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💟神縁に導かれて!-メンバーシップ「神風串呂」を始めました!

🎀串呂哲学研究ノート 第457号

🌷note.comで「串呂哲学研究ノート」を始めて満五ヶ年が経過し、私も今年の誕生日で後期高齢者の仲間入りとなりますので、後の事が心配になりました。

そこで
(1)読者の皆様方のご感想やニーズなどを教えて頂くため
(2)串呂哲学研究ノートの内容充実を計るため
(3)串呂研究の後継者を養成し法燈を継続するため
(4)一般公開できない超極秘情報をお伝えするため
(5)オフラインやzoomによる勉強会を開催するため

などなど、多くの願いをこめて、メンバーシップ「神風串呂」(サークル・コミュニティ)を始めました。

まず、月一記事以上配信の「お試しプラン」、月二記事以上配信の「スタンダードプラン」から開始しました。

将来「マスタープラン」「プレミアムプラン」などの上級コースを実施する計画です。


🍀祈り

全世界の全人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楽しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向上の道を歩み、この世に生まれて来た使命を全うし、大宇宙の進化と発展に寄与させて頂いておりますことに心から感謝いたします!


💌イエローハットの創業者であり、NPO法人「日本を美しくする会」の
相談役でもある鍵山秀三郎氏の言葉

国民一人ひとりが、自分にとって、もしくは誰にとってよいかどうかではなく、本当に何が正しいかどうかを考えて行動するようになれば、どんな問題も解決できるでしょう。

あなた方の議論はすべてどちらが正しいかという議論ばかりで、何が正しいかという議論を聞いたことがない。泥棒と詐欺師どちらが正しいかという議論をして、どちらが勝ったという結論を聞かされても、私から見ると意味がない。


🔴神風串呂を学びましょう!


💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
・・・・・
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)
天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録 青春編 第一分冊(🌷新着)
💟開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道



🔴神縁に導かれて

🌷私は、1950年(昭和25年)、愛知県西尾市平坂町で生まれ、 鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう)と命名されました。母が、同姓同名のジャーナリスト『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版編集長「鈴木文史朗」(1890年3月19日 - 1951年2月23日)にあやかって命名したそうです。不思議な事に同じ干支(庚寅)の生れです!

資料/フロム・ザ・モルグ

🤴父は、1917年(大正6年)生れの職業軍人(元海軍主計兵長)で、戦艦「鈴谷」に乗っていました。

海上で敵艦に出会い海戦が始まると、おにぎりを作って運ぶのが仕事で、それが済むとハッチから首を出して戦闘状況を見物していたそうですが、幸い敵艦が近寄って来なかったので戦闘には至らなかったようです。

母と結婚した1944年(昭和19年)の夏頃は、「くれ」「小倉こくら」などで内地勤務をしていました。食糧の仕入れ係だったので、戦時中でも食べ物には困らなかったようです。

最前列向って左から3人目「昭和12年6月入団 四等主計兵 修業記念アルバム」より
「昭和12年6月入団 四等主計兵 修業記念アルバム」より

👸母は、1922年(大正11年)生れで鈴木家の跡取り娘でした。女学校で学んだあと、東京の資産家の豪邸で家事見習いをして花嫁修業をしていましたが、戦時中は徴用工として召され、愛知県豊川市にあった豊川海軍工廠で、雷管の検査をしていました。

豊川海軍工廠で多くの犠牲者が出た1945年(昭和20年)8月7日の空襲時は、すでに退職して結婚していました。

私は、生まれるとすぐに、「目を白黒させて呼吸困難におちいる」原因不明の症状が出て、医者から「こんな病気(症状)見たことが無い。まともに育たんだろう!」と言われたようですが、幸い母の機転で卵黄油を飲ませたら治ったそうです。

姉三人の四人姉弟きょうだいで、わがまま一杯の末っ子長男として育ちました。長男とは名ばかりで、力のない末っ子でしたから、気に入らないことがあると、押し入れの中に籠って、ハンガー・ストライキをして注目を集め、母を困らせていたことを記憶しています。😁😁😁

