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三浦芳聖伝 22、運命の赤い串呂・野村鈴と結婚

🎀串呂哲学研究ノート 第136号

三浦芳聖伝 22、運命の赤い串呂・野村鈴と結婚

1、仲人・水谷一生

三浦芳聖は、昭和6年(1931年)12月9日、数えの28歳の年に、2才年下の「野村 鈴」と結婚した。仲人神は皇大神宮内宮の天照大御神で、世俗の仲人は軍隊現役時代の上官(部隊長・教官)水谷一生みずたにかずおであった。

『水谷一生- Wikipedia』からの引用です。

三重県出身。農業・水谷専松の長男として生まれる。富田中学校を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第51連隊付となる。陸士付などを経て、1934年(昭和9年)8月から1937年(昭和12年)1月まで秩父宮ちちぶのみや雍仁やすひと親王付武官を務める。

その後、陸士教官となり、1937年8月、歩兵少佐に昇進し、1938年(昭和13年)5月まで陸軍大学校で専科学生として学ぶ。同年5月、第16師団参謀に就任し、参謀本部員(大本営研究班)を経て、1940年(昭和15年)8月、歩兵中佐に進級。

1943年(昭和18年)3月、東部軍参謀に発令され、1944年(昭和19年)8月、陸軍大佐に昇進した。1945年(昭和20年)1月、第12方面軍参謀(防衛)となり、同年6月、近衛第1師団参謀長に転じた。

同年8月15日、宮城事件で上官の森赳もりたけし中将が殺害され、その報告のため井田正孝中佐とともに東部軍管区司令部へおもむいた。井田は東部軍管区の決起参加を求めたが、田中静壱しずいち軍司令官は既に事件鎮圧を決定していた。同日、水谷は東部軍管区司令部付となり、同年12月、予備役に編入された。長男は音楽家の水谷公生。

2、貴様、嫁を貰ったか!

昭和6年(1931年)当時、「水谷一生」氏が、名古屋市中区の歩兵第6連隊に赴任ふにんしていたので、名古屋市中区在住の三浦芳聖が面会に行くと、次のような会話が交わされ、見合いを経て、とんとん拍子に結婚に到った。「水谷一生」氏の従弟・水谷益清氏(医学博士)が、野村 鈴の従兄という関係であった。

歩兵第6連隊の兵舎(明治村)

(水谷)貴様、嫁を貰ったか。
(芳聖)一生貰わん。こういう(維新)運動をやっているから、いつ何どき監獄へぶち込まれるか分からん。そうなると、かえって、足手まといになるだけだ。
(水谷)貴様はそんな意気地なしか。
(芳聖)なにが。
(水谷)明治維新の勤皇の志士梅田雲浜うんぴんを見よ。妻は病床に伏し、児は飢えに泣く、挺身ていしん直ちに戎夷じゅういを払わん。妻があろうが子があろうが、そんなものは弊履へいりの如く振り捨てて天下国家の為に向うというのが本当の丈夫ますらおというものだ。
(芳聖)よし、それなら貰おう。
(水谷)そんなら俺が世話をする。
(芳聖)年はいくつだ?
(水谷)|丙午《ひのえうま》だ。
(芳聖)丙午なら二つ違うだけだ。
(水谷)まさか三浦は丙午だから嫌だなどと迷信めいたことを言うまいな。
(芳聖)私はいいけれど、私の母が丙午が大嫌いで。私は母親の言う事は絶対で、母の言う事を聞かなくてはならない。
(水谷)よし、それならついでに今から行こう。

三浦芳聖著『串呂哲学と地文学』(昭和39年9月15日発行)  *読み易く
するため、要旨を変えず、原文を編集した事をお断りしておきます。

という話になり、そこで、二人は、当時、名古屋市伏見区在住の芳聖の母・元子を訪ねて行った。

(水谷)実は貴女の息子に嫁を世話しようと思うが。
(元子)これが変わり者で、貰えと言っても一生貰わぬと言っております。
(水谷)ところが、貰うと言っております。
(元子)ああそうですか。
(芳聖)貰うという人は丙午だ。
(元子)そういう丙午なんと云うことは迷信でございまして。

