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💟第19話 遠祖 長慶天皇 登列-衝撃で射撃訓練中に暴発(天照大御神の子育て)

🟡軍隊現役生活は楽勝の毎日

芳聖は、大正14年(1925年)1月10日、豊橋歩兵第18連隊第一中隊に入営し大正15年(1926年)11月30日までの約23ヶ月間、現役兵としての訓練を受けました。

歩兵第18連隊営門跡(『歩兵第18連隊- Wikipedia』)

数えの12歳の頃から睡眠3時間の厳しい生活を自らに課していた芳聖には、一般には逃げ出したくなるような、軍隊生活がさほど苦にならず、他の同年兵たちの「嘆き」をよそに、余裕綽々しゃくしゃく、楽勝の毎日でした。

脚力は、京都時代の新聞配達できたえてあり、号外の出た時など一日に70キロ走った事もあり、10キロや20キロの駆け足など軽いものでした。また射撃訓練は無心になれる楽しいスポーツで、同年兵中では一番的中率の高い名射手でした。


🟡兵隊コンクールで日本一の最優秀兵

芳聖が入営中の大正15年(1926年)、全国の各連隊から下士志願兵を一箇所(名古屋市守山区)に集めて特訓する教修がありました。

教修訓練の成果は「兵隊の成績」として優劣が問われるので、一種の兵隊の能力コンクールでした。

毎日の軍隊生活が余裕綽々しゃくしゃくで、実地訓練も座学も優秀だった芳聖は、連隊長から「下士志願しなくて良いから是非一番になって来てくれ!」と請われてこの教修に参加し、文字通り全国一の最優秀兵として表彰されました。

🔴天照大御神の偉大なる子育ての成果でした。

この教修の教官の中に、長州出身の憂国の士がいて、芳聖に昭和維新運動への啓発がなされるなど天照大御神の御子教導計画に基づくご配慮もありました。

🟡遠祖「長慶天皇」皇統譜に登列

除隊する日も真近になった、大正15年(1926年)10月21日の朝、芳聖が兵舎で新聞を読んでいたところ、そのトップ記事に、長慶天皇登列の詔書が渙発されたニュースが載っていました。

その内容は、「長慶天皇は、これまで在位がはっきりせず、歴代から外れていたが、在位の事蹟が明瞭になったので、第97代後村上天皇の次の天皇として皇統譜に列する」という宮内省の発表でした。

長慶天皇ヲ皇代ニ列セラルルノ詔書
長慶天皇登列の詔書- Wikipedia

長慶天皇(長慶院法皇)は、南北朝時代の動乱期(三浦家の記録によれば、西暦1342年~1409年)に活躍した方であるためか記録が少なく、その御事蹟については不明な所が多く、江戸時代から在位説と非在位説がありました。

大正時代の研究者で武田祐吉たけだ ゆうきち八代国治やしろくにはる両博士の新資料発見と研究で、有力なる在位説の発表があり、特に八代博士の『長慶天皇御即位の研究』は決定的な在位説として評価され、宮内省も認めざるを得ず、大正15年(1926年)10月21日、大正天皇の勅令として発表されたのでした。(『長慶天皇- Wikipedia』要約)

三浦家系譜によれば、長慶天皇(長慶院法皇)は、第百代大宝天皇の外祖父に当り、また第九九代松良天皇の養父且つ岳父がくふであり、応永16年(1409年)の秋、播州ばんしゅう西山で崩御したことなどが記録されてある重要な遠祖の一人でした。下記の系図を参照下さい。

🟡衝撃のため射撃訓練中に暴発

この時、三浦家一子相伝の「三浦家系譜」と「日本皇統譜」との接点が突如として浮上したので、この日の宮内省発表に、芳聖は衝撃を受け動揺したのです。

三浦家にとって、長慶天皇(長慶院法皇)は、超重要な遠祖であったので、芳聖は、長慶天皇登列のニュースに驚いたのでした。

この時の衝撃が如何に大きかったかは、その日に行われた、連隊の特別射撃訓練中に、名射手を以て任じていた芳聖が、的をはずして暴発し、中隊長から「本来ならば営倉入りだぞ!」と厳重注意を受けたことで推察できます。

🟡日本史の誤謬を糺すことを誓う

参考までに三浦家系譜の該当部分を掲載します。

🟠長慶天皇(長慶院法皇)
応永16己丑年つちのとうしどしこうず。67才。播州ばんしゅう西山にほうむる。三州さんしゅう五井ごい一本木いっぽんぎ万福寺跡まんぷくじあとに遺品を納めて正陵となす。(数字はアラビア数字に変換し、書き下し文に改めた)

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』

三浦家系譜には、前述の南朝正副両統譜のように長慶天皇は吉野朝の後村上天皇の後継者であり、神皇正統第98代の天皇は小松天皇(興良)と記録されてありました。

小松天皇(興良)が、遠州秋葉城の戦いで敗れ、捕えられて京都で獄死したため、長慶天皇は、弟の熈成のりなり親王を吉野朝の天皇に仕立て、小松天皇皇后で実質上の天津日嗣の御子であった元子内親王の後添皇夫のちぞえこうふとなりました。

長慶天皇は、小松天皇の名代として松良天皇の養父となり摂政となり、松良天皇から太上天皇の尊号を贈られたと記録されてありました。

また、長慶天皇(長慶院法皇)の皇女綾姫は松良天皇の皇后であり、第百代大宝天皇の外祖父でもある長慶天皇(長慶院法皇)が、新たに皇統譜に登列されたので、芳聖の受けた衝撃は大きかったのです。

🔴このとき、芳聖は、日本史の出鱈目でたらめさを覚って、その誤謬を糺すことを心に誓ったのです。

💖長慶天皇登列の時期、大正15年(1926年)10月21日が、11月30日に芳聖が現役を除隊する約40日前であったのは、大御神の御子教導計画通りであったと拝察しています。

💟天照大御神の御子教導計画に基づく神謀援慮しんぼうえんりょにより、遠祖 長慶天皇が皇統譜に登列になり、衝撃を受けた三浦芳聖は、日本歴史の誤謬を糺すことを心に誓いました。

💟第20話 日曜院の住職に就任-遠祖の御陵探し始まる
🟢天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録


🍀祈り
全世界の全人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楽しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向上の道を歩み、この世に生まれて来た使命を全うし、大宇宙の進化と発展に寄与させて頂いておりますことに心から感謝いたします!


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🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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