小学校四年から高校卒業まで、クラブ活動で剣道部に所属して身体を鍛えたおかげで、頑丈な体格(身長168センチ、体重78キロ)となりました。

青少年の心身を鍛えるには剣道は最適です。剣道に熱中して練習に励んだ事で、勇気、忍耐力、脳力を開発できた事を確信しています。試合に勝つためには、勇猛心と瞬時に対応できる頭脳(思考回路)を鍛えなければならないからです。輝かしい戦歴については自慢話になるのでやめておきます。

👸母が、某新興宗教の講演会で聞いてきた言葉の力の活用で、「うちの子は、中学生になると一番になる!」と言い続けてくれたお蔭で、小学校6年生時から自ずと学業に励むようになり、中学時代、学校の勉強が楽しかったことを記憶しています。

1963年(昭和38年)中学一年生の一月、当時母が三浦芳聖師の興国書道練成会・神風串呂講究所の門人だった関係で、13才で三浦芳聖師の弟子となり、ご講話を拝聴する神縁に恵まれました。

そのきっかけとなったのが、「串呂哲学第一輯-絶対真理の解明」でした。

「串呂哲学第一輯-絶対真理の解明」表紙
「串呂哲学第一輯-絶対真理の解明」

1957年(昭和32年)の初頭、この著書を紹介して下さった某新興宗教の講師からこの著書を一晩借り受けた母(当時34歳)は、同年二月、巻末に掲載されていた著者宅を訪問し、三浦芳聖師に会う事が出来たのでした。(事前に葉書でアポを取ってから訪問したかどうかは今となっては分かりません。)

この時、三浦芳聖師から開運のために改名することを勧められた母は、その場で家族全員(6名)の改名を依頼しました。恐らく、三浦芳聖師による姓名判断の鑑定が的中したためと思われます。

当時、三浦芳聖師は、神風串呂の普及活動と共に、潜在的な支持者と縁を結ぶため、改名(姓名数理学)を通して真人を育成する衆生救済活動をしておられ、こうした地道な活動で三浦芳聖師の門下生となった方が多数ありました。

「神界伝法-姓名鑑定秘法」表紙(自費出版1955年8月)

私は、1957年(昭和32年)2月19日、満令で6歳(数えの8歳)の時、鈴木登志正と改名して頂きました。姓名鑑定の大家に命名して頂いたというプラセボ効果は大きく、私の人生に大きな影響を与えました。

その後、1957年(昭和32年)、👸母は、三浦芳聖師(当時53歳)が毎月、愛知県高浜市の門人宅(高浜道場支部)に出張して神風串呂の講義をされている事を知り、時々、片道約7キロの道のりを自転車に乗って出掛けて行き、三浦芳聖師の謦咳に接していました。(神風串呂・三浦芳聖師のファンでした。)

当時7歳だった私は、母の自転車に乗せられて、この高浜支部で講義中の三浦芳聖師に御目にかかった事を覚えています。

こうした奇縁により、私は、幼年時に神風串呂、串呂哲学に御縁を頂き、中学時代には、母の勧めで三浦芳聖師の著書を拝読する幸運に恵まれました。

1965年(昭和39年)、中学一年の一月、私は当時三浦芳聖師の門人となっていた母(43歳)と共に、三浦芳聖師の経営されていた神風串呂講究所・興国書道練成会の道場(豊川市)で開催された月次報恩祭つきなみほうおんさいに参列いたしました。

月次報恩祭とは、三浦皇統家に奉斎ほうさいされている天津神・国津神・皇祖皇宗のご神霊に日頃のご守護・こ教導を感謝する神道式の祭礼で、「門人または準門人」及びその家族でないと参列できませんでした。

🌷三浦芳聖師にお会いしたのは、高浜市の高浜道場支部に出張・講義中の三浦芳聖師にお目に掛かって以来、7年ぶりのことでした。

道場の元旦祭で祝詞を奏上する三浦芳聖(1971年1月)

🌷三浦芳聖師が祭主となり、およそ一時間ほど掛けて挙行された月次報恩祭のあとは、三浦芳聖師のご講話となりました。

三浦芳聖師は、初めて道場を訪れた私のために、神風串呂とは如何なるものかを説くために、道場の前方に大地図をかかげ、係の門人に指示棒で話題となっている地名を指示させるなど、中学生の私にもよく分かるように丁寧にご教示くださいました。

