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京都市西京区御陵と松良天皇御陵との神風串呂(№94)
この記事は、神皇正統家極秘伝神風串呂(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。
串呂(クシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した元伊勢クシロの事です。
元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。
地名(地文)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。
ここでは、京都市西京区の「御陵」と愛知県豊川市御油町の「松良天皇御陵」との神風串呂をご紹介し、詳しい解説をしています。
神風串呂(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!
1、古墳時代から準備された天皇の杜古墳
京都市西京区に「御陵」(ごりょう)という地名があります。かなり広域の地名です。この地名は、「西京区御陵塚ノ越町」に「天皇の杜古墳」(てんのうのもりこふん)があることから命名されたと言われています。
天皇の杜古墳は、中世期から文徳天皇(平安時代の第55代天皇)の陵と伝承されていますが、古墳そのものは、古墳時代中期初頭の4世紀末頃の築造と推定され、被葬者は明らかでありませんが、桂川右岸を治めた有力者と見られています。
この事例は、串呂主宰神が、京都市西京区に「御陵」という地名を配置する為に、神風串呂構築計画に基づいて古墳時代の4世紀末頃から準備されていたもので、たまたまここに御陵と云う地名が存在するのではありません。
串呂哲学では、この「西京区御陵」は、松良親王(青木文献)と正良親王(長慶天皇紀略)が同一人物であることを証明するための神風串呂上の重要地文となっています。
今回は、その京都市西京区の「御陵」と松良天皇御陵との神風串呂をご紹介します。
2、串呂哲学の理解を助ける予備知識
始めての方は、下記の記事を参照してください。
3、京都市の御陵と松良天皇御陵との神風串呂
三浦芳聖は、京都市西京区の「御陵」と愛知県豊川市御油町の「松良天皇御陵」とを串線すると、次の様な神風串呂になると述べています。
松良天皇については、松良天皇(正良) (№79)を参照ください。
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「大倉山」(日南町)-「神戸上」(日南町)-「正吉」(真庭市)-「千種川」(佐用町)-「三河」(佐用町)-「御陵」(京都市)-「松良天皇御陵」(豊川市)-「公文名」(菊川市)
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』259頁、現住所に改め新たな研究の成果を盛り込んだ。)
【地文のみ掲載】
「大倉山」-「神戸上」-「正吉」-「千種川」-「三河」-「御陵」-「松良天皇御陵」-「公文名」
【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)大倉山(おおくらやま、鳥取県日野郡日南町神戸上)
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大倉山は南朝正統家を表わす。小倉山は南朝副統・後亀山天王の流れを表わす。ここでは、松良天皇御陵(現在は三浦家墓地)が、南朝正統(神皇正統)家の御陵である事を表わす。
日野郡日南町神戸上の大倉山という住所にも留意して下さい。
(2)神戸上(かどのかみ、鳥取県日野郡日南町)
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神戸は、神は天皇をあらわし、戸は隠す意味を表わすことから、天皇を隠したの意味を表わす地文です。通常は御陵墓を表わします。
日野郡日南町の神戸上という住所にも留意して下さい。
(3)正吉(まさよし、岡山県真庭市)
松良天皇の諱(いみな)正良(まさよし、まさなが)を表わす。
「正吉」-「御陵」-「松良天皇御陵」-「公文名」
この串呂地文から、「松良親王=正良親王」であることが判明しました。
三輪義熈『長慶天皇紀略』によると、「三月十日、富士勝山谷の玉川の宮に於て、皇子誕生。母は、皇太后小室門院。其産室を、宝野の宮と称す。皇子を正良親王と名づけさせ給ふ。」と出ています。年月日は一致しません。
(三輪義熈『長慶天皇紀略』62頁、旧漢字は新字体に改めました。)