三浦芳聖著『串呂哲学と地文学』(昭和39年9月15日発行)  *読み易く
するため、要旨を変えず、原文を編集した事をお断りしておきます。

3、野村鈴とお見合い

水谷元教官は、再婚する気になった芳聖に速攻で、水谷元教官の従弟いとこ・水谷益清ますきよ氏(医学博士)の母方の従妹いとこである「野村 すず」との見合いを勧めたのです。

しかし、野村 鈴の干支えとが、明治39年(1906年)の丙午ひのえうまだったため、丙午ぎらいの母・元子が反対するだろうことを理由に、縁談をことわろうとする芳聖に、水谷元教官は、今すぐ母・元子に会いに行こうと提案し、即実行したのでした。

💫当時、国事に奔走していた芳聖は、皇国維新運動を推進するため、時間があれば先輩や同志を訪問しては親交を深め、情報収集に当たっていました。この水谷元教官を訪問したのも、その一環でした。ちなみに、この時代の生活費は、著書の印税収入のみでした。😊😊😊

三浦芳聖著『串呂哲学と地文学』(昭和39年9月15日発行)  *読み易く
するため、要旨を変えず、原文を編集した事をお断りしておきます。

🟡母の変心により「お見合」に

明治39年(1906年)、丙午ひのえうま年の男児(元一)を出産し、その7年後に夫の急死、破産、一家離散を経験した芳聖の母・元子は、丙午が大嫌いで、常々、丙午生れは「身上しんしょううか、親喰うか、子を喰うか!」と言っていました。

しかし仲人が、陸軍士官学校出身で、恩賜おんしの軍刀を貰った水谷一生みずたにかずおであり、その親が三重県桑名くわな深谷ふかや村の村長だったので、自分の親が額田ぬかた郡宮崎村の村長で愛知県会議員であったのを誇りにしていた母・元子は、

丙午ひのえうまなんと云うことは迷信でございまして・・・」

と、いつもとは真逆まぎゃくの事を言い出し、芳聖は思いもよらず、あれよあれよという間に、2歳年下の丙午ひのえうま年の女性と見合いをする運びとなったのでした。😊😊😊

数日後、芳聖は野村 鈴と見合いをしました。どういう風の吹き回しか、母・元子が、「私が見なけりゃ」と言って芳聖のお見合いの席に同席したのです。あれだけ嫌いだった丙午ひのえうまの女性とのお見合いに同席するなど、あり得ない事でした。

🟢下記は、見合い後の母・元子と芳聖の会話です。

(元子)何を話してきた?あの子なら気に入ったが、あの子ならお前のような変わり者の所へ来てもうまくいくだろう。
(芳聖)心配せんでも断ってくるから。
(元子)どんな事を話したんだ。
(芳聖)私のような者の所へ来たら、それこそいつ死刑になるような事をやるか分からない。子供が出来たあとに後家ごけにでもなったら、それこそ苦労しなくてはならない。女の結婚なんと云うものは、一生の大切な事だからよく考えられてと、なるべく断られるように話した。
(元子)見合いにそんな事をいう者があるか。

三浦芳聖著『串呂哲学と地文学』(昭和39年9月15日発行)  *読み易く
するため、要旨を変えず、原文を編集した事をお断りしておきます。

天下国家の為に、維新運動に没頭ぼっとうしている上に、一子相伝、極秘の三浦皇統家のことなどを思うと、結婚には乗り気の無い芳聖でしたが、それから2、3日すると、仲人の水谷元教官が芳聖の所へやって来て、

(水谷)いつ結婚式をやる?
(芳聖)いいと云うのかね。
(水谷)「見込みのある人だから一緒になる」と言っている。
(芳聖)それなら貰おう。

三浦芳聖著『串呂哲学と地文学』(昭和39年9月15日発行)  *読み易く
するため、要旨を変えず、原文を編集した事をお断りしておきます。

という運びとなり、

芳聖は、昭和6年(1931年)12月9日、名古屋市昭和区の御器所八幡宮で水谷一生元教官の媒酌ばいしゃくで、「野村 鈴」と結婚式を挙行したのです。数えの28才(満齢で27才)の時でした。