その地図は講義用に作られた大地図で、北は福島県南部から南は北九州までの地勢図を貼り合わせ、主要な串呂(線)を墨書ぼくしょし、重要地名を大きく朱書しゅしょしたものでした。
(地勢図=国土地理院発行の20万分の1の地図)

この日の、三浦芳聖師のご講話の主旨は「我が国の南北朝時代以降の皇統正史が地文に秘められている!この地文学(串呂哲学)で、三浦芳聖家が南朝正統家である事を証明できる!」という神秘的かつ驚異的なものでした。

後醍醐天皇

この日のご講話で私は、日本歴史が興味深いドラマに満ちていることに開眼せしめられたばかりでなく、神風串呂という南朝正統家の秘伝により、日本皇統史の真実を解明できることを理解して心底感激いたしました。

三浦芳聖師が、長時間にわたり、中学一年生の私にもよく分かるように熱意を込めて講義して下さったお蔭で、この日、神風串呂の世界に魅せられた私は、帰宅後、母から「三浦先生の弟子になりたいか?」と問われた時に、即座に「先生の弟子になりたい!」と答えました。

いま当時を振り返ると、弟子になりたい!と思ったのは、お世話好きの性格である私は、この重要な情報を広く普及するお手伝いがしたいと思ったからであります。

中学時代に三浦芳聖師のご講話を拝聴したお蔭で、国史や国文学に開眼せしめられた私は、高校時代、古典(古文・漢文)の学習に興味を持ち、寝食を忘れるほど熱中しました。

また、学校では教えてくれない近現代史については、大宅壮一の「炎は流れる」、松本清張の「昭和史発掘」などで独習しました。

高校および大学の受験勉強については、「ラジオ講座」を活用し、学習塾・予備校には一日も行きませんでした。英語も「ラジオ講座」を活用して独習し、ネイティヴから発音がきれいですねと誉められほど上達しました。

1969年(昭和44年)、高校卒業後は、苦学を覚悟で上京する計画でしたが、帝都は学生運動の影響で荒れまくり、東京教育大学(現筑波大学)と東京大学の入試が中止に至るほどで、勉強する環境ではありませんでした。

末っ子で長男の将来を案じた母親の勧めで私は、進学を諦めて三浦芳聖師の神風串呂と興国書道を学ぶ事となり、1969年(昭和44年)1月から神風串呂の学習と興国書道(筆禅道)の修練とを主体とした修行生活に入りました。

🔴修行生活の第一歩

🌷修行生活の第一歩は、愛知県豊川市八幡町の「⛩️三河八幡宮」の境内の落ち葉掃除でした。

懐かしい三河八幡宮の境内

当時、三浦芳聖師は、毎月二回、日曜日の午前中に、門人全員を参列せしめ、⛩️三河八幡宮の本殿に昇殿して、天の下を浄化する特別秘法祭祀(約一時間)を厳修しておられました。

この⛩️三河八幡宮は、「天武天皇だった672年、大分県の宇佐八幡宮(全国に4万社余りある八幡宮の総本宮)に祀られている神の分霊を迎えて建てられた神社です。御祭神として、第一殿に応神天皇、第二殿に三女神、第三殿に神功皇后が祀られています。奈良時代、すぐ隣に三河国分寺が造立されると、八幡宮は同寺の鎮護の神として崇められるようになりました。」「室町時代の1447年に建てられたもので、なんと570年以上の歴史があります。室町時代中期の神社本殿建築の遺構として大変貴重な存在です。」(八幡宮)とあるように、本殿が国の重要文化財となっている由緒のある⛩️八幡宮です。

国の重要文化財 ⛩️三河八幡宮

🌷三浦芳聖師は、戦後の昭和25年(1950年)8月に豊川市市田町諏訪林(現在の諏訪二丁目)に転居後、この⛩️三河八幡宮で太陽凝視直拝の神行を行い、翌、昭和26年には、神界から八十一通りの秘法を伝授されました。

また、下記の様に、神風串呂の上からも極めて重要な⛩️八幡宮であります。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第二章

🌷私は幸運にも、この重要串呂線上にある、貴重な重要文化財である⛩️三河八幡宮の本殿に昇殿させて頂き、三浦芳聖師の特別秘法祭祀を直々に拝受することが出来たのであります。