(4)千種川(ちくさがわ、兵庫県佐用郡佐用町)
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佐用町三河地区の西側に「千種川」が流れています。これは、「千種文献」を表わす地文です。
青木文献を書き記した青木平馬が千種忠顕の孫であることから、青木文献は、別名「千種文献」といいます。歴史資料としては、千種文献に「松良親王 五井御坊塚ニ納ム」と出ています。松良天皇の御陵に関する文献はこの千種文献に記されてあるのみです。
この串呂線上に「千種忠顕」の子孫や、千種家に仕えた人々の子孫がたくさん住んでいる事にも留意ください。
(5)三河(みかわ、兵庫県佐用郡佐用町)
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上三河、中三河、下三河に分かれている。松良天皇の御陵が三河(愛知県豊川市御油町)にあることを表わす。
(6)御陵(ごりょう、京都市西京区)
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御陵は、文字通り天皇の御陵墓を表わす。
京都市西京区「御陵」は広域の地名で、御陵塚ノ越町に「天皇の杜古墳」が有ります。下記を参照ください。
京都盆地西縁、桂川右岸の山裾に築造された古墳である。中世期から文徳天皇(平安時代の第55代天皇)の陵と伝承されており、古墳名の「天皇の杜」や周辺地名の「御陵」はそれに由来するという。現在までに墳丘を良好に遺存し、1988-1989年度(昭和63-平成元年度)には発掘調査が実施されている。『ウィキペディア』天皇の杜古墳
(7)松良天皇御陵(まつながてんのうごりょう、豊川市御油町筑前ケ谷)

元来は、松良天皇御陵「御坊塚」(おんぼうづか)で、現在は、三浦家墓地となっています(八幡大明神)。すぐ近くに御油の松並木が有ります。北西側から北方に流れている川を「天王川」と言います。
ここは、三浦芳聖の祭祀場の一つで、毎月一回は必ず参拝し、約一時間ほど特別秘法祭祀を厳修していました。

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【参照】松良天皇御陵
(8)公文名(くもみょう、静岡県菊川市西方)
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公文名は、名前を鑑定する重要串呂地文。ここでは「松良天皇御陵」は、確かに「正吉」(正良)の御陵であることを鑑定している。
「正吉」-「御陵」-「松良天皇御陵」-「公文名」
この神風串呂により、「松良親王=正良親王」が判明しました。
【参照】公(おおやけ)には、朝廷・天皇・皇后の意味が有ります。
4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察
「大倉山」-「神戸上」-「正吉」-「千種川」-「三河」-「御陵」-「松良天皇御陵」-「公文名」
この串呂は、千種文献に記載されてある、三河の「松良天皇御陵」は、確かに南朝正統・正良天皇の御陵墓であることを昭示しています。公文名という地文により、正吉という地文が松良天皇の別称(正良)であることを証明しています。実に的確で神秘的な神風串呂です。
松良天皇御陵は、青木文献から松良天皇の御陵墓である事が明白です。松良天皇御陵と公文名を結んだこの神風串呂上に「正吉」「御陵」が存在する事で、「正良=松良」を証明したことになります。下記を参照ください。
三河吉野朝の研究書『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』(中西久次郎、家田富貴男・1940年)によれば、「寛成親王の皇子松良親王は三州五井美吉原に落ち給う。薬師寺建立の開基成り。成龍と号し給う。成龍は応永二十四年五月、御坊に崩ず」(青木文献・原文は漢文)と出ています。
青木文献(別名千種文献)とは、愛知県豊川市御油町欠間の中西家に伝わる、南朝忠臣千種忠顕の子孫「青木平馬」が応永30年(1423年)と31年(1424年)に書き残した覚え書のことです。
正吉-千種川-三河-御陵-松良天皇御陵-公文名
この串呂の「御陵」という地名を構築する為に、文徳天皇の御陵といわれる「天皇の杜古墳」が、古墳時代の4世紀末頃、この地区に造られたと言っても決して過言ではないと考えています。
🔴バックナンバー(総合)
🟡情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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