天母妙覚之大神 小室門院元子媛命
天母妙覚之大神と称え奉る小室門院元子媛命は、偉大なる御神力を備えた大変御神徳の高い大神様であります。
小室門院元子媛命は、後醍醐天皇の皇孫・興国天皇・御名守永の皇女で、後醍醐天皇から内伝に継承した三種の神器を奉持しておられた天津日嗣の皇后であり女性天皇でありました。
三河各地を踏査し、口碑による伝承を収集した藤原石山の著書には、
「南朝正統第九八代長慶院小松天皇(元子内親王)」、「日嗣の御子 天照大神の再現」「東海の女王」として尊敬されました、と考証しています。
*「南朝正統皇位継承論」(藤原石山)
*「三河に於ける長慶天皇伝説考」(藤原石山)
(南朝正副二統身代り王子の皇系々譜/藤原石山)
🟠小室門院元子媛命が、実質的には女性天皇であったことを表わす「大神」「鏡池」を通る皇大神宮内宮と小室門院元子媛命御陵「妙覚塚」との神風串呂
愛宕山は皇后を表わす。大己屋山は大物を表わす。小松は小松天皇を表わす。大神・鏡は天皇を表わす。鏡池は女性天皇を表わす。
🟠妙覚(みょうかく)とは「女性天皇」を表わす!
静岡県牧之原市大寄の天母妙覚の大神・小室門院元子媛命の御陵「妙覚塚」が、女性天皇または皇后の皇陵であることは、上記の神風串呂と「妙覚」の「無上、最上位、最高位」などの意義からも拝察できると思います。
「妙」の「女偏」は、被埋葬者が女性である事を表わし、「妙覚」=「女性天皇または天津日嗣の皇后」の隠語であります。小室門院が崩御した時代の制約により、このような仏教用語を用いて「隠祀」したのであります。
小室門院元子媛命は、南北朝時代の興国2年(1341年)に富士谷御所小室宮下の館(富士吉田市大明見)で降誕されました。
🟠小室門院元子媛命が降誕された富士吉田市大明見の地図
御父は、後醍醐天皇の皇孫にして猶子である「興国天皇・御名守永」。
御母は、花山院大納言(贈太政大臣)師賢の女・藤原茂子。
下記の神皇正統の皇統略系図のように、第百代大宝天皇および明治天皇(睦仁)の遠祖・光良親王の御祖母に当ります。
正平11年(1356年)、御年16歳で|興良《おきよし》親王(宗良親王第一王子)と結婚されました。
この当時の行在所は、富士吉田市大明見の富士谷御所、浜松市浜北区小松、磐田市神増原などでした。
正平19年(1364年)、富士谷御所において、第二皇子正良親王(松良天皇)を御出産されました。24歳
正平23年(1368年)、興良親王が践祚されると同時に皇后に就任されました。(実質的には小室門院元子媛命が天津日嗣の御子)28歳
文中2年(1373年)、興良親王が、遠州秋葉城(静岡県浜松市天竜区春野町領家)の戦いで敗れ、逃走中に今川氏の手の者に捕らえられ、京都に連れ去られたあと、御子の正良親王(松良天皇)が幼少だったため中継ぎの天皇(南朝正統第九八代長慶院小松天皇・元子内親王)として践祚されました。33歳
文中3年(1374年)、小室門院元子媛命は、南朝副統・後村上天皇第一皇子寛成親王と再婚されました。寛成親王は、興良親王の名代として南朝正統第九九代松良天皇(御名正良)の摂政となり、太上天皇の尊号を蒙られました。34歳
天授2年(1376年)、長慶院法皇が三河御所望理原(豊川市国府町小田渕町、森町付近)に仙洞御所「王田殿」を建設されるや、小室門院元子媛命も三河御所に行在されました。36歳
(王田渕→小田渕、望理→森)。
🔴三河御所望理原の仙洞御所「王田殿」の念仏堂(平成6年花火もしくは不審火により焼失)
小室門院元子媛命(南朝正統第九八代長慶院小松天皇)は、檜御前、日嗣の御子、天照大神の再現、東海の女王と称えられ三河の人々から尊崇されました。
(檜=日の木/陽の木)
天授5年(1379年)9月20日、三河御所が崩壊したため、小室門院元子媛命は長慶院法皇と共に富士谷の御所(山梨県富士吉田市大明見)にお戻りになられました。39歳
元中5年(1388年)、足利義満率いる大軍に富士谷の御所(富士吉田市大明見)を急襲され、小室門院元子媛命は、静岡県牧之原市大寄萩間へ落ち延び言語に絶する艱難辛苦に遭遇され、48歳
応永元年(甲戌/1394年)非業の御最期を遂げられました。54歳
御陵は、静岡県牧之原市大寄の通称「妙覚塚」。
🟠奉称天母妙覚之大神 小室門院元子媛の御陵
🟠小室門院元子媛の御陵発見時に、三浦芳聖の霊眼に映じた「妙覚塚」のおよその位置を表わす神風串呂図(5万分の1の地図)
上記の図は、小室門院元子媛の御陵発見時に、三浦芳聖の霊眼に映じた「妙覚塚」のおよその位置(*鈴木註)を表わす神風串呂図。国土地理院発行の5万分の1の地形図「掛川」と「御前崎」2枚で確認できる。串呂は実に的確なものです。
(*鈴木註/およその位置・・・太平洋プレートが日本列島の下に沈み込む関係で、日本列島が隆起したり沈降したり湾曲したりするので、時代によって位置が少しずれる場合もある。)
堀之内は御陵を表わす地文。鬼女新田は、非業の御最期を遂げたため、怨霊(大蛇)になっていた事を表わす地文。
ただし、現在は、昭和23年(1948年)10月に厳修された三浦芳聖の秘法祭祀により浄霊され、御神徳の高い皇霊(大神)になっている。
🟡三浦芳聖師が建立した⛩天母妙覚之大神のお社(1958年頃)
🟠妙覚塚のある牧之原市大寄、菅ヶ谷付近の地図
💞小室門院元子媛および「妙覚塚」についての詳細は下記を参照下さい。🟠小室門院元子内親王
🟣小室門院元子内親王の神風串呂
参考資料
三浦芳聖『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(神風串呂講究所/1970年)
三浦芳聖『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版(串呂哲学研究会)
藤原丸山『南朝正統皇位継承論』(南朝史学会/1988年新版)
藤原石山『三河に於ける長慶天皇伝説考』(南朝史学会/1979年)
🔴神風串呂の集大成、三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は、国立国会図書館、豊川市立図書館、京都府立資料館、京都大学文学研究科図書館、九州大学附属図書館にありますので、誰でも読むことが可能です。
串呂(かんろ)とは
串呂(かんろ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。
元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだと言われていますが、その結界とは、神風串呂(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。
神風クシロ(串呂)は、地文(地名)を研究することで天地神明の存在を認識することのできる神道皇霊学で、神国日本再建のために皇祖神によって構築されました。
地名(地文)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。
神風串呂(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!
串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺の末に構築された神風串呂に学び、天照大御神の御霊代である神宝(御鏡)を、富士山麓に奉遷して同床共殿にお祭りすれば、いま危機に瀕している「日本国」を救済する道を切り開き、天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来ると確信しています。
神風串呂(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、群雄割拠の戦国時代(120年以上)に無辜の民が味わった塗炭の苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。
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情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
🟡前号(№262)
静岡県の皇陵祭祀とスプリンクラーの誤作動事故について
🟢次号(№264)
(静岡県内の南朝皇陵について)
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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