この施設を毎月二回使用させて頂くお礼として、参列する門人皆で、祭祀が始まる一時間前に⛩️三河八幡宮に集合して境内全域を掃き清める奉仕活動をしていたのです。

およそ一時間ほどの祭祀が終了した後は、諏訪二丁目の道場で興国書道(筆禅道)の修練があり、午後は三浦芳聖師の神風串呂のご講話がありました。

至誠通神を揮毫する晩年の三浦芳聖(1971年)
国土地理院の地勢図を敷いて行われた神風串呂の講義(1971年)

🌷残りの日曜日の内、二回は、⛩️三河八幡宮と同様、豊川市御油町の松良天皇の御陵(現在は⛩️神龍八幡大明神)で行われる天の下を浄化する三浦芳聖師の特別秘法祭祀に先立ち、参道や御陵周辺の掃き掃除や除草作業をしました。

🌷この松良天皇の御陵(現在は⛩️神龍八幡大明神)は、三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』に掲載されている串呂だけでも、十数本もある重要串呂地点で、三浦芳聖師の特別秘法祭祀中に、神秘的な超常現象が発生したのを目撃しました。

祭祀終了後は、「⛩️三河八幡宮」参拝時と同様でした。

松良天皇の御陵(現在は⛩️神龍八幡大明神)

🌷このほかに、毎月15日に行われる月次報恩祭つきなみほうおんさい、30日に行われる三浦家の月次祭つきなみさい、支部道場ごとの例会が月一回ほどありましたので、

幸運にも私は、毎月7日間、多い時は神宮御陵参拝時の随行などが加わり10日間ほど、三浦芳聖師の謦咳けいがいに接する恩恵に浴することが出来ました。

🌷三浦芳聖師は、平安王朝の最後の天皇とも申し上げるべき後醍醐天皇の嫡皇孫であり、富士大宮司 三浦義勝の嫡孫であらせられますので、ヤマト朝廷と富士王朝、両王朝の真の後継者を自任され、神皇正統 三浦皇統家、神皇正統嫡皇孫と自称しておられました。

後醍醐天皇

🌷三浦芳聖師の経営されていた道場には、天神地祇てんじんちぎ、皇祖皇宗の御神霊がお祭りしてあり、三浦芳聖師が祭祀を執り行えば、天照大御神を始めとする皇祖神が御降臨になられますので、三浦芳聖師は、この道場を三浦皇統家大神宮と呼んでおられました。

このような一般社会とは非常に変わった「別世界」に足を踏み入れた私は、ちまたで生活していても、まるで深山幽谷で修行に励む修行僧になったような気持ちがしました。

🌷当時の世の中は、1955年(昭和30年)から始まった高度経済成長期の真っただ中で、ほとんどの国民は物質的繁栄を求めて金儲けに夢中となり、我が国が、異民族に占領支配されている保護国同然の悲しい現実に気付かず、属国政策を続けている政府を支持していました。

このような環境の中で、超能力者であり、由緒正しい神皇正統 三浦皇統家の当主である三浦芳聖師に近侍する修行は容易ではありませんでした。

修行と言っても、滝に打たれたり、断食をしたりとかの荒行をする訳ではなく、三浦芳聖師が実施する祭祀に参列し、興国書道(筆禅道)の修練と神風串呂の講義を拝聴して、三浦芳聖師に近侍する御弟子になりきることが修行でした。

そのためには、個我を叩き割って無私となり、三浦芳聖師に帰一して、いわゆる常識世界から精神的に隔絶して、孤高を保ち続けていなければなりませんでした。

日々の生活を維持するためには、当然のことながら、最低限の収入を得るために経済活動をしなければなりません。しかし、上記のような修行生活を続けるためには、まともな就職先は無く、アルバイト的な仕事しかできません。

🔴私は、楽しかるべき二十歳前後の青春時代を神々に捧げ、三浦芳聖師に近侍する為に、極めて精神的で禁欲的な修行生活に明け暮れしていたのです。

🌷修行生活にも慣れた1969年(昭和44年)の3月、超能力者である三浦芳聖師は、御神示と串呂とで未来が予見できるようで、私のために解明して下さった串呂をお示しになりながら、私に「将来、必ず大成する御弟子の一人である!」「この串呂の通りになるだろう!」という主旨のことを言われました。

