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💟第17話 渥美勝先生に邂逅-日本的生命観に目覚める(天照大御神の子育て)

🟡渥美勝先生に邂逅

明治法科大学で学んでいた芳聖は、震災後のある日、恐らく大正12年(1923年)の9月の下旬か10月の初め頃の事だと思いますが、不忍しのばずの池のある上野公園を散策中、「渥美勝あつみまさる」という日本国史上、稀有けうの聖者に出会ったのです。

表には「神政維新」裏には「国の子桃太郎」と書いた幟旗のぼりばたを立て、かなり着古したと見える飴色あめいろになった紋付の羽織に、同じく色のあせた小倉のはかま穿き、髪を茫々ぼうぼうに伸ばした50前後の男が、上野公園韻松亭いんしょうていの廻りにある石の上に立ち、行き交う人々を相手に獅子吼ししくしていたのです。

渥美 勝(1877年2月13日 - 1928年11月4日)『日本の宣言』より引用
上野公園韻松亭(YAHOO!JAPAN地図)

たまたま通りかかった芳聖が、立ち止まってその話を聞いていると、その聖者は「我らこの命を以て何をなすべきか!」と桃太郎のおとぎ話を使って、「日本的生命観」について演説していたのです。

人々は、立ち止まっては去り、又別の人が立ち止まっては去って行きましたが、芳聖は、2時間余りこの聖者の話に引き込まれて熱心に聞き入ったのです。すると又この聖者も、芳聖一人に教えを垂れるように熱弁を振って説いてくれたのです。

この聖者は、愛国的国家主義者の間では有名な「渥美勝あつみまさる」といい、滋賀県彦根市の生まれで、若い時は政治家を志し、東京の一高を出て京都帝国大学独法科の2年まで進んだが、家庭の事情で帰郷して中学校の教師をしていたある日、無邪気な児童が歌う「桃太郎」の唱歌に廓然かくねんと悟り、我が国の古典の思想研究に没頭したのです。

渥美 勝  先生(1877年2月13日 - 1928年11月4日)

渥美勝先生は、日本の古典を研究するうちに、そこに日本民族の生命観、日本民族の世界史的使命を発見し、その思想を人々に伝えるため上京し、「土工」「人力車夫」「下足番」「映画館の売り子」など、現代のアルバイト的な仕事をして最低限の生活費を稼ぎ、昼間は辻々に立って大道演説をし、夜はお宮の縁先やお寺の墓地などで休むなど、住む家さえないという、日本の歴史上稀有けうの、常人の真似の出来ぬ誠に変った人生を送った聖者でした。

渥美勝の墓(静岡県裾野市佐野若狭森)

🟡日本的生命観に目覚める

渥美勝の日本的生命観というのは、「古事記」や「日本書紀」に出ている日本の国生み神話、修理固成しゅりこせい、神武建国の理想など、古代日本から伝承される日本民族特有の生命観に光を当て、日本民族本来の使命について現代人に分かりやすく説いたもので、言わば、「この世に高天原たかあまはらを建設する運動」でした。

これは、日本民族の精神復興運動であり、明治維新以後、怒涛のごとく押し寄せる西洋の文化思想にさらされ、ともすれば呆然自失ぼうぜんじしつしていたであろう人々に、日本古来の民族精神に目覚め、その民族精神を国際社会に於いてどのように展開すべきかを示唆したものでした。

これまで、いわば外来思想と言える仏教を主に学んできた芳聖は、渥美勝の街頭演説がいとうえんぜつを聞いて、その場で日本的生命観に目覚め、日本の古典を学ぶことの重要性に開眼せしめられたのです。

芳聖が渥美勝に出会ったのは、渥美勝が同志数人と共に大正10年(1921年)10月から大正12年(1923年)9月までの約2年間、九州の高千穂に籠って、宮崎県・大分県各地でみそぎの修練をし、大震災の報を聞いて東京に帰り、精力的に活動を再開した直後のことでした。

そうした修養後の充実した渥美勝に、関東大震災で人生観を一変した芳聖が折りよく出会うというシンクロは、大御神の御子教導計画通りで、渥美勝が説いた「日本的生命観」は、その後の芳聖の思想形成に大きな役割を果たしたのです。

💟天照大御神の御子教導計画に基づく神謀援慮しんぼうえんりょにより、関東大震災で人生観を一変した芳聖は、日本的生命観を学ぶべく、九州高千穂で修練後の気合の入った渥美勝先生に邂逅せしめられたのです。

【参照】
渥美勝- Wikipedia』から一部引用

渥美 勝(あつみ まさる、1877年2月13日 - 1928年11月4日)は、日本の国粋主義・民族派の思想家。滋賀県犬上郡彦根町(現・彦根市)出身。

彦根藩士であった渥美平八郎の子として生まれる。渥美家は藩の武術師範を務めた家で、母は藩主・井伊家の分家である木俣家の出身。幼くして父を失い、母の手で育てられる。

彦根中学を経て、1897年、第一高等学校に入学。1900年には京都帝国大学法科に入学した。大学在学中、哲学・宗教への関心を深めた。また、母の死に相当の衝撃を受け、その遺骨の喉骨を飲み込んだともいわれる。人生に煩悶を抱えたまま、1904年、京都帝大を中退。郷里に帰って中学校教師をしていた時、児童の歌う「桃太郎」の唱歌を聞く中で思想的に目覚め、教職を辞めて大阪に出て鉄工所の作業員となる。

1910年の大逆事件に刺激され、「神政維新」の理念を抱いて翌年上京。1913年から1921年にかけ、「土工」「人力車夫」「下足番」「映画館の売り子」など職を転々としながら、神田須田町の広瀬中佐像前や上野公園で街頭演説をし、松村介石・頭山満・内田良平など、多くの右翼人士と交わるようになる。

また大川周明とは、大川が帝大生の時に渥美が引いていた人力車に乗ったのがきっかけで知り合ったという。その縁で満川亀太郎の老壮会・猶存社にも関与し、北一輝とも知り合いになった。

満川は、渥美の姿は「アシジの聖フランシス」を思わせるが、熱弁は「サボナローラーに比すべき」と、『三国干渉以後』で回想している。

1921年には同志らと高千穂へ赴き、宮崎県・大分県の各地で禊ぎの修練に努めていたが、1923年に関東大震災の知らせを受けて再び上京する。

💟第18話 一子相伝の系図を掘り出す-串呂の要諦が一気に解明
🟢天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録


🍀祈り
全世界の全人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楽しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向上の道を歩み、この世に生まれて来た使命を全うし、大宇宙の進化と発展に寄与させて頂いておりますことに心から感謝いたします!


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🟡バックナンバー(総合)

🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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