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神皇正統 第九八代 小松天皇(興良/おきよし)

このオンラインブックは、神皇正統 第九八代 「小松天皇(興良おきよし)」について述べたものです。

小松天皇(興良)は、下記の略系図のように、明治天皇(睦仁)の遠祖である「光良みつなが親王」の祖父に当る皇祖神であります。

神皇正統の皇統略系図『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 序文

🟢串呂について初めての方は下記を参照下さい。



1、概説

小松天皇(こまつてんのう)
いみなは、興良(おきよし・おきなが)。三浦芳聖の遠祖で、三浦皇統家第三代の天皇。遠江宮とおとうみのみや

建武元年(1334)3月14日生- 天授元年(1375)崩(42才)。
在位・正平23年(1368)3月23日 - 文中2年(1373)5月26日。
父・宗良親王、母・狩野介かののすけ貞長さだながの女(京極局駿河姫)、第一皇子。
皇后・小室門院元子内親王(興国天皇第二皇女)。

興国天皇(守永)より譲位された。常陸太守・征東将軍に任じられ興国天皇(守永)や父・宗良親王と共に各地を転戦した。秋葉城が陥落したため今川氏に捕えられ京都に連行され幽囚の内に崩御。終焉の地不明。

皇居は山梨県富士吉田市大明見。静岡県浜松市浜北区小松(上記WEB地図参照)に行在所があったので、小松天皇の贈り名が付けられた。

御陵は、静岡県磐田市神増原台上(磐田原台地ともいう)、
および愛知県豊川市八幡町上宿「船山御陵」(船山古墳)

小松天皇(興良)の御陵のある静岡県磐田市神増原(国土地理院地図)

🟠1948年、小松天皇の皇后「小室門院元子内親王」の御陵を発見する契機となった霊示が三浦芳聖に降りたのが、静岡県磐田郡豊岡村惣兵衛下新田の「M家」であったことから、この神増原のある磐田市豊岡地区は、小松天皇や小室門院に仕えた南朝遺臣の子孫の土着した所であると思われる。

2、生涯の歩み

建武元年甲戌(1334年)3月14日、小松天皇(興良)降誕。母親の駿河姫が、産後、病気の為早世したため、叔母に育てられた。

元弘3年(1333年)、7月4日、元弘の乱、鎌倉幕府滅亡。
建武2年(1335年)、鎌倉にて護良親王殺害される。
延元2年(1337年)、3月6日、越前金ヶ崎城陥落。尊良天皇御自害。
延元3年(1338年)、北畠顕家戦死、新田義貞戦死。守永親王、宗良親王と共に井伊谷に入る。(元弘日記裏書)
延元4年(1339年)8月16日、後醍醐天皇崩御(吉野)。

延元5年・興国元年(1340年)、三岳城・井伊谷城が落城した後、大平城が陥落し、宗良親王は、越後国(新潟県)の寺泊(現・新潟県長岡市)や、越中国(富山県の放生津・現・富山県射水市)などに滞在した後、興国5年/康

永3年(1344年)、信濃国(長野県)伊那郡の豪族・香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現・長野県大鹿村)に入った。興良親王は、父・宗良親王と行動を共にしていたと思われる。(詳細不明)

興国2年(辛巳/1341年)年、小室門院元子内親王降誕(小室宮下の舘)。

正平7年(1352年)、三浦義勝戦死。閏2月、小松天皇(興良)笛吹峠合戦で敗れる。小松天皇(興良)は、遠江・秋葉城の天野景顕を頼る。

正平11年(1356)、小松天皇(興良)は、元子内親王(興国天皇皇女)と結婚。御父・宗良親王と共に、各地を転戦した。

興国天皇(守永)が宗良親王と共に行動していた関係で、宗良親王の皇子興良親王は、興国天皇(守永)の皇女・小室門院元子内親王のお婿さんに選ばれたと思われる。

正平19年(1364)8月8日、皇子正良親王(松良天皇)降誕。富士の皇居。

正平23年(1368年)3月11日、南朝副統の後村上院崩御。(南朝の前衛である吉野朝で、南朝副統の後村上院が亡くなった後を受けて長慶天皇が即位したので、同年3月23日、興良親王は南朝正統の興国天皇(守永)より譲りを受けて践祚。皇居は山梨県富士吉田市大明見。御父・宗良親王と共に、各地を転戦した。(三浦芳聖・大著142頁)

小松天皇の在位期間は、正平23年(1368年)から文中2年(1373年)までの5年間であるが、この間、当時の状況は武家(足利)方と宮(南朝)方が入り乱れて激しい戦闘を繰り返す日々が続いていた。