その時、国土地理院発行の地勢図を用いて引いて下さった串呂を、WEB地図で確認した所、下記の様な串呂を解明することが出来ました。

⛰️吉野山(奈良県吉野郡吉野町)-平坂町鈴木家(愛知県西尾市)-御弟子みでし集落(山梨県南巨摩郡身延町)-大成町おおなりちょう(埼玉県さいたま市北区)

平坂町鈴木家と御弟子との神風串呂(Google.map)

🌷吉野山は、吉野朝の創始者・後醍醐天皇の⛩️塔尾陵とおのおりょうや⛩️吉野神宮、⛩️吉水神社など南朝ゆかりの施設がある所です。

奈良県吉野郡吉野町 ⛩️吉野神宮
吉野山

🌷御弟子みでし集落(山梨県南巨摩郡身延町折門)は、主として三浦芳聖師の門人を表わす地文です。

三浦芳聖師の帰幽後は、不要となった御弟子集落

🟡御弟子(下部町) (aikis.or.jp)

山梨県南巨摩郡身延町折門(YAHOO!JAPAN地図)

🌷住所の身延町みのぶちょうは延命を表わします。三浦芳聖師の御弟子みでしになることで、寿命が延びたと解釈します。

吉野町の⛰️吉野山を串呂しているのは、我が鈴木家のルーツが吉野山(後醍醐天皇)であるという事だと思います。

これは推測に過ぎませんが、串呂から見ると、我が鈴木家の守護神霊は「後醍醐天皇」と解釈できるのです。

⛰️吉野山(奈良県吉野郡吉野町)-平坂町鈴木家(愛知県西尾市)-御弟子みでし集落(山梨県南巨摩郡身延町)-大成町おおなりちょう(埼玉県さいたま市北区)

🌷この串呂を見ると、計画していた大学進学を諦めて、三浦芳聖師の御弟子になったお蔭で延命(身延町)したと解釈できます。

大学進学のため、学生運動で荒れていた東京へ行っていたら、過労で病気になったり、政治活動に巻き込まれたりして死亡していた可能性が大きいという事です。

実際、私と同年代の若者たちが、連合赤軍事件(山岳ベース事件で12名)を始めとする様々な政治活動に巻き込まれ、若くして死亡しています。

あさま山荘事件・山岳ベース事件

古来「親の意見と茄子なすびの花は千に一つも無駄はない」と申しますが、言い得て神妙な諺であります。

🔴母親の指導を尊重して、三浦芳聖師の門人になって修行する進路を選んで良かったと思うのであります。

🔴三浦芳聖師に近侍する修行生活

🌷三浦芳聖師に近侍する修行生活に入った私は、中学時代にある程度は承知していたものの、改めて三浦芳聖師が日本の歴史上、類例のないほどの優れた霊能力者である事を知りました。

戦後、三浦芳聖師により撮影された神霊写真を全て鑑定した、山本英輔 元海軍大将は、三浦芳聖師を「太古原始の神にまで到達した!」と評価されました。

三浦芳聖師(左)山本英輔元海軍大将(右)

🌷三浦芳聖師は、霊視、霊聴などの霊感霊通は元より、真夏の烈日でも終日太陽凝視直拝ができ、居ながらにして天照大御神と毎日会話が出来、神界より八十一通りの秘法を伝授され、竜巻を起こす事も出来、太陽が赫々かくかくと輝く昼間、招霊して神霊写真を撮影できた、などなど人類史上、かつて類例のない高級霊能力の保有者でした。

快晴の下、太陽凝視直拝をして神霊写真を撮影中の三浦芳聖師。
三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第四章

本来なら、私など、足元にも及ばないどころか、面会すらままならない程の偉大なる霊能者である三浦芳聖師は、和光同塵わこうどうじん、終生庶民的な生活スタイルを変えず、名もない支持者らに支えられて聖業に邁進まいしんしておられました。

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神風串呂にご興味をお持ちの方々のサークル・コミュニティです。お試しプランとスタンダードプランの二つの…

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初月無料

スタンダードプラン

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