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💟崇神王権東遷説立証-⛩️内宮と⛩️靭負神社との神風串呂-崇神天皇‐扶余王依羅説に挑む12
🎀串呂哲学研究ノート 第440号
はじめに
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地名学に基づく古代史研究家である丸谷憲二さん(黄蕨の会代表)は、岡山県瀬戸内市長船町長船天王にある「⛩️靭負神社」は、旧社名を「⛩️崇神天皇社」といい、ここに崇神天皇の皇居が存在したと主張しておられます。
✅⛩️靭負神社(元 ⛩️崇神天皇社)
主祭神
天忍日命
天目一筒神
御眞木入日子印惠命(崇神天皇)
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🟣中央に⛩️崇神天皇社、東側に⛩️靭負神社が位置している。
🟣元々は長船の大森にあった「⛩️靭負神社」が寛文9年(1669年)2月に崇神天皇社に移設された。
🟡靭負神社 - Wikipedia
🟡長船町 - Wikipedia
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【参照】
長船町(おさふねちょう)は、岡山県の南部にあった町。2004年(平成16年)11月1日に邑久郡内の邑久町・牛窓町と新設合併して瀬戸内市となり、町役場は瀬戸内市役所長船支所となっている。
🟡長船町 - Wikipedia
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黄蕨の会代表の丸谷憲二さんが、⛩️靭負神社(元⛩️崇神天皇社)が崇神天皇の皇居跡であると主張される根拠については、別途詳述する予定ですが、今、その要点を簡潔に述べますと次のようになります。
(1)地名学にもとづく
下記画像は、「邪馬台国は岡山です(黄蕨(きび)の会 丸谷憲二)」から拝借したものです。
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🟡池田家文書の『神社明細帳』に崇神 天皇社が記録されている。
🟡靭負神社が寛文九年( 1669)に崇神天皇社社地に遷座。
🟡崇神6年、今の長船町で宝剣を製造した鍛冶職人が崇神天皇に献上した。
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地元の地名に天王(天皇)、天王原(天皇原)、尾張(尾張大海媛)、豊原(豊鋤入姫、豊城入彦)などが残っている。
🌷尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)は、古事記や日本書紀に登場する崇神天皇の妃の一人であり、大入杵命(大入来命)など4人の子供をもうけたとされています。
🟡丸谷憲二さんの地名学では、「尾張大海媛」は「邑久町尾張」に因む名前であるとされています。
🌷ここからは鈴木超世志の頭に閃いた地名学の応用です。
(あ)大海=瀬戸内海と考えるとマイポイントがひとつ増えます。ヤマト地方の天理市、桜井市の近くには大海はありません。
(い)邑久町の沿革(名前の由来)によると、邑久町の古い呼び名の一つに大来町がありますが、大来町の「大来」と大入来命(おおいりきのみこと)の「大入来」は、「入」があるか無いかの相違です。
大来で生まれた崇神天皇の皇子に依羅(入)を入れ「大入来命」と名付けたと考えると、この地に崇神天皇の皇居があったとする丸谷憲二さんの地名学が信憑性を増し、マイポイントがもうひとつ増えます。
崇神天皇社の住所(長船町長船天皇原)
祇園石天王/日向石神社旧跡の住所(長船町磯上天皇)
瀬戸内市邑久町尾張、邑久町豊原
(2)歴史的記録
下記に列記した古文書に崇神天皇に関する記事があります。何れ、詳細に考察する予定ですが、今回はその一例を挙げます。
『吉備温故秘録』(きびおんこひろく)
江戸時代後期に大沢惟貞が記した『吉備温故秘録』によると崇神天皇社は眼病を患った人々が回復を祈願し、快方に向かったと伝えられる。
(靭負神社 - Wikipedia)
『先代旧事本紀』『岡山池田家文書(神社明細帳)』『和気絹』『日向石神社由緒書』『改訂 邑久郡史 上巻(長船鍛冶由緒書上)』
(3)伝承・遺跡
地元の伝承や信仰も、崇神天皇との関連を示している。
神社周辺での発掘調査や遺跡の発見が、古代の重要な拠点であったことを示唆している。
関連リンク
🟣丸谷 憲二(Facebook)
🟣黄蕨の会
🟣先史古代研究会
🟣日向石神社と石上神社
🟣祇園石天王(日向石神社旧跡)
🟣瀬戸内魅力物語「古代史から見る豊安地名」
🟣瀬戸内魅力物語「百枝八幡宮より見える吉備国の古代史」
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⭕「崇神天皇=扶余王依羅説」(渡来王朝説)を前進させる好機到来!
🌺この「長船町に崇神天皇の皇居が存在した」という丸谷憲二さんの情報が真実なら、「崇神天皇=扶余王依羅説」(渡来王朝説)を前進させることになるため、天地神明の御教導であろうと拝察し、早速WEB地図で確認した所、
長船町長船天王、天王原合戦古戦場跡、天王社刀剣の森などの関連地名がありましたので、串呂で調査すべきと思いました。
⭕そして、崇神天皇の皇居に関する件であるため、「崇神天皇‐扶余王依羅説に挑む!-⛩大依羅神社を発見!(№426)」で既述のように、まず皇大神宮内宮を起点とした串呂を引いて見ました。
すると、まことに神秘的かつ驚異的にも崇神天皇の皇居の存在を昭示すると思われる的確なる地文が多数串線していました。
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