また即位した正平23年(1368年)は、南朝副統の後村上院が亡くなり(3月11日)、また同年7月21日には新田義宗が戦死し、翌正平24年(1369年)には、楠木正儀が三代将軍足利義満に降伏するなど南朝の大受難期であった。

正平23年(1368年)7月21日、新田義宗戦死。
正平24年(1369年)、楠木正儀が三代将軍に立った足利義満に降伏。
文中2年(1373年)5月26日、皇子・松良天皇(正良)に譲位。(三浦系図)

小松天皇は、文中2年(1373年)5月26日、皇子・正良親王に譲位したあと、小松上皇として逆賊討伐のため出陣し、宗良親王、興国天皇(守永)らと共に各地を転戦した。(三浦芳聖)

文中2年(1373年)には、遠州秋葉城(静岡県浜松市天竜区春野町領家)の戦いで矢折れ弓尽きるまで奮戦したが、遂に城は陥落した。逃走中に今川氏の手の者に捕らえられ、京都に連れ去られる。(三浦芳聖)

「天野文書」に、「正平8年5月上総かずさ親王が、今川範国の手に捕らえられた」という記事があると田中義成の『南北朝時代史』第64章に出ています。年月は異なっていますが、小松天皇に関係がある記事かもしれません。『ウィキペディア』興良親王には、下記のように「興良は駿河の狩野貞長の家に生まれ、常陸太守に任じられた。」とあります。

『桜雲記』『信濃宮伝』を始めとする近世俗書では、興良親王は宗良親王の王子(母は狩野貞長の女・京極局)とされ、護良親王王子の陸良親王とは別人に扱われている。それらの記すところによれば、興良は駿河の狩野貞長の家に生まれ、常陸太守に任じられた。正平7年/観応3年(1352年)閏2月笛吹峠合戦で敗れた後は、遠江秋葉城の天野景顕を頼って遠江宮とも号した。ところが、正平14年/延文4年(1359年)4月今川範国に攻撃されて秋葉城が陥落したため、興良は景顕に奉じられて入京し、大叔父の二条為定の許に預けられた。やがて武家方に囚われて捕虜となり、天授3年/永和3年9月10日(1377年10月12日)病のため37歳で薨去したという。
『ウィキペディア』興良親王

天授元年(1375)、小松上皇は京都で足利氏により拷問に付されて日々衰弱し、遂に牢内にて崩御した。玉体の埋葬場所不明。享年42歳(三浦芳聖、神界からの霊示に依る)。

遠州小松(静岡県浜松市浜北区小松)に行在所があったので、小松天皇の贈り名がついた。

御陵は、静岡県磐田市神増原台上の正陵磐田原台地ともいう)と
愛知県豊川市上宿の船山御陵(船山古墳)がある。(三浦芳聖)

3、皇后・小室門院元子内親王

小松天皇の皇后・小室門院元子内親王は、興国天皇の皇女で母は花山院大納言師賢の女・藤原茂子。興国2年(1341年)富士の皇居、小室城宮下の館で降誕。詳細は下記をご覧下さい。

4、小松天皇の贈り名の由来

小松天皇は、三河より遠江に入って井伊谷宮の東約10キロの小松の地に仮宮を設けて行在所とした。小松は古く遠江国佐野郡小松郷と称された土地で「和名抄」には「古万都」と出ている。興良親王を小松天皇といったのは、この地名による。現に静岡県浜松市浜北区に小松の地名が残っている。
「加茂喜三『富士"隠れ南朝"史』(富士地方史料調査会、1987年)要約」

5、小松天皇御陵

静岡県磐田市神増原(国土地理院地図)

小松天皇の御陵は静岡県磐田市神増原台上の正陵と愛知県豊川市上宿の船山御陵がある。(両御陵とも根拠は「三浦家古記録」による)

神増(かんぞ)=神蔵(かんぞう)=天皇の御陵。

(1)正陵

小松天皇の御陵のある「磐田原台地」(三浦家古記録)

静岡県浜松市浜北区の小松から天竜川を挟んで対岸に神増原という台地がある。現在は静岡県磐田市神増に編入されているが、ここに小松天皇の御用邸があり、小松からは東に約6キロの地点で左程苦労することもなく徒歩で渡河できた。それで敵の来襲に備えた緊急避難の地としたわけだが、小松天皇はしばしばここに行啓し、樵夫や農夫に身をやつした遺臣を謁見したり作戦を練ったりした。

小松天皇が秋葉城の戦いで敗れ、今川氏に捕らえられて京都に送られたのち、足利氏の手で拷問に付されて牢死したという知らせを聞いた遠江や三河、駿河の臣下らが松良天皇の勅許を仰いで、縁故の地である神増原御用邸の内に御陵を築き遺品などを納めて葬った。これが現在の静岡県磐田市神増原台上の御陵である。

