南朝正統皇位継承論5-三河吉野朝の伝説
三河吉野朝の伝説
インターネットで「三河吉野町」について検索していたら、下記の記事が出ていたので転載させて頂きました。豊川市の「市勢要覧 昭和28年版」よりの引用だそうで、よくまとまっています。
1、三河吉野朝とは
三河吉野朝「御津府」の痕跡を残す地名「御所」「都橋」「御馬」「玉袋」「剣(つるぎ)」「加美(かがみ)」が見られる豊川市御津町下佐脇一帯の地図(クリックで拡大します)
上記の出典は下記の書物だと思いますが、山口保吉氏の書物を拝見すると、三河吉野朝の始まりは「興国」と改元された1340年の事で、北畠親房が幼帝後村上院を補佐して新宮殿建設中は三河多賀の里(蒲郡市相良町)を行宮とし、完成後は御所宮(御津町)にお住まいになったと記されてあります。
山口保吉『三河吉野朝の研究』(山口究宗堂、1940年)
山口保吉『芳花鶴水園の聖地』(山口究宗堂、1943年)
中西久次郎・家田富貴男『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』(三河吉野朝聖蹟研究所、1940年)
2、三河吉野朝は実在した
三河吉野朝が存在した事は、残念ながら現在の歴史学会では認められていません。そこで先ず「三河吉野朝の崩壊」(青木文献)、「前帝長慶院と皇太后富士谷に潜行」(長慶天皇紀略)の二つの文献を引用して、確かに三河に南朝の御所が存在した事を確認する所から話を進めて行きたいと思います。
(1)青木文献
青木文献には正平23年(1368年)3月後村上帝崩御後、即位された長慶天皇は、吉野から三州御所宮に移住し、法皇になって明燈院(豊川市御油町)から望理原(豊川市小田淵町)と呼ばれる錦門御堂(王田殿)に移られ、天授5年(1379年)9月20日に崩御されたと記録されています。
望理原王田殿のあった「豊川市小田淵町」
青木文献(別名千種文献)とは、愛知県豊川市御油町欠間の中西家に伝わる、南朝忠臣千種忠顕の子孫「青木平馬」が、応永30年(1423年)と31年(1424年)に書き残した覚え書の事です。(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』中西久次郎・家田富貴男/1940年)
(2)長慶天皇紀略
『長慶天皇紀略』には、上記の「青木文献」の記事と符節をあわせる如く、天授5年(1379年)8月15日に、前帝長慶院と皇太后が摂津国浪花港より、海路伊勢に渡幸し、9月5日、密かに富士谷に潜行し小室城宮下の舘に入られたという記録が有ります。
『富士谷 長慶院仙洞御所略図』より一部を転載させて頂きました。
『長慶天皇紀略』とは、三輪義凞が「宮下文書」の中から後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、その他についての関連資料をまとめて大正13年(1924年)博進館から出版された著書のことです。
宮下文書(みやしたもんじょ)とは、富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)の北東本宮小室浅間神社(旧称阿曽谷宮守神社)、宮下家に伝来する古記録・古文書の総称。「富士古文書」「富士古文献」などとも称される。(『ウィキペディア』宮下文書)
富士谷御所(小室城宮下の舘)のあった「富士吉田市大明見」
【参照】長慶院法皇
(3)八板千尋『大楠公秘史』
然るに最近発見したる伊良湖岬常光寺調査資料に依れば、正勝は金剛山の戰に敗れて十津川方面に逃れ、大和より伊勢を經て渥美半島伊良湖岬に渡り、同地は烏丸家の守護地にして烏丸資任卿、日野有光卿等と力を合せ弟正秀、正元、我子の義和と共に朝權の恢復に盡せしも宗良親王幾くもなく薨去し給ひ、王子尹良親王征東將軍と成らせ給ひしを以て之を奉じて三河國に三河吉野朝建立を相圖り、南朝中興天皇を奉戴し(後亀山天皇皇子小倉宮の第三皇子尊忠王)安穏要害の地、伊良湖岬の別天地に行宮を祕營し、天皇を迎へ奉護す、中興南朝は二代、十有六年にして終焉を告げしが、正勝は小久保輝信と名を改め、長祿三年十月九日九十五歳の高齢を以て此地に歿し、常光寺に葬られ法名を天光院殿上輝信大居士と謚す、同寺に墓碑あり、後裔は當代に至る迄歴然と續き居れり、正勝の位牌其多数多の書類等あり。是れに依り正勝が伊良湖岬に烏丸卿を頼り南朝再興に活動したる事歴と父正儀が三河國望王里郷の行宮に、長慶天皇を奉衛したる事、諸公卿の盡忠等對照し當時の全貌を窺知し、大に首肯せしむるものあり。(八板千尋『大楠公秘史』143頁)
(南北朝時代を斬る!漁る!萌える!)
(4)藤原石山氏の解説
上記の二つの文献により、長慶天皇が即位後、三河に住んでおられたことは間違いないと思われますが、「三河吉野朝について」南朝史学会の藤原石山氏の解説が有りますので見て行きましょう。〔 〕内は編集者、数字はアラビヤ数字に変換し誤字は訂正しました。
【参照】宣政門院懽子内親王、懽子(きんし・よしこ)内親王
(5)結語
『青木文献』(愛知県豊川市)と『長慶天皇紀略』(山梨県富士吉田市)の二つの古文書が、符節をあわせる如くに「天授5年(1379年)9月」に三河で戦乱があり、『青木文献』では、長慶天皇が崩御され、『長慶天皇紀略』では、富士谷の御所へ潜行されたと出ています。
藤原石山氏の解説にあるように、長慶天皇は、元中2年(1385年)9月10日紀伊の天野行宮に於て丹生明神に戦勝を祈願され「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めたことが明らかになっていますので、
長慶天皇は天授5年(1379年)9月三河の御所に住んでいて戦乱に巻き込まれたが、宣政門院懽子内親王が身代わりになり、辛くも難を逃れて富士谷に潜行されたことが明らかになりました。
また『大楠公秘史』により、「正勝が伊良湖岬に烏丸卿を頼り南朝再興に活動したる事歴と父正儀が三河國望王里郷の行宮に、長慶天皇を奉衛したる事」などが明らかとなりました。
こうした事から、三河吉野朝は確かに存在したと断定できると思います。
ここで、注意を要するのは、「懽子内親王」という女性が身代わりになって亡くなっている事です。藤原石山氏の解説のように、天授5年(1379年)9月当時、三河吉野朝の主人公は北陸朝廷の皇位継承者「小室門院元子内親王」だったという事ではないでしょうか。
【参照】皇位継承者を昭示する「小室門院元子内親王の神風串呂」
⛩皇大神宮内宮と妙覚塚の神風串呂(№73)
「鏡池」-「小松」-「大神」-「大己屋山」-「愛宕山」-「⛩皇大神宮内宮」-「小室門院御陵・妙覚塚」
御正体山と妙覚塚との神風串呂(№74)
「小室門院御陵・妙覚塚」-「聖一色」-「御正体山」-「天覧山」-「大門」-「女体山」-「犬仏山」-「大黒山」-「日隠山」
一宮市の串作と妙覚塚との神風串呂(№78)
「小室町」-「串作」-「神殿」-「大日」-「小室門院御陵・妙覚塚」
【参照】小室門院元子内親王(№70)
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