領についてもほとんど実施されず、足利義満に騙されたご講和だったことが判明しています。
当時の北朝廷臣の記録『御神楽雑記』には、「定めて御後悔御座あるべきものか。当御代の御為には大吉の事なり。南朝は御進退楚忽か。」と記されています。
南北両皇太子の名前が同一!幕府(北朝系)が弄した「姑息な手段」
4、後南朝の史実
滝川政次郎著『日本歴史解禁』(創元社/1950年)に、南北朝合一に関する記述を抜粋します。(新漢字、新仮名遣いに改めた)
所謂南北朝合一以後に於ける南朝の史実は、明治以後の歴史家によってひた隠しに隠され、今日この大事実は大部分の国民に忘れられている。終戦以後若き歴史家によって書かれた新しい日本歴史も、この事実には多く目を蔽うている。故に一般国民は、まだ南北朝の合一が事実であるように考えているが、南北朝合一は明治政府が捏造した真赤な嘘であって、南北朝は最後まで合一せず、元中九年以後の所謂後南朝は、依然として吉野の山奥に厳存し、応仁文明の乱の頃まで盛んに活動しているのであって、かの応仁の乱の如きも、山名宗全と細川勝元との死闘の如く説かれているが、勝元の東軍は北朝の天子を擁して錦旗を翻えし、宗全の西軍は後南朝の天子を戴いてこれ又錦旗を翻えして戦ったのであって、名分の上からいえば、是れ又南北両朝の争いであったのである。(111頁)
長禄元年(西暦一四五七)十二月二十三日、赤松の遺臣間島彦太郎、中村貞友等は、後花園天皇の密命を奉じて吉野の奥川上、北山に潜入し、後南朝の自天王を弑して前に楠次郎等により奪還された神璽を京都に取り戻したが、これ明かに神器の強奪であって授受ではない。故に明徳三年以後は神器北朝にあるを以て、これ以後は南朝も北朝もなく、京都の天皇が正統の天皇であるという明治の正閏論は、理論的にも事実的にも全くの誤謬であって、今日となっては「南北朝合一」なる文字はこれを国史の中から削り去らねばならないのである。(110~111頁)
5、正良親王について
正良親王が、松良天皇である事は「松良天皇(正良) (№79)」で既に考察済みですが、下記の記録を見る限りは、勧修寺の尊聖権大僧正は、上記の広成親王同様、陽動作戦の為に立てた身代わりの方のようです。
この「身代わり」の件を理解するヒントとして、『長慶天皇紀略』では、正良親王と広成親王が同じ天授6(1380)年に生まれたことになっています。
後醍醐天皇の聖旨を遵守し、長慶院法皇の薫陶を尊重して両朝合一に応じなかった正良親王が、「時勢の推移を悟り、乃ち落飾して」出家などするはずはありません。勧修寺に移ったのは「身代わり」に相違ありません。
6、後亀山天皇御陵・勅使3串の神風串呂
串呂主宰神(天照大御神を始めとする日本神界)は、明徳の和約をどのようにご覧になっているか、解明された串呂が有りますので、ご紹介します。
(三浦芳聖著『串呂哲学第一輯』15頁/1956年/発売所:大竹書店、研究の成果を盛り込み、新住所に改めた。滋・甲賀市信楽町の勅使は、勅旨に訂正しました。)
「小倉」-「勅使」-「東勅使」-「小倉」-「宮代」-「後亀山院御陵」-「勅旨」-「野村」
串呂主宰神が「明徳の和約」について、勅使(勅旨)三串、小倉三串の超・絶対確証の神風串呂で、後亀山院は代理の使者であり、正統の天皇では無かった事が明確にされている点、神風串呂の的確性に驚嘆しています。
この串呂は南北朝時代の実に重大な「秘史」を語っているように思います。南北和睦の件は、これを串呂の世界(天地神明)は、後亀山院を勅使(天皇の使い)だと云うのですから、神皇正統の「正良天皇」が、「そんなに和睦したいのなら、偽の神器を持っていって、どんな結果になるかやって見よ」と心の中でご命令になったということであります。
その結果については、いまさら言うまでもないことですが、後亀山院を始めとする小倉の宮の流れは、逆賊・足利義満一味の謀略に掛かり惨憺たる結末を迎えたのでした。
元中9年(1392年)の明徳の和約に於て武家方(足利義満)は、吉野朝(熈成王)が南朝正統の天皇でない事を承知の上で、世間を騙すための大芝居を演じた事が分かるのです。
【参照】下記の系図についても既に考察しました。
上記の「古本本朝皇胤紹運録」では、義良親王について「南方偽朝に於て君主と称し後村上天皇と号す」と、吉野朝は南朝の正統の朝廷ではなく、陽動作戦上の見せかけの偽朝(副統・前衛・代理)であると看破している。
寛成親王については「南方に於て自立、長慶院と号す」と皇位に付いていた事を認めているが、熈成王については、「熈成王、吉野より降りて後、太上天皇の尊号を蒙(こう)むる」と、親王でもなく、皇位に付いていた事を認めていない。
串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)
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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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