「加茂喜三『富士"隠れ南朝"史』(富士地方史料調査会、1987年)要約」

(2)船山御陵・天皇神社

豊川市船山
豊川市八幡町上宿の船山古墳(上宿神社)(地図マピオン)

小松天皇の船山菩提陵ふなやまぼだいりょうは、応永18年(1411年)小松天皇37回忌・長慶院法皇3回忌に松良天皇が制定した菩提陵で、松良天皇の隠棲地「萬松山大通寺の薬師堂」(豊川市御油町西沢5)から見渡せる位置にある。俗称「天皇山」「船山」。(三浦芳聖)

画像1
以前の船山古墳

この菩提陵は、船山古墳という古代古墳跡を利用して建立されたものであり、この船山古墳の後円の部分が上宿うえじゅく神社=天皇神社で、小松天皇と長慶院法皇の二基の墓石が残っています。

画像2
往昔の船山御陵の小松天皇と長慶院法皇院の神洞
往昔の愛知県豊川市上宿の上宿神社

地元では春秋二季に「天皇神社」の幟旗のぼりばたを掲げて祭礼を行う慣例になっていた。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』143頁)。

天皇神社幟小
「三河吉野朝の研究」巻頭写真

天皇山(船山御陵)を囲繞して修験宗十三ヶ寺ありしを証する古帳簿を保有す。(山口保吉『三河吉野朝の研究』34頁/山口究宗堂/1940年)

上宿(うえじゅく)は、神宿(かみじゅく)の諺文。(上=かみ=神)

地元では、この古墳(丘陵)は平安朝時代に三河守であった大江氏が姫の遊場に築造したものと伝説しています。
(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』143頁)。

船山は佛説より起因し神代の天の浮橋の義なり。世界を済ふの道は彼岸に達せざるべからず、船なくして聖徳を普く弘通する能わず。依て天皇の御功徳は佛徳と同ふし釈尊に喩へしを以て。鎮寿し奉り御山を船山と尊称し奉る。
(山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』86頁)

🟠船山古墳山頂に鎮座していた上宿神社は、令和3年(2021年)10月17日に東側麓に遷座されました。

船山古墳の山頂から東側麓に遷座された紙宿神社(二基の石祠)

【参照】上宿だより
【参照】上宿神社(東三河を歩こう)
【参照】船山古墳(愛知県豊川市八幡町上宿33)
【参照】古墳発掘に伴い豊川の上宿神社遷座(東愛知新聞)
【参照】麻生田町大橋遺跡 土偶A  17:菟上足尼の墳墓か
(2021年11月12日付の船山古墳と上宿神社の現場踏査レポート)

  🟢古墳発掘に伴い豊川の上宿神社遷座(東愛知新聞より転載) 
 豊川市八幡町上宿の上宿神社、船山古墳の発掘調査に伴い神体の場所が移される選座が行われた。新たな神社の境内は、集会所と一体となった住民憩いの場としても期待されている。
 上宿神社はもともと高さ6以上ある三河地方最大の前方後円墳、船山古墳の上部にあった。周辺道路の拡幅工事に伴う調査の一環で、神体が古墳の東側に移された。今年4月から行われていた参道や鳥居、賽銭箱などの整備も完了し、同神社氏子会による遷座式には地元町民ら約200人が参列した。
 神体をまつる社には、以前と同様に火災予防にご利益のある秋葉神社と、疫病退散などを祈願する津島神社の御札が掲げられている。正月には300人近い住民が参拝に訪れるが、新たに整備された境内には階段もなく、広いスペースもあり、より訪れやすい環境となった。また、北側にある上宿第1集会所とは小さな階段で行き来でさるよう整備された。
 上宿地区は西部土地区画整理事業で若い世代が増えており、1000世帯以上が暮らす。市は今後、船山古墳を史跡公園として整備する方針で、植樹などによる景観の向上も想定される。氏子総代の高木朗さん(78)は「ここを町おこしの拠点にしたい。子どもからお年寄りまでが集まれる場所にしたい」と話した。(由本裕貴)

古墳発掘に伴い豊川の上宿神社遷座(東愛知新聞)

6、小松天皇と後小松天皇

明徳3年(1392年)の明徳の和約めいとくのわやくと呼ばれる「南北朝統一」のあと、吉野朝の南朝副統・第九九代「後亀山天皇」から皇位を継承した後小松天皇(第百代)の名前はよく知られていますが、「小松天皇」は、まったくと言ってよいほど知られていません。

