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三浦芳聖伝 50、眞崎大将を見舞う(串呂哲学研究ノート№172)

眞崎大将を見舞う

1、眞崎大将との交流

眞崎甚三郎元陸軍大将は、三浦芳聖の戦前の皇国維新運動時代の最も信頼関係にあった同志でした。

昭和20年(1945年)8月24日、萩村の寓居に於て、天照大御神から御神諭を賜り、切腹自裁を50日間の断飲断食に替え、更に石清水八幡宮に参篭して、世界に二人と無い実証として、真夏の烈日を凝視直拝出来るようになった芳聖が、

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その後のある日、眞崎元大将を訪ねて、以上の経緯を説明し「天照大御神から汝が神皇正統のスメラミコトだと言われた!」と打ち明けると、眞崎元大将は、「私はそれを信じます!」と言われ、芳聖は眞崎元大将と手を取り合って感泣し合ったというのであります。

下記は、三浦芳聖の著書からの引用です。眞崎甚三郎研究の貴重な資料です。

 最後の最後まで三浦家こそ神皇正統家であると大確信を持ちながら永眠されたのが、眞崎甚三郎元大将であります。眞崎大将は二・二六事件で現天王に死刑にせられ様としたが、近衛公のお蔭で助かり投獄されまして、獄舎に於て、「私は今まで地位も名誉も望んだことなく、ただ天子様の為のみを思ってきた、然るに陛下は私を死刑になさろうとされたが、果たして神というものがあるのだろうか」と思われ、断飲断食をせられたのであります。
 そして、ほとんど死んだようになっておられた21日目に観音様の御姿をはっきりと御覧になったのです。その時「自分としては少しの邪心も持たず、至誠一貫してきたが、私の至誠が解らない様な天子様があるものだろうかと言ったら、観世音菩薩は「今の天皇は本当の天皇ではない。本当の天皇は他(ほか)にあるぞよ!」と仰せになった。この事は私の妻にも誰にも今まで語ったことはない。」と私が終戦直後、神皇正統嫡皇孫天津日嗣の天皇であると言って行ったときにそう言っておられました。
 そしてその時は「今も今とて後醍醐天皇の様な天皇がお出ましになられなければ、もう日本はだめだと思っている所へあなたが来て下さった。荒木や山本はあなたが神皇正統嫡皇孫だという事を、すぐには信じないかも知れないが、私は信じる。」と言われました。
(三浦芳聖著『神風串呂』第135号/1966年、5~6頁、改行、句読点、送り仮名を補い数字はアラビア数字に変換するなど編集しました。)

【参照】眞崎甚三郎大将が二・二六事件で投獄された時、断飲断食したことを証する資料が『木戸幸一日記』にありました。

上記の資料(三浦芳聖著『神風串呂』)中、眞崎大将が21日間の断飲断食で観音様を霊視し「本物の天皇は他(ほか)にあるぞよ!」というお告げを受けた傍証になるかと思います。

昭和12年1月12日より抜粋
二時、牧野伯より電話にて、眞崎大将は去月二十八日頃より絶食し、六日頃よりは水もとらずと、子息〔秀樹カ〕を二回許り呼びて、遺言めきたることを云へり、衛戍病院に入院せりと、阿部大将等が面会を求めたるも許されずと(後略)
 (『木戸幸一日記 上巻』535頁上段/1966年/(財)東京大学出版会)

私は、我が国が戦後75年になっても未だに外国の軍隊に占領されている霊的原因は、「皇統の乱れ」があるからだと考えています。眞崎甚三郎大将は、断飲断食を敢行し命懸けで「神の声」を聴いたのです。我が国は神国です。国民は騙せても神様を騙すことは出来ません。

【参照】日本の支配構造⑤表天皇の系譜、昭和天皇は何者か?

観音様と後醍醐天皇
(1)三浦芳聖は、断飲断食中の眞崎大将の前に出現した観音様は、後醍醐天皇の御神霊であると述べていました。
(2)後醍醐天皇御陵は如意輪観音を本尊とする如意輪寺境内にある。
(3)三浦芳聖によると「河合家には後醍醐天皇ご自作の観音様(木造一寸五分・お厨子入り)が一子相伝に継承されていた。後醍醐天皇は戊子年で自ら観世音菩薩の化身と申されて18人の皇子に自ら刻んだ「観音像」をお守りとして授けたと伝承されている。」という。
【参照】尊良親王(再現)を御生み参らせよ!(№24)
【参照】尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂1(№25)

2、危篤の眞崎さんを見舞う

上記のような関係で、芳聖は、戦後も眞崎元大将と主に文通で交流を続けていました。そんな昭和26年のある日、「眞崎さん危篤」の電報に接し、芳聖は門人2名を随行せしめてお見舞に行き延命祭祀を実施しました。