名古屋市昭和区御器所八幡宮
名古屋市昭和区  御器所八幡宮(YAHOO!JAPAN地図)

*コラム・超世志のここだけの話
 丙午の迷信についてですが、神風串呂史観を取る私としては、串呂かんろ主宰神しゅさいしんである大御神が、この迷信に深く関与していると考えています。

維新運動に没頭していて「一生嫁は貰わない!」という芳聖に嫁を取るには、丙午の迷信で縁遠く半ば結婚をあきらめている女性なら、嫁に行きそびれるよりましと、国事を優先する芳聖と結婚するだろうからです。

実際、芳聖の妻となった野村 鈴は、半ば結婚をあきらめていて、三重県度会わたらい郡南伊勢町村山の田舎から名古屋に出て、お茶やお花の名取なとりに成るべく稽古けいこに励んでいました。

大御神の御子派遣計画通り、野村 鈴は嫁に貰ってくれるなら、たとえ維新運動の為に家庭をかえりみないと思われる芳聖でもいいとして、結婚を承諾したのだと推察しています。

もちろん、芳聖の人物についてよく知っている、野村 鈴の親族の水谷一生が責任以て強く薦めた縁談だったからでもありますが。😊😊😊

4、三浦芳聖と野村 鈴の結婚の串呂

まことに不思議な事ですが、三浦芳聖の降誕地と野村 鈴の降誕地とを結ぶと、下記の串呂図のように、「⛩皇大神宮内宮」と「二見浦ふたみうら夫婦岩みょうといわ」を串呂しています。💗💛🧡

💖皇大神宮内宮の大御神が、最愛の御子芳聖の仲人神であるのです。世俗の仲人は、水谷一生元教官で、芳聖は、仲人の名前の通り、一生添い遂げてくれる素晴らしい妻を得たのです。

三浦芳聖著『皇大神宮を中心とせる神風串呂』16頁 現住所に改め、熊野灘を追加しました!

桂城」(三・紀北町海山区島勝浦)-「三浦芳聖の妻、野村鈴誕生地」(三・度会郡南伊勢町村山)-「⛩皇大神宮内宮」(伊勢市)-「二見浦夫婦岩」(伊勢市二見町江)-「佐久島」(愛・西尾市一色町)-「三浦芳聖降誕地・牧平大門」(愛・岡崎市牧平町)

(三浦芳聖著『皇大神宮を中心とせる神風串呂』16頁、クリックで拡大)

皇大神宮内宮2
伊勢市宇治館町(地図マピオン)

三浦芳聖の結婚の仲人神は「天照大御神様」、世俗では「水谷一生」氏で、芳聖は、仲人の名前の通り、一生添い遂げてくれる素晴らしい妻を得た。

二見浦
二見浦夫婦岩(伊勢市二見町江)

💝結婚当時の芳聖の姓名は「三浦慶定けいじょう」で、桂城かつらぎは「けいじょう」と読めるのでは、島勝浦の桂城は、慶定けいじょう(三浦芳聖)を表わす地文なのです。

🟠慶定けいじょう桂城かつらぎ(けいじょう)

🟢鈴島(すずしま、三重県北牟婁郡紀北町三浦)
野村 鈴を表わす地名です。

住所が、紀北町三浦の鈴島である事にご注目ください。

鈴島が、この串呂線上から外れているのは、熊野灘の荒波に削られ島の面積が小さくなってしまったからだと推察しています。

🟢二見浦夫婦岩は、三浦芳聖の結婚を表わす。

🟢佐久島は、大宝天皇が牧平大門に移住するに当たって、皇后「三浦佐久姫」が、大宝天皇を助けて、物心ともに多大なる貢献をしたことを表わす。

【参照】三浦芳聖の結婚の神風串呂の詳細は、下記を参照ください。


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🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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