宇多天皇ー後宇多天皇
醍醐天皇ー後醍醐天皇
村上天皇ー後村上天皇
・・・・・・・・・・
小松天皇ー後小松天皇

というように、後小松天皇の前に「小松天皇」が存在しなければなりません。

特に、57年も続いた「南北朝争乱」の後に、南朝から皇位を継承した後小松天皇ですから、その前に南朝の「小松天皇」が存在したのです。

南朝の皇位を継承して皇位に就いた第百代幹仁もとひと天皇の贈り名に「後小松」が選ばれたのは、偶然ではありません。

南朝正統家に「小松天皇」がいたことを暗示しているのです。一種の暗号です。知る人ぞ知る最高機密なのです。

神皇正統の皇統略系図『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 序文

🟢北朝・後小松天皇(幹仁)の贈り名について(参考資料)
 北朝・後小松天皇(幹仁)の贈り名について、後小松天皇は、贈り名に「後」の字がついているが、それ以前に小松天皇がいない。何事にも先例を重んずる朝廷にしては、「小松-後小松」の前後関係が整っておらず、不自然である。実際は、小松天皇は存在したが、北朝方の都合で歴史から抹殺されたからであろう。
加茂喜三『富士"隠れ南朝"史』(富士地方史料調査会1987年)310頁要約

7、新葉和歌集巻十九(哀傷歌)より

長月の末つ方やまひ重くなりて今は限りになりぬる由申しおこせ侍りし序に 

読み人知らず(小松天皇)
いかに猶 なみだを添えて 分けわびん 親に先だつ 道芝の露

返し 中務卿宗良親王
われこそは 荒き風をも 防ぎしに 独りや苔の 露はらはまし

8、小松天皇の崩御年について

小松天皇の崩御年については、下記の3説があり、いずれとも決めがたいが、小松天皇の嫡孫である三浦芳聖の著書に書かれてある(3)説を採用した。

(1)天授3丁巳年(1377年)崩御説

南朝紀伝「天授三年宗良親王の御子、興良親王、北朝のとらはれとなり、年久し。今重き病を受け給ひて歌一首を詠みて父御子に送り給ふ。いかに猶なみだを添えて分けわびん親に先だつ道芝の露」

後醍醐源氏 『系図纂要』 興良親王
 母狩野介藤原貞長女
 興国三年 生 正平八年閏二ノ 入遠江国秋庭城 同十四年四ノ被謀入京
 天授三年九ノ十病薨于京卅七 號遠江宮

(2)天授2 丙辰年(1376年)崩御説

井伊谷宮略記「親王の第一子興良親王は、今川氏の為に秋葉城にとらはれ給いて、父親王に先立つ事九年、天授三年北京にて幽囚の裡に薨ぜられ、第二子尹良親王は親王薨じて十一年の後、応永三年信濃浪合にて逆徒のために戦没せられ、御父子の熱血王事に注ぎ尽して腹余瀝無し・・・」

父・宗良親王は元中2年(1385年)薨去。その9年前は、天授2年(1376年)となる。

(3)天授元乙卯年(1375年)崩御説

「船山御陵(愛知県豊川市八幡町上宿)は、応永18年(1411年)辛卯年の小松天皇37回忌・長慶院法皇3回忌に松良天皇が建立した菩提陵で、地元では春秋二季「天皇神社」の旗を掲げて祭礼を行う慣例になっている。」応永18年(1411年)から36年(37回忌)を引くと天授元年(1375年)となる。
『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(143頁要約)

9、小松天皇の神風串呂

🟣小松天皇を表わす地文「小松」

遠州小松
静岡県浜松市浜北区 小松(地図マピオン)

(1)⛩皇大神宮内宮と小松天皇御陵の神風串呂

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第四章
「皇大神宮内宮」と「藤太夫島」の神風串呂

(2)「竜巻現場」と「名鉄鳴海駅」との神風串呂(№47)
(3)「大君」「三浦」「小松三串」の神風串呂(№48)
(4)竜巻現場と小松(西宮市)との神風串呂(№48)
(5)竜巻現場と小松(大阪市)の神風串呂(№48)
(6)竜巻現場と小松(設楽町)との神風串呂(№48)
(7)八尺鏡野と竜巻現場との神風串呂(№49)
(8)皇大神宮内宮と船山御陵の神風串呂(№63)
(9)小松天皇御陵と香取との神風串呂(№64)
(10)大鳥居三串、小松天皇(興良)の神風串呂 (№65)
(11)小松天皇御陵と播州西山との神風串呂(№66)
(12)浜北区の小松と船山御陵との神風串呂 (№67)
(13)八頭町の三浦と設楽町の小松との神風串呂(№68)
(14)天照(福知山市)と両「小松」との神風串呂(№69)



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神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
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