下記は、三浦芳聖の著書からの引用です。

 元陸軍大将・眞崎甚三郎さんとは、昭和2年陸軍士官学校の校長をしておられる当時から実に親子の間がらにも等しい程の昵懇でありましたが、この方は実に高潔な方でありまして、二・二六事件の青年将校あたりが、ああ云う高潔な方が総理大臣になられて日本の政治をやって下さったならば必ず良くなるであろうと要望し、神の如くに慕った人格高潔にして、その風貌は日露戦争の時の総司令官大山元帥の如き方でありました。
 この方が私を深く信頼せられまして、私も又この高潔な人格に深く敬重致しまして昭和2年以来刎頸(ふんけい)の交わりをして来たのであります。
 ところがたまたま昭和26年、私が太陽凝視直拝の行を致して居りました当時、眞崎さん「危篤」の電報を受取りまして直ちに上京致しました処、すでに臨終を告げられ、まわりの者は念仏を申して、カンジヨリで水を口元へ当てており、眞崎さんはもう人事不省におちいって殆ど虫の息になって居られました。
 そこで私は特にその場に立会って居られた医学博士に懇請(こんせい)を致しまして、眞崎さんの枕元で最高の大祓い神事を厳修致しまするや病状一変し奇跡的にも全快を致されまして、その後5年間寿命が延びられたのであります。
(三浦芳聖著『神風串呂』第131号5~6頁/1966年、改行、句読点、送り仮名を補い数字はアラビア数字に変換するなど編集しました。)

3、瞼の母の御影の串呂の実証

お見舞いに行った時に、眞崎元大将の長女「みよ子」さんが芳聖の母親の御影(生き写し)であることが判明し、その神風串呂が解明されました。

まことに不思議な事に、芳聖は、その時「串呂の虫」が飛んできて、「真崎」をはじめとする地名に止り、串呂線上を這って行ったと述べています。

真崎御代

芳聖の母・元子の墓」(神戸市須磨区白川高座)-「御影」(神戸市東灘区)-「御代」(三重県伊賀市)-「坂田順彦家」(愛知県半田市)-「牧平町大門」(愛知県岡崎市)-「真崎」(静岡市清水区)

(三浦芳聖著『神風串呂』第131号6~7頁、昭和41年6月発行)

神戸市高座

下記は、三浦芳聖の著書からの引用です。

 その際、丁度私が祭祀を終わりまして後ろを向いた時に、私の瞼の母親が目に映ったので、これは聖母が後ろにいて私の祭祀を助けて下さったのであると思いましたが、霊眼ではなくて現実の人物であることが分かりました。
 私は早速眞崎さんの奥さんに「この方は?」と尋ねましたところ長女であると云う事でありました。
 「それではこの方は大正六年二黒土星巳年生まれですか?」と尋ねると「そんな事までお分かりですか」と驚かれるので、「いや、実は私の母親が明治14年二黒土星巳年でありましたが、全く瓜二つによく似ておられるからであります。」と言って
 随行していった古澤・鈴木の両名に地図を出させますと、その当時は私の知らない地名は綺麗な虫がどこからともなく飛んで来まして串呂を知らせてくれましたが、その当時もその虫が飛んで来まして全然知らなかった三保の松原の突端の「真崎」という所へ止ったのであります。

清水区真崎

 「こんな所に真崎と云う所がある!」と思わず叫ぶと、九分九厘まで死んだ様になって居られた眞崎さんが聞き耳を立てて「真崎という所があるかぁ」と言われたので皆びっくりしてしまいました。
 そして「串呂の虫」がはって行く処へ糸を引いて見ますと、やがてそれは私の聖母の神戸の墓へ行ったのであります。そして串呂をよく見ますと私の降誕致しました牧平の「大門」即ち三浦皇統家四百六十年間の蒙塵の府であった愛知県額田郡額田町大字牧平字「大門」へピシンと串呂して居ります。

牧平大門

そこで私は「眞崎何と仰っしゃいますか」と聞くと「みよ子と申します。」と申されましたが、ピシッと三重県阿山郡伊賀町の「御代」を串り、神戸市の「御影」という所を串つて居りました。

伊賀市御代

「真崎御代」さんが聖母の生写真、即ち御影(みかげ)であると云う神風串呂であります。

御影

この時、私が48才の時であります。思い起こせば私が10才、聖母が33才の時に生き別れをして、私はお寺へ行ったのでありましたけれども、その瞼の母親を見る心地がして思わず泣いたのであります。
(三浦芳聖著『神風串呂』第131号6~7頁、昭和41年6月発行、改行、句読点、送り仮名を補い数字はアラビア数字に変換するなど編集しました。)


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情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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串呂哲学研究ノート(鈴木超世志)
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